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トム・リプリー選手権:本当のトム・リプリーに一番近いのは誰だ?

*いろいろネタバレ含みます。小説「太陽がいっぱい」、映画「太陽がいっぱい」、映画「リプリー」、ドラマ「リプリー」のネタバレをされたくない方は回避ください。
*各作品に想い入れのある方で否定的意見を受け入れられない方はご遠慮して頂いた方が無難です。
*個人的な感想をダラダラ書いています。簡潔に書くということができない人間でスイマセン。暇つぶし程度に読んで頂けたら幸いです😅。


ネトフリドラマ「リプリー」のトキメかなかった3つの理由

NETFLIXのドラマ「Ripley リプリー」を観ました。4月頃の話なのでもう結構前なんですけどね😅。

「異人たち All of Us Strangers」で注目したアンドリュー・スコットが、パトリシア・ハイスミスの代表作「The Talented Mr Ripley」の三度目の実写化に主演するというので楽しみにしていました。少し前にハイスミスの伝記映画も観て、それについての記事も書き、個人的に関心が高かったのも理由です。

その時の記事↓

そして観ていたのですが…う~ん、どうにもこうにもあまり惹き付けられなかった🤔。観ていてワクワクするというか、トキメキ、イイな~このドラマ!…みたいな想いが全く湧かなかったとでも言いましょうか…。


トキメかなかった理由➀

その第一の理由として、まず前二作であるアラン・ドロンの「太陽がいっぱい」、マット・デイモンの映画「リプリー」という映画を観ているので、多少違う部分があるとはいえ大筋は知っているから。

こればっかりはもうどうしようもないですね。ネタバレ知ってるのと知ってないのとではワクワク度は違って当然。それもクライム・サスペンスですし。逆に初めて「リプリー」作品に接した方は十分楽しめたのでは?

ただこの二作はラストを原作からは結構改変しているので、ただただドラマ「リプリー」のラストがどうなるのか?原作準拠なのか?(原作に最も近いとは聞いていた)そこだけが見続けた理由。それだけを知りたいがために全8話、約8時間。
映画なら2時間ほどの我慢で済んだのに、8時間はちょっとキツカッタ😅。

(注:ここ以降三作品を、「太陽がいっぱい」(原題:Plein Soleil 英題:Purple Noon)」、映画「リプリー」(原題:The Talented Mr.Ripley)、ドラマ「リプリー」(原題:Ripley)と書き表しますので了承ください)

トキメかなかった理由②

そして私的に観ながら何度も好意的に観ようと思いながらも、ず~っと違和感が払拭できなかったのは…キャラクターたちの年齢!!

最初アンドリュー・スコットがリプリーをやると聞いて、てっきりシリーズ化されている原作「リプリー」の他の作品(「贋作」「アメリカの友人」「リプリーをまねた少年」「死者と踊るリプリー」と続きます)、主人公トム・リプリーの晩年の話を演じるのかと思ったほど。
しかし蓋を開ければ、前二作と全く同じ。アラン・ドロンもマット・デイモンも20代の若者の時にリプリーを演じていたわけで、ほぼ50歳のアンドリュー・スコット(47歳)が演じているのは違和感しかなく、何とも言えないモヤモヤ、しっくりこない感がどうしても払拭できなかった。

更にはディッキー役のジョニー・フリン、マージ役のダコタ・ファニング、フレディ役のエリオット・サムナーもな~んか全然魅力的に見えなかったんですよね。

とにかくキャスティングが全く自分的にしっくりこなかったところがトキメかなかった理由②です。

トキメかなかった理由③

もう一つモッタイナイと思ったのは、モノクロ映像
これは犯罪映画なのでモノクロ映像がピッタリ!…なんて意見も見かけました。

確かにフィルム・ノワールネオ・ノワール感を用いることでヒッチコックのようなクライム・サスペンス風味を高めたい気持ちは理解できるのです。

それと最終話で、トムが”トムとして”ラヴィ―二刑事と対面する時、出来るだけ顔をハッキリ見せない照明のトリックを使います。そこでカラーだと直接対面してるのにバレないということの違和感が強くなる。だからここでモノクロにしたことが利いてきて、あの扮装でも誤魔化されることもアリかもな?と視聴者に思わせるにはある意味納得できる選択理由だとは思います。

ですが!!実際にナポリ周辺、アマルフィ海岸を訪れたことのある人なら共感して貰えるだろう、あの光あふれる色彩豊かな南イタリアをモノクロで描くなんて本当に勿体なさすぎるし、あの土地、あの場所が持つ美への冒涜!!とまで私は感じてしまったのでした。(←オーバーな😅)

ということで、私の過去の旅行写真を引っ張り出してきました。
アマルフィ海岸にはナポリの南ソレントから崖の上を走るバスに乗っていって、所々崖の下にこんな感じで町が広がります。
↓これは最も美しいと思ったポジターノの町。上の崖下にバスの停留所があって、この建物の間の細い路地階段をビーチまで下りてきます。

北イタリアのチンクエテッレもそうですが、
漁師町というのは海から自分の家がわかるようにカラフルな家にすることが多い。
この写真は背後の山の雄大さが際立って、
いかに風光明媚な場所か分かって貰える気がします。

そして海辺の町特有の光あふれる眩しさ。ビーチにはカラフルなパラソルの花が咲く。

路地を歩いていると、こんな鮮やかで真っ赤なチリがあったり。
リモンチェッロという黄色いレモンのリキュールの瓶詰
(後ろの棚にありますね)があったりとカラフル。

こちらはアマルフィの大聖堂。観光客でにぎわってます。
ドラマ「リプリー」の舞台のアトラーニはアマルフィからさらに東側に行った町。私は近くのラベッロという崖上の集落にも行きましたがアトラーニは行ってないので残念。

アマルフィは少し華やかさではポジターノに負けるかな?
リゾート地というよりももう少し質実剛健な歴史ある海軍都市といった趣き。

アマルフィの路地でもこんなカラフルなタイルやお土産物が。

斜面で土地が無いのにレモン畑があったり、とにかくレモンが名物。
サッカーボールぐらい大きいレモンも売ってたりする。

ローマみたいな都会だけが舞台ならまだ納得できるのですが、アマルフィ海岸にあるという架空の町モンジベロ(ドラマ「リプリー」では実際にある町アトラーニに改変)も、カンヌ、モナコの近くにあるリゾート地サンレモも、水と古い建物のコントラストが美しくどこも絵になる町ベニス(冬は陰鬱な天気も多いのだろうけど)も、すべてモノクロにするのはやはり納得できないというか、つくづく勿体ない。

それで、そのノワール感でイケてるでしょ?スタイリッシュでしょ?という制作側の意図が次第に悉く鼻につきだしてしまったんですね…。←これは私自身の問題です(;^_^A。

この辺りをきっかけにして、私が段々斜に構えて見るようになってしまったのか?どうもいろいろ鼻につくようになってしまった。

何度も映し出される螺旋階段→リプリーのソーシャル・ステイタスを登りたい願望とスパイラルのように負の連鎖で犯罪を繰り返す彼の心理のメタファーと考察しましたが、いかんせんシツコイ!!www

何度も意味ありげに出てくるローマのアパートの大家の。何かしらキーアニマルとして、リプリーを窮地に立たせたり、逆に助け舟を出す役割を果たすのかと期待したけど…ただ見てただけw。猫が血痕の上を歩いて血の足跡が付いた→リプリー大ピンチ!?と期待したけど、大家はネズミを獲ったんだと勘違い。あれだけ引っ張った猫の存在がその程度で終わったことに拍子抜けでした。ちょいちょいリプリーの不安を煽るネタを差し込んでるんだけど、どれも取ってつけた感が強いんですよね。

大家の女性も物凄く時間を割いて描かれていたから注目していたけど、これまた期待したほど見せ場がある訳でもなかった。(原作ではもっとマイナーロール。ただこのドラマでは彼女当ての手紙がディッキーの死の真相を想像させる手助けとなっているので意味はあったんだけども…(原作ではディッキーが遺書を書いたように装う))

ディッキーの殺害も、フレディの殺害も死体処理まで30分近くかけて描写してる。監督は「殺すのは一瞬だけど後始末の方がよっぽど大変」ということを話していたそうで、その部分に力を入れ、ディテールにもこだわって撮影したらしい(原作と見比べるとかなり膨らませているのがわかる)。
だけどその割にフレディの血痕を階段中に付けまくってアッピア街道まで死体遺棄に行き、帰って来てから気付いて払拭するとか…雑過ぎません?フレディを車に入れた段階ですぐ立ち戻って拭くくらいしますよね?足もって階段引きずりおろして、階段にベタ~っと延々ついた血痕を見てないわけがないのに。それと翌日に拭き残しがあったり、スゴイ雑。昨日今日突然犯罪者になったならわからんでもないけど、NY時代から長年犯罪に手を染めてきた人間なのに。

原作にはないカラヴァッジオの絵が印象的に出てくるのも、殺人を犯して逃亡した画家とリプリーを重ねているのもわかるし、最後のトリックのヒントを与えたという伏線回収もなるほど!とは思ったけど、いかんせんディッキーがカラヴァッジオを好きという設定はちょっと強引だった気がする。

カラバッジオのWikiを読みましたけど、素行が悪い荒くれもののカラバッジオとリプリーのキャラも被らない。そして逃亡の後、改心し恩赦の為にローマへ向かう途中で病死したカラバッジオと、全く悔い改めることなく逃げ続けたリプリー。キャラとして大して共通点は無い。
ディッキーはピカソの絵を飾っていたり、彼の好みやスタイルはもっと近現代のモダンで抽象的な絵画寄りのはず。なのにルネッサンス後期?の写実的なカラヴァッジオが出てくるのは少し唐突な感じがしてしまうんですよね。過去の画家全般にリスペクトがあると言われれば仕方ないけど。ここに監督の”どうだ~この偉大な画家を使った伏線の張り方スゴイだろ~”的な自己陶酔感を感じると同時に、視聴者は画家のことなんて大して知らないだろうという侮ってる気もしないわけでもない。それがちょっと個人的には気に入らなかった(苦笑)。

なんだか大仰に時間かけてやってる割に雑だったり、拍子抜けだったり、浅かったり…。

とにかく気になりだしたら、イチイチ勿体ぶったオシャレ感とサスペンス感だけが強調されてるだけで、その実、中身は案外薄いという残念な展開。8時間なんて長い尺をつい貰ったもんだから無理矢理余計なもの(監督の趣味)を入れ込んだような気がしてならない。

評価している人の意見ではビジュアルがキレイとか、ディテールのつくり込みを賞賛しているのも多いんだけど、確かに画角にこだわってるし、ディテールにこだわってるのもわかる。しかし必要以上に時間かけてボートとの格闘シーン(ロープがほどけないから火をつけて切るとか、リアリティはあるけど、そんな詳細要る?のちの伏線でもないし)や死体運び、そこに階段や猫とか余計な要素を何度も入れ込んで、冗長さは否めない。微妙なところだとは思うけど、監督のこだわりが、私にとっては独りよがりの自己満足の領域に突入してしまっていてウザい感じが強かった。
あと、こだわる部分の丁寧さと、こだわってない部分の雑さのアンバランスさも気になったかな?

