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『召使たち』⑥(作:ヴー・チョン・フン):1930年代ベトナムのルポタージュ

 Ⅵ 無垢な魂の断片をたらしこむ

 夕方になると、ズイと私は共に立ち上がりアメデ・クールベ通りの舗道を離れた後、離別した。職と住まいを失ったこの歌妓志望の女中は今すぐにでも歌妓なってやろうという気迫があったし、私も彼女ならば十分になれる素質があるように思っていたばかりに、手配師の老婆は新町の方の同業者たちに声をかけてズイを引き渡し先になってくれそうな歌劇のオーナーをカム・ティエン、ンガ・テゥ・ソオ、ジア・クアットやトゥー・ソン地方から探してくれてはいたが、待たされる時間ばかりが長く心穏やかではなかった。それで彼女は寄食暮らしの寝転び待ちほうけているだけの日々が続いた。その日々の中をただころころと話題の変わる噂話に浸っているよりも、私と本当の心情、つまりは「互いの気持ち」を語らうために時間を割いてくれた方がよっぽど有意義だと・・・私はそう彼女に言った。彼女は微笑み頷いた。私はヤンホン花園で彼女と出かける約束をした。そこは閑散としていて、涼しくまた薄暗い場所であった・・・。
 この日の夜は特別と思ったのか、座ってから五分も経たずしてズイはやってきた。私は彼女が来るまで貯水池のブロックの上にぎこちなく座ったまま、暗夜の群れや縦横にそうそうと流れる水、曲がり角に佇む電灯の明かりが茂った群葉をすり抜けることで作り出された明暗を見つめていた。数あるヒキガエルや竜の銅像は自らの面一帯にざらざらとした苔を絡みつかせ、名もない怪物の様相が出来上がっていた・・・。突然何かが肩に現れた。私は驚いて振り返ると・・・それはズイであった。「愛しき人」が来たと思った。私は彼女の手をしっかり握るとその手を思いっきりつねってやった。彼女は痛そうに声を上げていたが、本当は何ら痛くもなかったろう。彼女はすぐに私の胸下へ飛びついてきた。我々召使たちが「逢引」し仲睦まじくする様子はそのようで、相思相愛の時分へ没入していく。
 実際女性について語れば、そのような馴れ馴れしい振る舞いは不敬なものであるが、ズイのその不敬さは不思議と私の気分を害することがなかった。逆に他の罪の意識というものが感じられぬからこそ、ズイはしっかりと自らの立場と仕事を続けていける。それはスキャンダルが聞かれた時に、お偉い官僚の方々が自らの立場を離れまいとして代わりに他の人間が退職していく様子に似ている。何も言いはしまい。私はただ趣のある様子で優しく歌いかけるのであった。

