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ほぐせば草かんむりの下に八十八

昨日は八十八夜だった。
昔は日没が一日の始まりだったから、夜を基点にして日を数える。
だから、八十八夜というのは、今でいう八十八日と同じ意味だ。
そんなことを知らなかった幼き頃、なぜ八十八「夜」なのか、「夜」に何かがあるのか、などと考えたものだ。

八十八夜とは、立春から数えて八十八日。
旧暦では立春が一年の始まりだったから、そこから数える。
暦の上では、この日からもう夏。

よくいわれるのが、八十八夜と農作業との関係だ。
農家では八十八夜を待って田植えを始めるという。
「米という字をほぐすと八十八になるので…」という説明もよく見るが、まさか「米」の字がそう見えるから八十八夜を田植えの日にしようなどということはあるまい。
自然を相手にする農業とはそんな甘いものではない。
八十八夜は霜が降りなくなる目安であり、だからその日から農作業を始めよう、ということだ。

夏も近づく八十八夜
野にも山にも若葉が茂る
あれに見えるは茶摘ぢやないか
あかねだすきに菅の笠

文部省唱歌「茶摘」

田植えだけでなく、茶摘みも八十八夜を目安として始められた。
霜の心配がないのは米と同じだが、茶はまさに八十八夜の頃に薄緑の新芽が顔を出すから、茶摘みはこの日を逃すわけにはいかないのだ。
それに「茶」の字だって、ほぐせば草かんむりの下に八十八が潜んでいる。

愛媛で20年暮らした山はお茶どころだった。
急峻な山間の村だったから、茶畑と聞いて想像するような一面の広大な景色とはほど遠く、え?どこ?と探さなければ目に止まらないような小規模な畑がぽつぽつと点在した。
農作業の効率からいえば大変に不利な地域だったが、斜面ゆえに水はけもよく、さらに昼夜の寒暖差から生じる霧を絶対的に必要とする茶にとってはこれほどの好適地もまたとない。
小規模な畑だから無農薬で栽培ができ、無農薬だから茶の木が自らがんばって香りが高まる、という本来の農業が脈々と続いた。
当地の茶は、実にうまかった。

八十八夜の頃の茶は旨み成分がいっぱいだ。
これを新茶と呼ぶ。
でも新茶は飲み過ぎご用心。
ポリフェノール類がまだ未熟で刺激が強く、腹を壊しやすい。
新茶は香りを楽しむもの。
本当にうまい茶は、梅雨が明けて「新茶」のラベルがつかなくなるまで待つべし。
そんなことを20年のお茶どころ暮らしで学んだ。

愛媛のあの地の新茶、今年の出来はどうだっただろう。
えもいわれぬあの香りが懐かしい。

(2023/5/3記)

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