ということで以上が、私がドラマ「リプリー」にトキメかなかった理由でした。少し辛辣すぎたかな?一個人の感想なのでどうぞご容赦ください。


トム・リプリー選手権:本当のリプリーを探して

しかし、今回このドラマを観て、そもそも原作のリプリー像とはどういう人物なんだろう?ということが非常に気になりだしたのでした。

「太陽がいっぱい」映画「リプリー」ドラマ「リプリー」も主人公トム・リプリー像が微妙に違うんですよね。ここまで解釈によって変わる主人公というのも珍しいのでは?

三作品の私なりのリプリー像を書いてみるとこんな感じです。

「太陽がいっぱい」のトム・リプリーは、内に貧しい出身だという暗いコンプレックスを抱えながらも自分の魅力を自覚し、積極的でどちらかというと陽キャなイメージ。女性にだってガンガンボディ・タッチするし、小さいことにクヨクヨ悩んだりはあまりしなさそうで根拠のない自信に満ちている。殺人を犯しても悔やむことなく、上だけ目指す貪欲な犯罪者という感じ。

映画「リプリー」のトムは、一転して陰キャオーラ全開。ゲイ設定を前面に出してる作品なので、そのゲイ自認から基本内向的。しかし一方で世渡り上手な面も持ち合わせており、その二面性が面白い。そして殺害したディッキーに添い寝したり、原作に無いキングスレー殺害も苦悩で泣きながらしたりする。殺したいわけじゃないのに…という悔恨の念が絶えずあるナイーブな人物になっている。とはいえ、自分の意志に反して犯罪を起こしてしまう自分って”悲劇のヒロイン!”的な被害者意識強めのヤバさはあったりする(←いやいや自分で起こしてますけど…ってツッコミ入れたくなる部分)。

ドラマ「リプリー」のトムは、陰キャなのは勿論だけど、とにかく何考えてるのか分からない不気味さが一貫してある。感情があまり無い感じ。映画「リプリー」のトムが感情の起伏が豊かなのに比べて、コチラはフラット。淡々と殺しをするし、淡々と後処理もする。アラン・ドロンのようにギラギラした欲望も見えなければ、マット・デイモンのような女々しさもない。そのどちらかというと”無”に徹した役作りが、私にとっては無味乾燥で味気ないものに感じてしまったので、ドラマ「リプリー」がつまらなく見えてしまったのかもしれない。そういうアプローチなのはわかるんですけどね。

ということで、ハイスミスの原作「The Talented Mr.Ripley」を読んで、ハイスミスが作り上げたトム・リプリーとはどんな人物だったのか?そして三作品のトム・リプリーの中でどの作品が一番原作のリプリーに近いのか?を考察してみたいと思います。ついでに他の主要キャラたちも。

で、ちょっと比較のために画像を並べてみました。
(クリックするとある程度は拡大します)
俳優名と当時の年齢も添えて。
左の詳細説明の欄、字が小さくて老眼にはキツイわ~って方、この後文章で書いていくので無理して読まなくても大丈夫です!

原作におけるトムとディッキーは25歳。
マージとフレディの年齢は出てこなかった…はず(見過ごしてたらスミマセン)。

原作のトム・リプリー

原作のトム・リプリーとはどんな人物なのか?

まずは容姿から。

*トム・リプリーの容姿

アンドリュー・スコットは普通の47歳よりは若見えかもしれないけど
流石に20代には見えませんよねぇ。

年齢は25歳

背丈はディッキーと同じくらい。原作では”six feet one and one half”とあり、センチに換算すると6'1.5 =186.69 cm。結構な高身長。
体重はディッキーより5キロくらい少ない→ディッキーに似せるために少し太ろうとしたりする。
原作ではリプリーが155ポンド=70.3kg、ディッキーが168ポンド=76.2kg
という描写がありました。

186㎝で70kgはかなりガリガリですよね。

髪の毛は明るい茶色(もしくは茶色っぽいブロンド)。
最初にモンジベロにやって来た時に幽霊みたいな白い肌だと恥じていた。

ということで、容姿的に一番寄せているのは映画「リプリー」のマット・デイモンだと思います。ただ年齢はアラン・ドロンがバッチリ一緒の25歳、体格も細身なのでそこは軍配が上がる(しかし黒髪✖褐色の肌✖)。ジュード・ロウのディッキーよりガッシリ体型だったデイモンはそこが少し原作のイメージとは外れるかな。

ちなみに各俳優たちの身長も調べてみると、
アラン・ドロンが177㎝、モーリス・ロネが181.6cm
ジュード・ロウが178㎝、マット・デイモンも178㎝、ここは同身長なので原作通り。
アンドリュー・スコットは173㎝、ジョニー・フリンは178㎝
5センチ身長が違ったら、対面したときの印象は違ってくると思うんですけどね。

映画「リプリー」のトム役、最初はマット・デイモンではなくレオナルド・ディカプリオにオファーが行ったらしい。映画公開時の1999年に25歳だったディカプリオ。「タイタニック」の後なので多少体格がよくなっていたけど、「Total Eclipse 太陽と月に背いて」の頃のイメージだとまさしく幽霊みたいな色白だし、茶色っぽいブロンドだし、ジュード・ロウよりも線が細いというかペラペラな体型だし、まさにピッタリだったんですよね。だから当時マット・デイモンの配役に異議を唱える意見がチラホラあったのも納得です。←配役というよりオムツみたいな緑の海パンがヒドイ!って意見が多かったのをよく覚えてますw。

原作のリプリーは港湾の肉体労働でミカン箱を運ぶ仕事をしようとしたが一日でダメになった経験がある。マット・デイモンの筋肉質の体だとそれぐらい普通にこなしそうだけど、若い頃のディカプリオのペラペラな体だと肉体労働には耐えられなさそう。原作リプリーの設定である186㎝で70kgを考えると、やはり容姿的には183㎝のディカプリオが一番近かったのかなと。
ただそれだと178㎝のジュード・ロウより高くなる。ディッキーが高くなるのはトムが憧れる=見上げるという関係からアリだと思うけど、ディッキーが低くなるのはちょっと見下す感じになってしまうからバランス的にNGかなぁとは思いますね。実際「太陽がいっぱい」もドラマ「リプリー」もディッキーの方が背が高いですし。

マット・デイモンのリプリーも良かったけど、ディカプリオがどんなリプリーをするのか見てみたかったなぁ。でもこの頃はタイタニック人気で一気にアイドル俳優になってしまい、ゲイ役を再びするのも抵抗あったのかも(ドラマ「リプリー」のようにゲイ要素抑えめならオファー受けてたかな?)。
しかし数年後の2002年にリプリーのように犯罪を犯しては上手く逃げるという詐欺師の役を「Catch me if you can」で演じているわけで(これは実話ベース)、実は結構やりたかったんじゃないんですかね?

あと原作でのリプリーの顔、本人による描写はこんな感じ。
”世にも冴えない、誰の記憶にも残らない顔だとつねづね思っていた。自分でも不思議だったが素直な目つきで、どこかおびえた色もあり、それはけっして消せなかった。まさしく世間に逆らうことなく生きてきた男の顔だという気がした。”
これを踏まえると、アラン・ドロンはありえない。ハンサムすぎます。
マット・デイモンとアンドリュー・スコットはいい勝負かな。どちらも街で歩いていてハッと目を引くほどではない。
ただ目ですかね?アンドリュー・スコットは目力というか、パグみたいにちょっと涙目みたいなあのクリッとした目は印象に残る気がします。おびえた色も確かにある。一方でマット・デイモンの方はより顔の印象が残らない工夫をしていた気がします。それはメガネ。メガネのかけ外しで印象が定まりづらかったし、雰囲気も変化した。(原作ではメガネかけてるという描写は後半ベニスで伊達メガネを購入して以降。なので少し設定が異なる)

ということで、他人になりすますということがキーであるこの物語において、印象に残らない顔ということの方が重要なのでマット・デイモンの役作りを評価したいかなと思います。ただ、メガネかけて笑った顔がときどき柴田理恵に見えるんですよね~www(私だけ?)。

総合的に考慮して、容姿的にはマット・デイモンに軍配!
そもそもの身体的特徴+役に寄せる努力も感じる。
身長もディッキーのジュード・ロウと揃えてるし。惜しむらくはもう少しペラペラだったらよかった。しかしゲイ要素強めの内容でゲイ受けを狙っていたという意図があったのなら、あのちょいマッチョ体型は正解だったのかもしれません(笑)。