誰を選ぼうとも
夫は一人しか持てない
私を選んでください
そしたら私はあなたをこの手で抱きます

 ズイは頷くと一度だけ微笑んで見せた。さらに両腕を回して私の首を自分に引き寄せた。彼女もまた優しく私に歌いかけた。

釣りをするならば
竿は竹
釣り針はやっぱり金が良い
若者が宝石を餌に竿を投げ
竜を釣るは優雅なこと
皆、池で釣る川で釣る
私は今日おじさんを釣る

「待ってくれ、ふざけるな! 私はまだおじさんなんかじゃないぞ。私の心に忍び込んでからに何を言うか!」
 ズイはじっと座ったまま再び歌い始めた。

誰が老人と戯れましょう
筍が生えれば人は列を成してそれを欲する
若さと戯れるものさらに若くなり行く
老いも急いで若さの後を追いかける

 すると彼女はまるで牝鶏のように「クックッ」と一回笑った! 果てに彼女は笑いもがきながら、両方のすねを揺らしてぶつけたかと思うと、あまがみではあるが私の肩に思いっきり噛みついてきた。実にこの娘というのは創造神が歌妓をさせるべくして生み出したに違いない。まだ彼女は歌妓の経験を持たなかったが、それほどまでに熟練した好色さをすでに備えていた。
 この瞬間に彼女が以前働いていた家のお子さんをしばらく誘惑していたんだということが思い出された。より正確に言えば、十二歳になったばかりの坊ちゃんがぐっすりと眠ったふりをしている女中の真っ白な太ももを前にして興奮していたという惨状が私の目の前にありありと現れたように思えたのだ。その児童は将来に渡って身体を駄目にするんだろうなと思った。もし駄目になってしまったら、いたずらの好きの女中に対して悪意を持って接したその子の両親にばかり責任があるだけだ。これから色々学んでいこうとする年端も行かない少年が将来いかなる人材へと成長していくのかはわかりようもないというのに、ズイが教え込んだのは売春に顔をうずめて没頭できる場所であった! 実際、子どもが駄目にならないように教えを説くのが親の義務というものだが、突き詰めればどのようにしたら子どもを立派に世話していけると確信を持てよう? もし人々の家に住み込んでいる人間がズイのようであれば、人はいかにして子どもを守ることが出来るというのか! そして私もまた召使のようなもの。他の多くの者たちと変わらない。恐らく人々もまた数百と召使を買い替えているだろう。召使たちは人々の近くに住み、人からお叱りを受けることは多いが、その主人が心を痛めることはとても少ない。あらゆる召使は世界から隔離されているである。なぜならば人は決して慎重に彼らのことなど顧みることなどないのだから! であれば我々は何かを欲しようものならば、欲するままに・・・自らの雇われ先の中で・・・。
 まさに私は各人にそうと伝えたかったのだ!
 しかし、私は二回に分けて買いに行かなければならなかった炙り肉をまとめて一ハオ使って買ってしまった召使をいじめる金持ちらのために無給で弁護してやるつもりもなければ、彼らを断罪してやるつもりもさらさらない。主人が注意深く言わなかったために炙り肉を一ハオで二回に分けずして買ってこなかったからと言って瀕死するまで殴られた女中が、それ故に主人の息子を淫売たちの領域へ引き釣り込むという方法をもってして復讐を果たしたことに関しても同様だ。私はただ起こったことを記述したに過ぎない。だが同時に私はこれから先に同じような事件を人々には起こさないに気を付けて頂きたいと望んでいる。
 私が一番に求めていたことはズイが無邪気な田舎娘の美しさ内にある気質を取り戻してもらうことであった。だがそう願うのも徒労! 女中をしなければならなかった田舎の娘は、今芸妓として生きていこうとしている。黒人に強姦された彼女の花は二つに咲かれて散ってしまったが、その卑劣な所業こそ田舎者の彼女を高みに登らせる梯子であった。
 なぜならばズイは呻くように言ったのだから。
「あなたは知っているんでしょう、なら私に教えてよ! こうも汚れてしまった私の身体じゃあ、一体どこに私の居場所があるというの? 私の父は村長なんかじゃないし、私の人生は人に使えて召使をするばっかり! 私は自分の人生を生きていくことが出来ないんじゃあ、黒人に強姦される程度の人生なの! もしも私がこの国に身を落とした時、何に気を付けていたら、たった一度だけで人を不幸の紡糸で絡めとったこの淫猥な職には身を置くことはなかったのか!」
 その時の彼女は真剣そのものであり、それは心を動かされるものであった。感傷的な調子で訴えかけたズイは私の両ひざから距離を取った。およそこの暗がりの中で、ズイが泣いていたのかどうかはわからなかったが、彼女が何度も服の袖で鼻をかんでいるのは知れた。
 当然その時はわざわざ悲しみをそそのかすようなことは控えてやりたかったのではあるが、気持ちをズイと共にしすぎていたのか、私もまた自らの悲劇的な物語でその場を飾っていた。
