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新進気鋭

 子産が政治を開始した一年目(前543年~前542年)に、人民はこう歌った。
「我の衣冠(税)を奪って、これを蓄え、我等の田地を奪って、伍(五人組)に替えやがった!子産を殺害する者がいれば、私もそれに協力しよう!!!」
 しかし、三年後(前540年)、人民はこう歌うようになった。
「我等には子弟がおり、子産が教導して下さる。我等には田地があり、子産が増産させて下さる。もし子産が亡くなったら、誰が跡を継げるだろうか?」(春秋左氏伝:襄公三十年/呂氏春秋:先識覧/韓非子:忠孝)
 子産は鄭国の宰相として、国政を掌握していた。三年後(前540年)、善良な人民を教化し、悪人は禁令を恐れ、国内は良く治まり、他国も鄭を害そうとしなくなった。(列子:楊朱)
 子産が宰相となってから、鄭の国内情勢は激変した。鄭の社会秩序治安は回復・安定化・良好化し、法令や礼法も、次々と有効化されていった。
一年後(前542年)には、小人達や放蕩者達は遊び歩かず、老人達は重い物を持つ事は無くなり、児童達は農耕に従事する必要が無くなった。
二年後(前541年)には、市の売買が公正になっていった。
三年後(前540年)には、夜も門を閉じる必要が無くなり、道に落ちた物を拾っても、着服する者がいなくなった。
四年後(前539年)には、田器(農具)を持って帰らず、田地に置いたままにしても、盗まれなくなった。
五年後(前538年)には、士に尺籍(軍令:軍功や決まりが記述された書)が必要無くなり(軍令が無くても、兵士達の統率が執れるようになった)、葬事においては、指示が無くても、礼に則って儀式が行われるようになった。(史記:循吏列伝)
 子産が施政してから5年(前539年~前538年)、国内にて盗賊はいなくなり、道に落ちている物を拾う者はいなく、桃や棗が実って、街路を塞ぐ程であっても、それらを盗る者はいなく、錐刀を道に落としても、3日経って、その道に戻ればそこにあり、三年も不作が続いても、人民に飢える者はいなかった。(説苑:政理/韓非子:外儲説左上/尸子:君治)
 子産が鄭国で宰相を務めていた18(実際は21)年間において、刑罰の執行と治安状況に関しては、投獄された人数は僅か三人、処刑された人数は僅か二人(史何と鄧析?)だけであった。(呂氏春秋:离謂/列子:力命/呂氏春秋:下賢/孔子家語:始誅殺)
 子産は鄭国の宰相になり、ある時、壺丘子林に会いに行った。そして、子林の弟子達と同席して語り合ったが、その席順は、身分の順ではなく、年齢の順であった。これは、子産が宰相としての地位を門外に置いて、子林に教えを請いた事を示している。万乗の国家の宰相でありながら、その地位を忘れて、志を練り、行いを論じて、人々と心を通じ合わせようとしたのだ。(呂氏春秋:下賢)
 子産はこう言った。「政は、必ず徳によって行わなければなりません。何によって立つのか、忘れてはなりません。」(春秋左氏伝:昭公十六年・史記:鄭世家)
 前522年、子産は死去した。
 子産が死去すると、鄭の国民は哭泣した。青壮年(16歳から50歳までの人々)の者達は号泣し、高齢者達は子供のように哭泣して、こう言った。「子産はわしらを残して、死去してしまわれた!わしら人民は(今後、)誰に頼れば良いのだろうか?!」
 孔子は、子産の死を聞くと、涙を流して、「古の遺愛だ!」と言った。
 子産の死後、鄭国の人民は子産の死を深く哀悼・痛惜した。丈夫達は玦佩(玉器)を付けず、婦人達は珠珥(耳飾り)を付けず、夫婦は巷で哀哭して、三か月の間、竽琴の音(音楽:竽は管楽器)が無くなった。(春秋左氏伝:昭公二十年/史記:鄭世家、循吏列伝・説苑:貴徳)

 今の職場では、本当に良き経営者・上司・先輩・先生方に囲まれて、教え育てて頂いている。心から深く感謝している。と同時に、自分の情けなさや無力ぶりを、ミスや失敗、経験不足や理解不足から、深く痛感している。

 路上で、無職無宿の技能実習生や、未来を失った留学生、そして、ブラック企業に縛られている労働者、さらに、コロナ等で病死、水害等で事故死された方々を想って、自分が出来ることを、よく考えて、よく行おう。

 次回の記事で、自分の独学の研究と、執筆活動について著述する。皆さんどうかお元気でいて下さいませ。

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ありがとうございます。心より感謝を申し上げます。