申し訳ないけどアンドリュー・スコットは目におびえた色があるぐらいしか評価ポイントがない。
年齢✖ 髪の色=黒髪✖ 肌の色:カラーで実物見てるから余計だけど、日焼けサロンで焼いたかタンスプレーで染めたかのような褐色✖ 体型:細身というより中肉中背のおじさん体型▲。同じイギリス人ゲイ俳優ならベン・ウィショーぐらいの体形がよかったかな。

まあ容姿的なことは作品の内容にそこまで影響があるとは言えない…という意見もあるかもしれない。←私はキャラ造形におけるディテールはそこから性格等にも反映されると思うのである程度は重要だと思う派です(時と場合によりますが)。特に白人の18~25歳というのは、確実に”若さ”という魅力が目に見えるかのように存在し身に纏っている時期なので、この年齢設定には意味があると思う。

だからこそドラマ「リプリー」の、各場面のディテールへのこだわりがある割にキャラ造形のこだわりの無さとのギャップが気になるんですね。原作に忠実にキャラ造形をこだわりたいなら、どう考えても50歳近い俳優は無理がある。死体処理行程の細部よりキャラ造形にもっとこだわって下さいよと。

それと25歳なら少しぐらいおっちょこちょいなことをしても違和感は少ないですが、50近くのおっさんがおっちょこちょいなことしたり(しかもNYで長年犯罪をソツなくこなしていた人物なのに!)、ポーターに荷物を運ばれてチップを請求されてムッとしたり(あの描写、原作にはない。原作のトムはイタリアの習慣を事前に本で勉強し、用意周到にチップを二段階で用意しているほど←二回でダメなら無視)、若いと気にならないことも50歳近くだとムリがあると思える場面が多々あった。その部分をユーモアだと好意的に見てる意見もあったけど、私はダメでした。不気味なおっさん設定に急にカワイイおっちょこちょい、テヘペロ👅感をブッこんでくるみたいで違和感が拭えなかった。作品のトーンがチグハグな感じ。

ということで次は、原作のトム・リプリーはどんな性格のキャラかということです。

*トム・リプリーの性格

ここで犯罪や殺人を重ねるリプリーはサイコパスとかソシオパスとか、その辺りなんじゃないの?とは皆さん考えると思います。

まずはその違いを明確にして、原作から読み取ったリプリーがどちらに当て嵌まるのかを考えていきたいと思います。

[サイコパスとソシオパス]

サイコパスとソシオパスの違いについて書かれた記事↓、コチラを参照しました。

この記事を読んでみて、下図↓のようなものを簡単に作ってみました。

反社会性パーソナリティ障害(ASPD)という大きな括りの中に両者とも分類されていて、重なる部分も多い。

以下の4つのうち少なくとも2つの領域で特徴的な困難を抱えている必要があるのだとか。

・アイデンティティ:個人的な利得、権力、快楽から自己中心的自尊心を得ている
・自分指向
:行動目的が通常、個人的な満足感に基づいており、合法的または文化的に規範的な倫理的行動を守ることが難しい
・共感性:
他者の感情、ニーズ、苦痛に対する関心の欠如および他者に危害を加えた後の後悔の欠如
・親密性:
相互に親密な関係を築くことができず、代わりに搾取、欺瞞、強制によって特徴付けられる関係を維持する

うむむむ、上記4項目、家父長制やホモソーシャルの価値観にドップリの人(特に男性)に度々みられる特性が多くないですか?パワハラ、セクハラする人も大体こんな感じ。彼らは程度の差こそあれ反社会性パーソナリティ障害な気がします。そしてそんな人間がウヨウヨいる日本って…それも市長とか町長とか、地方議員とかでよくニュースになってる😢。

一般的にサイコパス先天的な傾向があって生まれつき脳に問題があったりするパターン。一方のソシオパス後天的。つまり成長段階のトラウマなどが原因で歪んだパターンといったところでしょうか。

これを踏まえると、日本にハラスメント気質のある反社会性パーソナリティ障害の人物が多くいるのは、先天的というよりも後天的、つまり幼少期にトラウマを負いやすい社会=家族によるDVやモラハラ、学校でのいじめ等が影響を与えているからのような気がします。

で、サイコパスとソシオパスですが、”操作的・非情・欺瞞・敵意・リスク指向・衝動性・無責任”…などの傾向は重複しているので似ている部分はあるのですが、大きな違いは上図の下部に矢印で示したように計画性と衝動性の違いと、感情や共感の有無、この辺りが大きな違いのようです。

サイコパスの方が感情の欠落によってより冷酷に物事を遂行できるので、非常に怖い印象ですね。

私が思い浮かんだのはジャニーズ事務所の性加害問題において、ジャニー氏(…はちょっと微妙だけど)とメリー氏はかなりサイコパス要素が強かったような気がします。子供達がどれだけ犠牲になっても意に介さず(感情の欠如)、弟ジャニーをジャニー帝国の皇帝に祀り上げる権威化を粛々と進め、芸能界において誰も口出しできないように全てのメディアに根回しをしていった(計画的)。いろんな人を恫喝、強権で支配し(操作的)、自分の罪は見ぬ振りで騙し続け(欺瞞)、歯向かうものには敵意剥き出しで潰しにかかる。

そしてこの姉弟に蹂躙された子供達、のちのタレント達もどこかおかしな言動をとっているのも(SNSやり始めて顕著に漏れ始めてますよね)、少年期のトラウマによって反社会性パーソナリティ障害に陥り、ソシオパス傾向があるからなんじゃないかと。

さらに怖いなと思ったのは、ソシオパスでなくサイコパスな人物が、この集団に紛れれば自身の注目欲求や社会的地位を得られるとして寄ってきた場合もあるのでは?ということ。ソシオパスの多くいる集団にいればサイコパスは全然目立ちませんし、衝動的なソシオパスを計画的なサイコパスが操るのも容易な気がします。誰とは言いませんが、”あの人”とか凄くサイコパスっぽい🤔。

そして彼らがやっていた”操作的・非情・欺瞞・敵意・リスク指向・衝動性・無責任”な言動に対して何かと擁護していた人たち。彼らのことは単なる熱狂的な信者だと思っていましたが、誹謗中傷する人の中にはファンでもない人物も紛れていることから、おそらく彼らもソシオパス傾向のある人物達で、同類を守る=自分を守るために敵意剥き出しで衝動的に攻撃を仕掛けていた…という構図だったと考えると腑に落ちます。

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話をトム・リプリーに戻します。

リプリーはサイコパスなのか?ソシオパスなのか?
あなたはどちらだと思いましたか?

上記に挙げられた”操作的・非情・欺瞞・敵意・リスク指向・衝動性・無責任”。これら全てにリプリーは当て嵌まるので反社会性パーソナリティ障害なのは間違いない。

私が原作を読んで辿り着いた結論は…
”トム・リプリーはソシオパス” です。

ドラマ「リプリー」ではあまり感情の無い人物のような描写でしたが、原作のリプリーを読んでいると、彼の心の内を語っている描写が多く、それらからは物凄く感情の起伏がある人物だという印象を受けます。

そして映画でもドラマでも描かれませんでしたが、トムは幼少期に大きなトラウマがあったことが描かれています。

まず両親が溺死している。←これによってトム自身は水恐怖症という設定が実はあります。原作では船でヨーロッパに渡ることさえ恐怖だったり、ディッキ―を殺害したときにボートから落ちて大変な目にあうのも、水恐怖症という前提があるとよりスリリングな展開になるわけで、その部分をカットしてしまうとスリルが半減してしまうわけです。ドラマ「リプリー」が唯一そこに言及していて、何度も水が不穏な雰囲気で映し出されていました。ただそれが両親の溺死に由来しているとまでは言ってなかった。

この両親の死亡によって、彼はドッティ叔母に育てられることに。
「太陽がいっぱい」も映画「リプリー」にも出てきませんが、ドラマ「リプリー」にはトムの回想や想像の中に少しだけ彼女が出てきました。しかし彼女とリプリーの関係性がいまいち明確に描写されないので、”歯医者で苦しむドッティ叔母さん”みたいな描写が何の意味があるのかよくわからないまま。←嫌いなおばさんが苦しんでざまあみろ…的な妄想なんだと思います。

原作にはこの叔母さんにトムが苦しめられてトラウマを植え付けられている描写があるんです。

両親の遺産を叔母さんが預かってトムを養育し、成人後は少ない仕送りまで貰っていたのですが、トムはケチな叔母さんに大半は取られてしまい、ギリギリの生活を送らされたと思っている。しかしボストン育ちなのにコロラド、デンバーの高校に入れられたりしてるし、厄介払いだったとはいえお金をかけられなかったのかどうかはよくわからない。他責思考被害者意識の強いトムなので、客観性を欠いた主張のような気もする。

しかし、トラウマになった出来事、トムが叔母さんを憎むことになった描写がある。車で旅行中、暑い日にひどい交通渋滞に巻き込まれた。叔母さんはトムに車を降りてガススタへ氷水を買いに行かせる。すると車列が進み始め、トムが走ってなんとか車のドアに触れようとすると叔母さんが車を進め、いじわるく乗せないようにする。その上「早く、早く、のろまね!」と煽られ、トムが苛立ちと怒りで涙を流しながらなんとか乗り込んだら「女々しい!根っからの女々しい子なのよ。父親そっくり!」と同乗していた女友達に愉快そうに言って嘲笑した。

この”女々しい”と言われたことのトラウマ。これがあるからゲイに見られることを異常に恐れたり、ゲイと言われたらスゴク逆上したりするわけです。ココ重要なのに尺のあったドラマでもカットしてるのが本当に勿体ない。原作に無い叔母さんの歯医者シーンやカラヴァッジオの殺害シーンより、こっちを回想シーンで入れるべきだったと思う。

こんな感じでドッティ叔母さんから陰湿ないじめと尊厳を傷つけられる言動を受けていた。つまり原作では後天的に歪められてしまった可能性を示唆しているのでソシオパスとみなすのが妥当というわけです。

ここでトムがサイコパスなら、怒りで涙を流したりせず、淡々と復讐すると思う。周りの大人を操って、放置された子供(=被害者)を装い叔母さんの社会的地位を貶めたり、なんとか家に戻ってから計画的に叔母さんに事故を装ってケガをさせたり…((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル。映画「エスター」とかそんな感じですよね。

あと、原作のトム・リプリーは、サイコパスの特徴である計画性はほぼないんですね。物凄く行き当たりばったり。衝動で行動してる感が強いです。

そして、
Something always turned up. That was Tom’s philosophy.
物事はかならずなんとかなる。それがトムの人生観
という部分がある。NYでどん底の時にグリーンリーフ氏が現れたように、物事はどん詰まりのようでも何とかなると思っている。どこか楽観的。

ディッキーの殺害も事前から計画していたわけではない。パリへの旅行がサンレモに変更され(←約束を反故&近場に変更で自分の扱いが悪くなってる不満が溜まってる状態)、そこでサンレモで別れを切り出されるのが嫌で急遽カンヌに行こうと提案する。そのカンヌでゲイの軽業師たちに無意識に拍手を送ったトムにゲイの意味を込めたワーズワースの詩の引用をするディッキー。ここでディッキーは”ゲイ”蔑視のニュアンスはあるけどそこまであからさまにトムのことをゲイだと揶揄したりはしていない(ドラマ「リプリー」では彼らはフェアリー(ゲイの隠語)だと言い、もう少し直接的にああいうのを好きなトムを軽蔑的に扱っている)。しかしここでトムの中で叔母さんによるトラウマが再燃し、過剰に”ゲイ”だと蔑まれたように感じて悪意を募らせる。←かなり自意識過剰に被害妄想を膨らませてる感じ。

そしてカンヌからサンレモに戻る列車の中で、
”憎しみや愛情や苛立ちや欲求不満といった狂おしい感情が心の中でふくれあがり、息が苦しくなった。殺してやりたいと思った。”となる。←ここで殺意が決定的なものになるわけです。事前の計画ではなく旅行中に突発的に形になる。
この列車の中でディッキーに成りすますことを思いつき、旅行中なら殺害も隠蔽できそうだと考えを巡らす。崖から突き落とすのは?一緒に引きずられたら危ない。ディッキーには海が似合う。死体の処理も沈めれば簡単。ということでボートを借りることを提案する。計画的と言えば計画的だが、行き当たりばったりといえば行き当たりばったり。そこまで深く先のことは考えていない。

とにかく原作を読んでいるとあらゆる場面でトムの被害者意識他責思考がスゴイ。20歳頃NYに出てきたときは役者になりたかった。しかし全てのオーディションで落ちた。その後も仕事が長続きしなかった。忍耐力の無さはドッテイ叔母さんが何をしても褒めてくれることが無かったからだと思っている。自分はこんなに頑張っているのに、献身的に尽くしたのに…なぜ評価されないんだ、愛してくれないんだ…となり、悪いのは全てアイツだ!!上手くいかないのはアイツが悪いせいだ!!という恨み節が延々と続く。この一方的に憎悪の深度を深めていく様子が実に気味が悪いんですね。
でも同時に熱いんですw(そして段々面白くも感じてくる。江川達也の「東京大学物語」の主人公・村上直樹みたいな感じです)。マイナスの感情だけど感情の昂り、熱さを感じます。サイコパスみたいな無感情な冷淡さではない。

あと、ソシオパスの特徴にあった”少数の人々に愛着を抱き独自の初歩的な正義感を持っている場合がある”と言う部分もトム・リプリーには見られる。

まずディッキーに対する愛着は確かにある。彼と一緒に暮らす未来を夢描いたりするし。殺した後でさえそんな夢見る乙女みたいな妄想をしたりする。

そして、どの作品にも出てきませんでしたがニューヨークには仲の良い女友達クレオがいたりします。金持ちの依頼でイタリアに行くことなど、クレオには割と何でも話している。セックスをするような関係ではないけど彼女の部屋に泊まったりもする。クレオは実家住まいで切手サイズの小さな肖像画を描いてるような、今で言うオタク気質な女性という感じ。だから女性に興味のないトムに迫るようなこともないし、居心地が良くてトムには都合がよかったのだろうと思う。

もう一人、女学校の教師で音楽を教えているポールという人物にも好意を寄せていた。他の友人たち、トムの船出を物珍しさで見送りにきて騒ぐだけ騒いでいった輩たちはもの凄く内心毛嫌いして軽蔑しているが、一緒に来たポールは特別で、凄く好きなのが伝わってくる。この二人にはイタリアからも手紙を出したりしている。

こんな感じで一方的な愛着を持ってることが時々ある。

あとディッキー父・グリーンリーフ氏のお金を無駄に使わなかったとか、必要以上に追加を催促しなかったとか、自分独自基準の正義感で、”自分はイイことをしている””自分は善良な人物だ”とみなす描写も多々ある。この辺りもサイコパスではなくソシオパス的なところかと。サイコパスならそんな正義感をそもそも持とうともしないはず。

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トム・リプリー選手権の結果発表!

以上のことから実写化三作品の中で、原作のソシオパス的なトム・リプリーにどれが一番近いかと考えると…

これがムズカシイ!!😩

映画「リプリー」のトムは、感情の起伏がある部分はイイんだけど、ちょっと殺人に対して後悔とか自責の念みたいのを示し過ぎなんですよね。

原作を読んでいると、トムは後悔とか自責の念とか、清々しいほどに無いんです😅。だって悪いのは相手だから。相手とイイ感じの時は夢見る乙女のようにウキウキになるけど、関係が悪くなると一気に被害妄想、他責思考に傾く。そして犯罪を犯した後でも相手が悪かったと、恨み節が続いたりする。そしてまたイイ感じのことがあると、パァ~っと頭の中がお花畑みたいになる…そんな感じ。実際には関わりたくないけどキャラとしては確かに面白い。シリーズ化するほど人気があるのも分かる気がします。

ドラマ「リプリー」のトムは、あまりにも感情の起伏が無いように見える。私にはかなりサイコパス寄りなキャラ造形に見えました。笑顔も作り笑顔で心から笑ってる様には見えなかったし。原作ではもう少し快活でおどけた部分もある印象。先述したように純粋な夢見る乙女やお花畑みたいな時が全然ない。原作ではディッキーに気に入られるために、”アメリカの地下鉄に乗ろうとするアスバーデン夫人というイギリス人女性”という”細かすぎて伝わらないモノマネ選手権”みたいなモノマネを披露したりするw。切符の買い方がわからなくてアタフタする婦人なんてかなりおどけていると言っていいでしょう。そういう意味では始終ワチャワチャしていた「太陽がいっぱい」のトムが案外原作に一番近いのかもしれないなと思ったり…。

う~ん、でも「太陽がいっぱい」は陽キャ&女たらし過ぎ&アラン・ドロンの圧倒的なカリスマ性が過剰だし、
ドラマ「リプリー」はソシオパスというよりサイコパスっぽいし、いくらアンドリュー・スコットが可愛げのある俳優だといってもどうしても胡散臭くて気味悪いおっさんにしか見えなかった。
かといって映画「リプリー」はマット・デイモンの意外に繊細な演技と愛嬌もある部分のバランスはよかったけど、いかんせん自責の念があるという重要な部分がちょっと違うし…。みんな出直して来いッ!!って感じでしょうか?←何様w 

ということで、4度目の実写化、誰か頑張って作ってください!w

でも敢えて容姿、性格を総合的に判断すると、私は映画「リプリー」のトム・リプリーですかね~。一番原作からの再現率は高い気がするし、役者の原作へのリスペクト、似せようとする努力を感じる。ただディッキーよりゴツかったり、自責の念があったり、残念な部分があるのも否めない。
でもあの作品は監督のアンソニー・ミンゲラが悲劇、それも”ゲイの悲劇”を描きたかったと思うから(あの時代はそういう流れの作品多かったんです。ゲイ理解を推し進めるために”同情”を利用していたというか…)ああいうキャラにせざるを得なかったんだと思います。

う~んでも、「太陽がいっぱい」の若さゆえの”イノセントな悪意”みたいなのも捨てがたい…。

映画「リプリー」と「太陽がいっぱい」を足して二で割った感じですかね?ドラマ「リプリー」はやっぱりなんか違う気がします。


ディッキー・グリーンリーフ選手権

これは容姿だけに限ったら、圧倒的にジュード・ロウが優勝!!

アカデミー助演男優獲っただけのことはある。

トムの項目でも書きましたが、原作のディッキーの年齢は25歳。身長186㎝体重76㎏の細身の体。

カールのあるブロンドヘアー、青い瞳、日に焼けた肌、長い手足。骨ばったハンサムな顔。

”ハンサムな男だ。細面の、整った顔立ち、敏捷に動く利口そうな目、その身なりにもかかわらず、誇り高い態度、並の人間ではない感じだった。”

”ひどく汚れた白いズボンをはいていたが、まるでガレリアの主のようにそこに腰掛け…”→汚い恰好をしていても輝く存在感といった感じでしょうか?

こんな感じで、原作ではトムが何かとディッキーの容姿に憧れをもって見てる感じの文章が出てきます。

「太陽がいっぱい」のモーリス・ロネはまあハンサムではあるんだろうけど、金髪でもないし、スレンダーで手足長い感じでもないし、何といっても圧倒的にアラン・ドロンの方がハンサムで原作のディッキーっぽく、このディッキー(映画ではフィリップに改変)を容姿で憧れはせんやろ!って感じなんですよね(;^_^A。憧れるのは金、女、ライフスタイルのみ!って感じ。

ドラマ「リプリー」のジョニー・フリンは、若い時の写真を見るとまあディッキー役に合わなくもなさそうだけど、41歳の現状だと、普通の白人のおっさんという風にしか見えない。ブロンドだろうけどカールもしてないし、白黒だから日焼け具合も分からない。体型もスレンダーという感じでもなく貫禄ある感じ。

映画「リプリー」のジュード・ロウはほぼ原作通りだと思います。カールした金髪、焼けた肌、スレンダーな体、骨ばったハンサムな顔、敏捷に動く利口そうな目…かどうかはわかりませんが物凄く目で多くを語る演技をしていました。目つきでコロコロと表情が変わる。

ただこれは性格の部分にも関係するのですが、原作のディッキーは私が読んだ限りだと全く残忍な人物という印象はない。

映画「リプリー」のディッキーは女たらしで、マージの他に婚約者?のいる地元の女性とも付き合い、妊娠した彼女を捨て彼女を自死に至らしめるようなゲス野郎。ジュード・ロウの顔には笑顔でさえも残忍さが見え隠れしている。口角がキュっと鋭角に上がる感じもEvilで不敵な笑みに見えます。
(映画のディッキーは最後のところで学生時代に残忍な事件を起こしていた→だから今回も…という結論に持っていくのでキャラ造形としては一応意味がある)

この残忍さは「太陽がいっぱい」のフィリップにも感じる部分。ヨットでマージといちゃつくためにトムをボートに追いやって曳航するも、ロープがほどけてトムは行方不明。見つけた時には脱水&日焼けで死にそうになっている。モーリス・ロネの顔もちょっと意地悪そうで、どこか好きになれないイケ好かない奴なんですよね。

一方ドラマ「リプリー」のディッキーからは残忍さは特に感じない。金持ち故のお高くとまった感じはあるけど、意地悪そうというほどでもない。ただ魅力が薄くて愚鈍な感じ。若さゆえの活力みたいなものもないし。

原作の中で、トムはディッキーの両親宅を訪ねて彼のアルバムを見せて貰う。そこで明るく無邪気に笑うディッキーを見て、あまり利口じゃないな大口を開けて笑うのが格好いいと思ってるんだろう…と心の中でバカにする。その後モンジベロのディッキーのアトリエで彼の描いた絵を見せて貰い、彼に絵の才能が無いと再び内心小馬鹿にする。その辺りからドラマ「リプリー」のディッキーは利口そうじゃない愚鈍な感じのキャラ設定にしたんだと思います。

しかしこれはあくまでトムの偏った考えであって、相手を内心バカにしたり貶めたりすることで、憧れや羨ましい想いを相殺させる、とにかく認めたくない想いの表れのような部分なんです。「フンッ、ホントにコイツ格好いいか?」って彼女が好きなアイドルにケチ付ける男と似たような心境なわけです。だから原作のディッキーは普通に格好良くて、映画「リプリー」の解釈が正解でドラマ「リプリー」の解釈はちょっと的外れな気がします。

とにかく原作のディッキーはそこまで悪い奴ではなく割とイイ奴なんですよ。
映画のような女たらしって訳でもない。
ドラマではトムがNYから持ってきたマルーン色でペイズリー柄のバスローブを見て、誰がこんなの着るんだよ…ってトムの趣味を無意識にバカにしていたけど、これも原作にはない。素直に羽織ってみせて満足している。

そもそもマージとは付き合ってないというのを知ってビックリでした。
アメリカ人なんて誰もいない異国の小さな村で知り合い、リゾート客もいない寂しい冬を共に過ごした友人。何とか良好な友人関係を維持しようと、やきもち焼くマージに機嫌取りのキスをディッキーはする。しかし体の関係は無いとキッパリトムに言う。トムが「彼女は君に惚れてると思っていたよ」と言うと「とんでもない!」と返すし、「彼女とは寝たことはないし寝る気もないが…」とも言う。(とは言っても、どこまで言葉面を信じていいのかはニュアンスがわからないので何とも言えません…でも50年代のアメリカの若者の貞操観念は割と固かったんじゃないかと)
それもそのはず、マージはトムが来る半年ほど前に、スキーのケガで療養しに来ていたエドゥアルドというイタリア人にゾッコンで、彼と同じ宗教になるためにカトリックに改宗するほど。その恋は儚く散り(相手にされず)、仲良くしていて孤独の慰みにもなっていたディッキーがトムの出現で取られそうになって、嫉妬からちょっと強引に彼女からすり寄っていった感じに描かれているわけです。だからディッキー自体は女たらしとはちょっと違うんですね。

そしてトムと一緒にローマに出掛けた時も、酔っぱらってぶつかり転倒させた女性を家まで送っていくと主張し送り届ける。彼女からは「こんな素敵なアメリカ人に会ったのははじめて」と言われたりする。割と紳士的なんです。
ドラマ「リプリー」ではこのエピソードが少し改変されていた。いわゆる女性が当たり屋で、すぐ傍に停まっているタクシーとグルになって送り賃をせしめているんだとトムがディッキーのお人よし(バカさ)を指摘するという展開になっていた。あえて紳士的というよりも愚鈍な男イメージを強くしている。しかしその割に、後にナポリ・マフィアが家にやってくるエピソードでは物凄く警戒心が強いキャラになっている。ここに矛盾が生じるんですよね。原作では特に愚鈍に描かれていなかったので、怪しい儲け話をトムから持ち掛けられても良識ある金持ちの子息らしく断る展開で特に矛盾は感じない流れでした。

原作を読んでいての私のディッキー像は、容姿は先に書いた通りでハンサムでスラっとしてるイケメン。性格はいいとこのボンボンだからこその案外真っすぐで紳士的な好人物。父親もディッキーは友達から影響を受けやすいと言っているのでお人よし。スマートな社交性もある。マージの機嫌をとるためにキスまでせんでもとは思うけど、むやみやたらに女と寝ようとするでもなく節度というか貞操観念は案外しっかりしてる。毎月入る五百ドルの使い道もキチっと決めていて、金にはしっかりしているともトムは言っている。それで気前よくチップははずむし、物乞いにも五百リラ札をめぐむほど。つまり気前はいいけど金銭感覚はしっかりしている

トムの妬みと被害妄想が入るから時々意地悪く邪悪そうに描写されるけど、映画やドラマで描かれたような意地悪なことなんか全然していない。多少トムに対して冷たくなるのも、トムのヤバさが垣間見えるから。自分の服着てモノマネしてたり、胡散臭い儲け話持って来たり…。そりゃ仕方ないよ、普通の反応だよ…と私は思いましたけどね。

ということで、容姿は映画「リプリー」のジュード・ロウが優勝ですが、性格含めた内面はどの作品も違う。残忍性が無いという意味ではドラマ「リプリー」なんだけど、あんなに味気の無い感じでも愚鈍でもない。もっとチャーミングで普通に常識ある若者な気がします。

なのでこれも、出直して来いッ!!4度目の実写化待ってます!!って感じでしょうか?😆


マージ・シャーウッド選手権

これまたタイプに統一性がないですなぁ…w

次にマージです。
トムとディッキーの容姿の再現率からして映画「リプリー」のグィネス・パルトロウだと思ったあなた! 残念!😅。

これは意外に「太陽がいっぱいの」マリー・ラフォレが一番イメージに近い気がするんです。

髪の毛はブロンドのショートという設定なのでそこはパルトロウなのですが、マージはオハイオ出身でトムが言うにはガールスカウトっぽい雰囲気なんだとか。

そして最初に写真を見た時の描写がこんな感じ。
”healthy and unsophisticated-looking, with tousled, short blonde hair—the good-egg type”
健康的で、さほど洗練されていないルックス、乱れた短いブロンドで、感じのいいタイプ
つまり結構庶民的なタイプと言うことです。
ここで”the good-egg type”というのが最初、卵みたいな体形で下半身がしっかりした安産タイプってことなのかと思ったのですが、そういう意味ではないようです(;^_^A。

でもその後に実際マージと初めてビーチで会った時のトムの感想は
She wasn’t bad-looking, Tom supposed, and she even had a good figure, if one liked the rather solid type. Tom didn’t, himself.
彼女は顔だちも悪くないし、どちらかというとガッシリ(ポッチャリ?)したタイプが好みなら、かなりスタイルもいいほうだろう。トムのタイプではないけども。
と言ってる。奇しくも卵体型というかふくよかなタイプではあるようなんです。

これを考えると、グィネス・パルトロウもダコタ・ファニングもスレンダータイプだし、どちらもガールスカウトしてそうな快活さと庶民っぽさは無いかなと。これに一番近いのはマリー・ラフォレだと思うわけです。太ってはいないけど脚とかムチッとしているし、格好もセーラーシャツにカプリパンツとか、活発で庶民的な女の子っぽいファッションしてたり。
パルトロウのマージはディッキーと同じ上流階級出身っぽいんですよね。ドレス着てオペラにも行っていたし。NY出身でパークアベニューには飽きたとか言っていたし。

ただグィネス・パルトロウを一つ擁護すると、映画「リプリー」にはケイト・ブランシェットがもっと金持ちの富豪令嬢役で出てくる。彼女のクール・ビューティーな感じと比較すると、パルトロウの笑顔には幼さとファニー感があって庶民的と言えなくもない(実際はショービズ界のサラブレットだけど)。だから相対的に見るとそこまでズレてるとは言えないかな?
…とは言いつつ、この映画、あの悪名高きハーベイ・ワインスタインMIRAMAXの配給であり、同じMIRAMAXの「恋に落ちたシェイクスピア」でアカデミー主演女優を獲らせてもらってるから、当時のワインスタインの超推し女優だったのは間違いないわけで…。その辺りもキャスティングに大きな影響があったんだろうなとは思います。

ドラマ「リプリー」のマージは原作のオハイオよりもっと田舎?のミネソタ出身になっていました。ダコタ・ファニングってどちらかというと都会的な顔だと思うんですけどね。なぜミネソタにしたのか謎。そして長い髪だし、健康的な顔というよりは神経質そうな顔。ガールスカウトとは対極の気怠そうな雰囲気。ちょっとイメージが違い過ぎる気がします。

マージの性格はというと、

トムはそもそも彼女に対し敵意あってジャッジが厳しいというのもあるけど、一貫してだらしない女だと思ってる😅。
最初に彼女の家を訪れた時も、"”薄汚れた感じの平屋、手入れの行き届かない庭、水着とブラジャーが窓台に干してある。開かれた窓から散らかっているテーブルが見えた”…こんな感じ。埃を指でチェックする姑かっ!ってほど観察しているw
他にも彼女のオハイオの実家が羽目板張り(クラボード)だと言い、酔っぱらったディッキーには「腐った牛乳みたい」(クラバード)と訛った感じで言うから、”言葉遣いも発音もひどいものだ”とトムは感じている。ボストン出身のトムやNY出身のディッキーからしたらオハイオの訛ってる田舎女って感じでバカにしてる感じでしょうか。

水着やブラジャーが干しっぱなしというのも、時代を考えると、妙齢のお嬢さんが男性ゲストが来てもそそくさと取り込むことなく、恥じらいひとつ示さないのがトム的にはダメダメポイントなんでしょう。

こんな感じで割と大雑把というか、地方出身の大らかさがあるというか、淑女というよりお転婆系なんでしょうね。

久々にヴェネツィアで再会したときもこう言っている。
「マージがのんきに構えているのが、彼にはわかった。例のエネルギッシュで楽天的な性格はいまでも健在で、典型的なガールスカウトを思わせた。存在感も大きかったし、荒っぽいやり方でことを片付けそうな気もしたし、頑健で、なんとなくだらしがなさそうにも思えた」

しかしサバサバ系かと言ったらこれまた違う。
ディッキーとトムが仲良くなると拗ねてみたり、ディッキーを自分のものにしたいから色々と女の武器を駆使したり、トムのいない所で「奴はホモよ」とディッキーに吹き込んだり、その後も実はトムとは知らずにディッキー宛にトムの悪口「ホモじゃないかもしれない。何の取柄もない人間でホモ以下よ。まともな性生活が出来ない人間よ」と書いた手紙を送ったり、実にいやらしい部分も兼ね備えている。恋のライバルは徹底的に潰しに来るタイプw。

で、最後にヴェネツィアで再会したときには全く相手にされないディッキー(←死んでるからね)への未練が薄れ、優しくされて徐々にトムへの同士愛みたいなものを感じたのか?はたまた叔母さんの遺産が入って豪邸に住んでるトムを新たに狙おうとおもったのか?急に距離を詰めてくる。友人のパーティーに誘われ、マージとなんか別に行きたくないトムと行きたいマージ。早く帰ろうと促しても中々帰らない。気の利かない女だと内心悪態をつくトム。上機嫌でトムのジョークにも大声で笑ったりするマージ。

いますよね?散々悪口言ってたりするのに、少しでもその男に利用できるものを見つけると急に態度が軟化してすり寄ろうとするタイプ。ちょっとそんな傾向もあるのかなと。

これらを踏まえると、裏で悪口一番言ってそうなのはドラマ「リプリー」のダコタ・ファニングかなぁ?w 彼女は出会った時からトムのことを猜疑心いっぱいの眼差しで見ていた感がある。恋のライバル出現で蹴落とそうというよりも、胡散臭いオッサンがやってきたぞ、何やねんコイツ…って目でずっと見てたw。全く感じのいいタイプではなかった。

それなのに最後のヴェネツィアでトムと一緒にゴンドラに乗り、彼の肩にしなだれかかったりする。この態度の急変に納得いっていない意見が海外掲示板でも結構ありました。私もそう思う。原作ではマージと腿が触れ合わないように細心の注意をするトム。しなだれかかるなんて絶対させないw。ゴンドラから手をぶらぶらさせてるマージを見て、サメに喰われればいいのに!とまで思ってるし←どんだけ嫌いなんw😅。
最初から割と男に媚を売るタイプに描いておいてトムにも愛想を振りまいていた…しかし自分をのけ者にしてディッキーが取られそうになったから態度が変わった…的に描いていれば、最後のヴェネツィアでの再び媚を売るような態度への変化も納得出来たような気がするんですけどね。

映画「リプリー」のマージは最初凄くトムにフレンドリー。この点は原作のマージ像=感じのいい人と重なる。この作品ではディッキーとマージは婚約してる。だから既に自分の男という自信から別にトムに対抗心を燃やしたりしない。逆に長年連れ添った夫婦感を出し、愚痴を言ったり、同調をトムに求めたり、自分の味方に付けようとする感じ。
それがディッキーが行方不明になり、どんどんトムへの不信が募り、ディッキーの指輪を発見したときのトムの様子を見て犯人だと確信し、最後には逆上して殴りかかろうとするほど態度を変える。そういう意味では原作の後半マージ像とはどんどんかけ離れていく。

「太陽がいっぱい」のマージも割とトムには親切。最初こそ少しトムを邪魔者扱いするけど、フィリップが暴君なのでマージも邪険に扱われたりする。それをトムが慰めたりして後々の寝取り作戦に繋がる。最後には金やライフスタイルだけじゃなくマージまでも自分のものにすることに成功するトム。なのでマージはトムに対抗心も抱かないし、どっちかというとイケメンで優しいトムのことを好きになっていく。これまた原作のマージ像とは少し違う。

原作のマージは一見健康的で快活だが女のしたたかさや狡さも持っており、トム的には大雑把でだらしなく愚鈍な女イメージ。しかしこの伏線があるから、最後にディッキーの指輪を見つけても上手くトムに言いくるめられて殺されずに済んだ。その”隙”が必要なんだけど、ドラマ「リプリー」のマージは神経質そうだし、猜疑心強そうだし、あんまり隙が無いタイプに見える。そこまでのキャラの描き方の過程を考えると、トムを疑うよりディッキーの自殺を信じる展開はちょっと厳しいかな?エッ?その解釈はあまりにも都合良すぎない?…と思わざるを得なかった。

よって容姿と丸め込まれそうなお人よし感(浅慮感)、”隙”を考えると、トムへの恋のライバル対抗心&裏でのホモ吹聴はないけど、マリー・ラフォレがイメージ的には一番近いような気がします。
ホモ吹聴の狡猾さが一番重要だとするならダコタ・ファニング一択ですかね。後の二人はそれはしていないので。


フレディ・マイルズ選手権

エリオット・サムナーは歌手Stingの…娘?
ノンバイナリーで性別の概念外だということで英語では”They Them”を使用したりしますが、
親との関係性とかはどう表現するんでしょうかね?漠然と”子供”とだけなのかな?

フレディはアメリカのホテル・チェーン・オーナーの息子。独自スタイルの脚本家(←勝手に脚本家を名乗ってる的ニュアンス)。Cagnes-sur-Merという南仏の町に家を持っている。

まずはトムが表現するフレディの容姿やらが書かれた部分を抜粋するとこんな感じです。

全く感じの悪い奴。トムは赤毛が嫌いなのだ。特にこういったニンジン色の赤毛が嫌いだった。白い肌そばかすも気に入らなかった。
大きな赤茶色の目がまるでやぶ睨みのように頭の中でよろめいている感じだ。
話をする時はけっして相手を見ない手合いのひとりなのだろう。
太りすぎてもいた

醜いそばかすだらけの顔

ふさふさした派手な赤い頭髪の下から、そばかすだらけの顔がこちらを睨んでいる
フレディは牡牛のような男で、彼にゲイだと睨まれたら…ひどい目にあわされかねなかった。
フレディは白目がちな目でじっと見つめながら…
この豚野郎には勿体ないくらいだ。

と、一目会ったその時から毛嫌いしてます。
言うても2回しか会ってない。最初の出会いはバスに乗ろうとするディッキー&トムと、下りようとするフレディが少しだけ会話を交わした程度。5分も話してないのにこの言いよう(;^_^A。
そして二度目は殺害の時です。この時も嫌悪感いっぱいだし、その巨体を運ばざるを得ない状況になって、豚野郎とまで言い出す始末。

以上のことを鑑みると、やはり映画「リプリー」フィリップ・シーモア・ホフマンが一番近いのではないでしょうか?赤茶色の目かどうかはわかりませんが(PSHは青か緑?)、そばかす出来そうな色素薄めの白い肌。ニンジン色の赤毛とまでは言わないけど、赤っぽく見えなくもない髪。そして何よりでっぷりとした体。白目がちな目(三白眼っぽい)で睨むように見て来たり、トムが存在していないかのように無視したり。

「太陽がいっぱい」ビリー・カーンズはフリントストーンのオヤジみたいな風貌で、でっぷりしてるけど赤毛色白のジンジャーっぽい感じはない。悪くはないけどPSHと比べるとどうしても存在感では負けるかな?

ドラマ「リプリー」のエリオット・サムナーは、容姿的にはかけ離れているといっていいでしょう。海外掲示板やYoutubeコメントなんかでもどうしてノンバイナリーの人物を採用したのか?と、納得のいっていない意見が多かった。私はノンバイナリーでもそこはどうでもいいのですが、フレディ=デブ設定は維持して欲しかったです。だってデブでもないし見かけ上はやはり女性に見えるサムナ―だと、いくら死体が重く感じるといってもトムがおんぶでもしたら普通に運べると思うんですよね。フレディ殺害の場面では”デブを必死に運ぶトム”というのがスリル滑稽さを見てる側に喚起させるわけで、そこをないがしろにしちゃだめじゃない?と思うので。

それとサムナ―の英語はイギリスアクセントらしい。そこまで顕著な感じはしなかったけど。一方原作ではアメリカ人。この改変も少し謎。陽気にディッキーをパーティーに誘いそうなのはアメリカ人の方がしっくりきそう。「ワサップ、メ~ン!!」的な軽いノリでw

で、原作におけるフレディの性格の方はというと、
最初の出会いでは殆ど会話も交わさず、どんな人物かまではわからない。トムとは会話さえしていない。トムの強烈な偏見と嫌悪感で嫌な奴認定されてるだけ。
そして二回目の邂逅である殺害時も、トムがディッキー殺害の発覚を怯えているという前提があり、通常以上に疑われることに過敏になっている。フレディのことはまるでヘビ、自分が睨まれているカエルのような心境になっているわけです。なので過剰に天敵のように毛嫌いしている。

もちろん金持ち故の横柄さや見下す雰囲気もあるのかもしれない。しかしディッキーとトム以外と関わっているフレディが原作には出てこない。マージと話すことさえない。ディッキーがイイ奴なんだとしたら、その友達のフレディも普通にイイ奴の可能性は十分ある。実際ヴァン・ヒューストンという親友とオーストリアから旅行で回っている最中に殺害され、ヴァンは何度も心配してトムと連絡を取る。親友想いのいい友人がいることになる。

金持ち故にたかりに来る連中は散々見てきているだろうわけで、トムに対しても状況を鑑みれば警戒するのは普通と言えば普通。それで友人が突然消えたとなれば、全くもって厳しく追及するのは普通の対応。なので殊更フレディを悪者に描く必要はない気がしますし、原作もそこは強調していない。あくまでトムの偏見で悪い奴かのように描写されてるだけ。そもそも親友を殺したかもしれない人物だと気付いた時点で一人でトムの部屋に戻るなんて殺されに行くようなもの。その詰めの甘い部分にディッキー同様ボンボン故のお人よし感を感じなくもない。

そう考えると、映画「リプリー」のPSHは嫌な奴度合いがかなり高く描かれている。どちらかというとトムを無視したり、からかったり、イジメて喜んでいる節もある。まさにいじめっ子気質。

ドラマ「リプリー」のエリオット・サムナ―はそこまで意地悪ではないけど、皮肉屋っぽい感じでネチネチ追い詰める系。まあこの解釈は有りといえば有り。

「太陽がいっぱい」のビリー・カーンズが私的には一番好きかも。金持ち故の横柄さバカさがいい塩梅でミックスされている。わざわざトムの部屋に舞い戻り殺されに行くのがしっくり来るのはこのキャラではないでしょうか?PSHもサムナ―も必要以上にフレディという役を作り込んでいるからか賢そうでそんなミスをしそうにない。サッサと警察呼ぶか、せめて管理人を伴って行きそうなんですよね。

ということで、容姿的にはPSHですが、フレディとして重要な”デブで少し抜けている”という部分を両方カバーしているという点で、ビリー・カーンズを暫定一位にしたいと思います。

ただ”意地悪なフレディ”という与えられた役をこれ以上ないほど完璧に演じているのはやはりPSH。あの目つき顔つき、あ~こんな感じのイヤな奴確かにいそう~と思わせる説得力と存在感。それは他の2人と比べたら圧倒的。


やはりキャラの個性がしっかり立ち、それぞれに存在感と魅力があるのは映画「リプリー」なんですよね。さらにはケイト・ブランシェット演じるメレディス(オリジナルキャラ)や最後に殺されるキングスレー(原作にも出てくるけど別に殺されない。ベニスでのトムの友人)もしっかり爪痕残してる。
ドラマ「リプリー」はトムしか印象に残らない独演会。たしかに原作はトム目線で語られるからそういう一面もあるからOKと言えばOK。
「太陽がいっぱい」は圧倒的なアラン・ドロンの存在感があるがゆえに他のキャストは残念ながら刺身のツマ状態。

ここは好みがわかれるところですが、やはりキャストの華やかさと演技対決、掛け合い、役者陣が協力して物語を紡いでいくアンサンブルの妙を感じていいな~と思えるので、私は映画「リプリー」が全体としては暫定一位です。ディッキーが絵画でなくジャズ好きになっていたり、独自要素が多く改変しまくりではあるんですけど、ちゃんと伏線の辻褄は合わせているしバランスはイイ。
「太陽がいっぱい」は多分一番あの時代の空気をフィルムに焼き付けている作品だと思う。ラストの改変も秀逸で余韻も素晴らしい。ニーノ・ロータの主題曲も忘れられない。
ドラマ「リプリー」も今回これ書くために早送りで2度目の鑑賞をしたら、最初の印象よりは悪くなかった。キャスティングだけは納得できないけど😅。


原作と違う部分いろいろ

原作を含む4作品を見比べてメモを取った違う部分を書き残しておきます。

トム・リプリーの軌跡

4作品を観ていて、トムがアチコチ移動するのに結構違いがあるな…と思ったので書き出してみました。
それぞれは下図のような感じです。

「太陽がいっぱい」はトムがNYからやって来てディッキーとマージと初めて出会う部分は大胆にカット。ローマへの小旅行からになっている。そして基本ローマとモンジベロを行ったり来たり。その距離感どうなってんの?近すぎない?って感じ。モンジベロをローマ近郊の海辺の町設定にしてるかのよう。実際はナポリからでも半日かかるような距離。

映画「リプリー」は大筋は一致。しかしシチリアへ逃げた部分は丸々カット。ディッキー殺害前にカンヌに行くこと、殺害後にパリに行くこと、この辺りはドラマ「リプリー」共々カット。

ドラマ「リプリー」が一番原作に近い足取り。ただラストはギリシャに旅立たない。イギリスのパスポートを取得するのでイギリスに行くことを示唆しているのか?パスポートには別の名前「Timothy Fanshaw」と付けられているので、トムとしてベニスにもそこまで長く滞在するとは考えにくい。

ちなみに原作ではティモシー・ファンショーではなく「Robert・S・Fanshaw」になっているし、偽造パスポートの話はない。
ティモシー・ファンショーという名前を「いい名前だね~」的にジョン・マルコビッチが笑っていたけど、何が面白いのか分からなかった。それで掲示板の意見を見ると、いかにも英国上流階級にいそうな名前なんだとか。これはネイティブじゃないと分からない笑いですよね。日本語で貴族っぽいけど胡散臭い名前といったら…綾小路きみまろとかそんな感じ?w

あとドラマ「リプリー」での謎の部分はイタリア入国時。
原作ではフランス北西部シェルブールの港について列車でパリ、そこから南下してリヨン、南仏を経由してローマ、ナポリに至る。

一方ドラマではどこかの港に着いてから列車でイタリアに入るものの、途中車掌から受け取ったパスポートにはジュネーブ空港の入国スタンプ。飛行機でスイスに入国?そしてコモ湖の近くの町からイタリアに入国。なぜこんな経路なのか?全く意味が分からない。
映画「リプリー」も、メレディスと到着する入国審査はシチリアのタオルミーナの港になっていた。当時のメジャーな航路なんかを考慮して改変しているんでしょうか?

その他いろいろ

*原作でディッキーの所有していたピカソの絵デッサンが2点
ドラマでは立派な油彩画が一点。当時とは言え値段はかなり違うと思われる。完成作と練習作みたいなものですから。いまなら億単位の違いのはず。
しかし原作ではそのデッサンの行方はわからず。最初に部屋に飾っていると描写があって以来出てこなかった。どうなったの~?と気になって仕方ないw。
映画の方は絵画関連の要素は全て無くされて、ジャズ好きに変更。

*ドラマのディッキーの家は超豪邸
しかし原作では豪邸だとそこまでトムが驚いているという描写はない。逆に二階のディッキーの寝室はベッドもシングルと変わらないし、がらんと殺風景で期待外れだったと言っている。

マージの職業はライター。原作ではモンジベロについての本を書いている。
「太陽がいっぱい」では画家のフラ・アンジェリコについての本を書いている設定。ディッキーの絵画好き設定がなくなり、無理矢理マージに当てはめた感じでしょうか?
映画「リプリー」のマージは一応本を書いているとディッキ―父が言っていたけど、殆ど仕事はしてなかったような?ディッキーの婚約者で、彼と一緒に日々バケーションだった印象。
ドラマ「リプリー」のマージはアトラーニについて書いているので原作に沿っている。ただトムが添削したりアドバイスするという描写は原作にはない。あれ、なんでトムがそんな編集者のようなスキルがあるのか?ちょっと謎だった。

*刑事の名前
原作はRoverini ロヴェリーニ刑事。
「太陽がいっぱい」はRiccordi リッコルディ刑事
映画「リプリー」はロヴェリーニ刑事
ドラマ「リプリー」はRavini ラヴィ―二刑事

ディッキーの父親
原作ではNYでトムを尾行し接触してきたのはディッキーの父親自身。
「オヤジがそんなことまでしたのか!?」というのがディッキーにウケてトムが気に入られる布石になっている。

ドラマ「リプリー」では父親が雇った探偵がトムに接触してくるという設定に変更。トムの裏稼業のことを幾らか知ってる探偵が、最後にディッキーの死の真相を調査する→トムが疑われる要素が強いのでドキドキする…という伏線になっている。
これは意見の分かれるところだと思うけど、米国の富豪が探偵雇うのは普通過ぎてディッキーにウケる要素がないような気がする。日本ならわざわざ探偵まで雇って!?となるだろうけど。

「太陽がいっぱい」はNYでのシーンがカットされているし、父親は最後にチラッとやってくるだけ。
映画「リプリー」はパーティーでピアノ演奏のバイトをするトムと偶然出会う設定になっている。父親が尾行した部分はないわけで、ディッキーがウケる要素はわざわざ人を派遣したことと、その父親のモノマネをするトムというものに変更されている。

*ドラマにおけるローマのアパートメントの管理人ブッフィさんは独身。
原作では夫婦で管理人。夫妻には息子もいて、フレディの遺体を車に運んでる最中にドアから外に出てきてドキッとする。
「太陽がいっぱい」も映画「リプリー」もブッフィ夫人はちょい役。
ドラマではなぜ独身設定にしたのか?トムに恋愛感情を薄っすら抱いていた的な感じだったのだろうか?よくわからない。もちろん猫も出てこない。

ちなみにモンジベロの家政婦エルメリンダは50歳くらいの設定。ドラマでは30代くらい?トムにイタリア語を教えてくれるファウストは23歳の若者。後にローマのアパートに訪ねてきたりする。ドラマでは中年のおっさん。ローマに来たりしない。

フレディの遺棄
ドラマではアッピア街道に停めた車の中に残してくる。そしてパスポートを取り忘れたとわざわざもう一度取りに行き、そのパスポートは下水道に棄てる。
原作では車から遺体を出して、道脇の古い墓のような所に遺棄する。
パスポートを取り忘れたことを思い出すが取りに戻らずそのまま。乗ってきた車はアッピア街道に放置せずに町の食堂かの所まで乗っていって放置する。
身元不明にするためにパスポートを取りに行くほどなら遺体も隠して車も別の所に持っていけばいいのに…とは思った。二回も行くわりに雑。
「太陽がいっぱい」&映画「リプリー」ではほぼ原作通り。

ディッキーの殺害
原作ではボートに乗ることを提案するのはトム。
ドラマも映画もディッキーが提案する。
「太陽がいっぱい」はボートは出て来ずヨット上で殺害。

トムが海に落ちるのは「太陽がいっぱい」とドラマ。映画は海に落ちてヒヤヒヤするシーンは無い。
ドラマではガソリンまいてロープを切る。原作ではチリチリとライターでじっくり焼き切る。
ドラマではロープが足に絡まって海に落ちる。原作では錨を落とし、遺体を船べりから外に出して落とす時にバランスを崩して海に落ちる+操作レバーを触ってしまう。
ドラマでのボートの処理の仕方はほぼ原作通り。ただし火を付けたりはしない。石を入れて沈めるだけ。それとあんな目立つ入り江のど真ん中に棄てるのはあまりにも絵面を優先してるなと思う。原作では目立たない小さな入り江。ここは映画の方が納得できる棄て場所だった。

*鈍器
フレディを殺害する鈍器もいろいろ
「太陽がいっぱい」は布袋像みたいな東洋風置物
映画「リプリー」はギリシャ彫像風の男の頭の置物
ドラマ「リプリー」は原作と同じ灰皿

マージを殺そうとする道具は、
原作は靴底で殴るつもりだった。
映画は剃刀。バスローブに隠して握りしめるのでトムの手が血まみれに。
ドラマでは再びガラスの灰皿
あの灰皿、ラヴィ―二刑事がディッキーに扮するトムと会った時も使用していて、後にベニスでトム自身として会った時にも同じ灰皿がまたあることで何かバレるのでは?というドキドキ演出の為に再登場。それに気づくくらいの鋭さがあるなら、あのカツラ被って髭生やした扮装がまずバレてるw。

*トムの扮装
「太陽がいっぱい」でのトムはディッキーに成りすまして警察と会うことがない。警察が来る前に屋上から逃げ、ホテルに泊まっているトムとしてしかリッコルディ刑事と会わないので扮装する必要がない。

映画「リプリー」ではベニスにやってきた刑事がロヴェリーニとは別の刑事というオチ。ベニスの警察に行ったらそこでいきなり尋問が始まるので扮装はしていない。

ドラマ「リプリー」の流れ、トムが扮装し照明のトリックを使うのは原作通り(ただしドラマの様に事前に思いつくのではなく、刑事が部屋に入ってくる直前の即興)。
ただ原作ではカツラ被って髭を生やしたりしない。
伊達メガネをかけ、髪の分け目をパスポートと同じに戻し、眉毛を濃く書いて、ジャケットを着たまま寝ころんでシワシワにし、ボタンもちぎってだらしない見た目に。ディッキーに寄せるために少し太っていたから食事を抜いて痩せようとしたりする(←1食抜いただけw)。そしてディッキーに扮していた時は流暢なイタリア語で話したので、トムの時は間違いだらけのヘタなイタリア語で話す。
微妙に違うんですよね。なによりメガネは大きいと思う。アンドリュー・スコットのあのクリクリ目はバレる要素が高い。どうしてメガネをかけさせなかったんだろう?それと下手なイタリア語もいいアイデアなのに不採用。

*トムの水着
原作ではこんな風に書かれている。
he bought a black-and-yellow thing hardly bigger than a G-string.
Gストリングより多少大き目の黒と黄色の海水パンツ。Gストリングは私の認識だとTバックみたいなイメージ。ただハイスミスが書いた50年代にそんなものがあったのか?それも男性用。でもビキニみたいなピチピチの露出度高めの水着なんだと思う。
「太陽がいっぱい」では出会いのシーンは無いけど最後にマージと海に行く。そこでは黒地に赤のストライプ柄のボックスタイプの水着。
映画「リプリー」では悪評高い黄緑の変な水着w。タオル地というか質感も変なんですよね。
ドラマ「リプリー」は…なんていうか、細かい模様でビキニとボックスタイプの中間のような水着。色は不明。

*ディッキーのヨットの名前
”Yes, the Pipi. Short for Pipistrello.”
原作でのヨットの名前はピピピピストレーロの略で意味はコウモリ
これがなぜコウモリなのか説明がないので謎。

「太陽がいっぱい」のヨットの名前は「マージ」。分かりやすい。
映画「リプリー」のヨットの名前は「Bird」。ジャズの偉人チャーリー・パーカーのニックネームが「Bird」だったのでそこにちなんで。船には普通女性名を付けるのに…とマージにバカにされている。
ドラマ「リプリー」ではヨットは出てくるが乗るシーンは出てこない。ヨットも遠く沖に浮かんだまま。名前が見えることもないので不明。

*ピーター・スミス・キングスレー
原作と映画にだけ出てくるキングスレー。ヴェネツィアに住む上流階級の人間。映画ではトムと恋人のような関係になるが、仕事で向かうギリシャ行きの船の中でディッキー殺害がバレそうになったトムに殺害される。

原作のキングスレーはヴェネツィアでトムが友達になった人物。カクテルパーティーに呼んでくれたりする(ドラマではグッゲンハイムの娘?か何かに改変)。ゴシップ好きで暇を持て余している上流階級の人間達にはトムを取り巻く事件は格好のネタなので人気があったから。

でもキングスレーは記者たちに追われるトムを自分のアイルランドの静かな城に来るかい?と招待したりする。彼も金持ちゆえか正直で、疑うことを知らなくて、ナイーブで、思いやりのある面白い男(トム談)。

そしてトムには珍しく、ディッキーとの間に起ったことが彼との間にも起こりうる…と考えてしまい、そのことを恥ずかしく思ったりする。さらにはディッキーをカンヌに連れて行かなければとか、ディッキーの服を着なければとか、ディッキーとの色々を思い出して後悔し、キングスレーの前で涙を流したりする。←キングスレーは単に友を亡くしたことで泣いていると勘違いして同情する。

このトムに寄り添う優しい男、そしてトムが一瞬キングスレーとディッキーを重ねたところ、ここからミンゲラ監督が映画のようなゲイ設定に改変したのは非常に面白いなと思った。


ドラマ「リプリー」の監督Steven Zaillianはこう言っている。
(「シンドラーのリスト」「レナードの朝」「ギャング・オブ・ニューヨーク」「マネーボール」の脚本などを書いている人物。彼の過去作を知れば、特にシンドラーのリスト、だるい作品なのは明らかだろう…という意見を見かけて、なるほど!と妙に納得してしまった😅)

「このハイスミスの作品において、そのストーリー、トーン、微妙なニュアンスをより忠実に描きたかった。彼女だったらこうするだろうと想像しながらこのドラマを作ることを心がけた」と。

確かに一番原作にストーリーラインは沿っている。
しかしトーンやニュアンスは忠実だったのかは微妙。少なくとも私が原作を読んでの解釈とは違うことが多かった。

あとキャスティング。
アンドリュー・スコットがプロデューサーに入っているからそもそも彼ありきの企画だったように思う。日本の映画やドラマでも事務所のゴリ押しで役者の為に原作を改変しておかしなことになっている。それと同じことがこのドラマでも起こっているんだと思う。フレディ役のサムナ―もゴリ押し臭を感じるし。

ということで私的☆評価をしてみると
10点満点で☆6.5~ギリ☆7といったところ。
キャスティングが -1.5
長いわりに面白くないに -0.5
余分なこだわりにイライラするに -0.5
モノクロに -0.5
ゲイ俳優が演じているのにゲイ要素をほぼ無くしてしまったこと -0.5
といったところです。

不思議なのは同じアンドリュー・スコットの「異人たち:All of us strangers」も原作あり、さらには改変もガッツリしているのに私的には評価が高い。一方のこちらドラマ「リプリー」は評価が低め。何が違うんだろ?あちらの改変は許せて、こちらの改変は許せない理由…原作へのリスペクト度合い?←別にそこまでのファンではない。相性、好みの問題?…やはりこれに尽きるかなぁ。

映画とドラマの比較動画もありました。
これは違いを示しているだけで好みは言及していないフラットな意見😅。

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今はリプリーの続編である「贋作」を読んでいます。
この作品でも、死亡した画家に代わって贋作を作り続けることを提案するリプリー。アイデンティティを奪うという点で前作をちゃんと踏襲している。

驚いたことに女性と結婚している。それも製薬会社の大富豪の社長令嬢と。
フランスにある義父に買ってもらった豪邸に住んでいる。←映画「リプリー」のメレディスとその後結婚したかのような人生になっていて面白い。

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この壮大な独り言にお付き合い下さったアナタ!
良ければ「スキ💓」を押していただいて、ここまで読んだ記念を刻んで頂きたい!なんと総文字数32,000オーバー😲。自己最長😅←単にこんなダラダラと長い文章をどれだけの人が読み切ったのか知りたいだけですw。


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