「私の父もその昔、村の資産家だった。それで集団強盗があったし、上官も賄賂を欲した、だがそいつらは自分がトップに立った途端、父を偽証で追いやった。おかげで父は監獄に流されたよ、学生であった私を一人残したまま。結局私は召使たちの仲間になるしかなかった、いくら漢字を知っていようともね」
 私はズイの両手を握った。
「君もさ! 私たちはきちんとした家の生まれだったんだ。ただお互いに好機を取り逃して、こんなひどい環境に至ってしまったけど、そのおかげで私たちは出会い、知り合えたじゃないか。二人きりになれる機会をずっと探していた。どうか私の人生の伴侶になってくれないだろうか? 今のうちは結婚を約束しても、君は自分の仕事を続けて、私も自分の仕事をしばらく続けないといけないけど、いつかお金がたまったら、一緒に暮らそう。それで村に戻って数サオ(※一サオが三百六十平方メートルに相当する)の土地を買い野菜でも作るんだ。二人で暮らすんだったらそれで十分さ。けっしてもうこんなところに戻って来なくていいように。私は畑仕事のことはそんなには知らないけど、村に戻ったら決して誰にも軽視されないで働くんだ」
 私がまだ言い尽くす前に、彼女は慌てて遮った。
「やめて、これ以上はもう言わないで。じゃないと私、心が痛い」
「どうして?」
「だって私はもう無傷の娘ではもうないもの。あなたの妻にはなりようがないもの」
「大丈夫、そんなことで私は君を嫌いはしない。お互いのことは広い度量をもって許し合ったらそれでいいじゃないか。君は無傷じゃないかもしれないが、あくまでそれは辛い事件であって、何かしらの君の品行の悪さから行われたことじゃないんだから」
 ズイは長い溜息をついて言った。
「あなたと出会う前に、すでに一人知っていたの、酒楼を経営していたお金持ち・・・。私その人を信じていたし、その人とも寝ているの。以前のように人を信じてあげられるような器量ももうないの、強姦なんかされた挙句じゃあ。夫婦として生きていくなんて、あまり辛すぎる」
 私はそれ以上何も言わなかった。ただ彼女が私の告白を断るために理由をでっち上げていることだけは理解していた。私は愚かな様子で言った。
「そんなの気にするところじゃないけど、折角恋人を捕まえた俺は他に何をしたらいいんだい?」
 彼女は笑い、心苦しそうに私のことを見つめて言った。
「あなたって素直なのね! 恋人を捕まえて一緒にしばらくいたら必ず結婚しないといけないとでも思っているの? 『お馬鹿さん』ね!」
 私は五分ほど沈黙して彼女の「お馬鹿さん」という語を味わった。彼女に尋ねた。
「どうして君はそんなに芸妓になりたがるんだい?」
 彼女は考える間もなく明朗に長文で答えた。
「天地と祖先がびっくりするような質問ね、どうしてなりたくない人がいるのかしら! 人に使えているだけの人生が一変、一気にそいつらと肩を並べることが出来るようになるのよ! この新しい時代では芸妓にさえなればファン夫人やキー夫人なんかよりも上に立つことが出来るかもしれないんだから、ただの女中でくすぶっているなんて、私にはとっても苦しいもの! 私は人々に夢中になってもらいたい、愛してもらいたい、愛人にしてもらいたい、この私を甘やかして欲しい。ねえ見て、ここが舞台で、私はそこに上がってお歌を歌うの、そしたらたくさん惨めな男たちが集まるわ」
「どうして君はそんなに芸妓が威厳のある仕事だと確信しているのかな?」
「私も不思議、でも昔仕えていた老主人が宴会を開いて女の子たちを家に招いて来た時のことなんだけど、どの女の子も美しいところなんて何もありはしなかったのよ。なのに宴会にはあちこちに男の人もいて、お偉い人だとか言われている男たちだったけど、みんな彼女たちに胸の中で抱かれたり、首に絡みつかれたり、肩にかぶさったりされて喜んでいるんだもん。こんな私みたいな顔でも、十分にいけるじゃないと思ったわ」
 このちょっとした返答は「退廃的な風俗の悪」を依然として叫ぶ道徳ある人達に今の娘たちが競争して腐りにいく理由を十分明らかに説明し理解させるように思われた。
 私はズイの中に素直さや勤勉さといった田舎娘としての古い面影を見つけたかった。漠然とした夢が思われる。夢といっても地に足の着いたものであるが。美の中にさえ居れば、彼女は毒のある事物や世が繁栄していく様子、粗野な夫と生きていくことの忍苦らをわざわざ生涯で考えなくても済んだ。そうすれば食べていくために一生懸命やらねばならない仕事があることを知るだけでよかったろう。
 私は誤った。それも完全に。
 機会の失われた田舎娘、強姦された時から自らを偽り駄目にするようになった娘を見てただ思う。人生とはこうも残酷かと。
 それじゃあ、もしズイがこの後、成人したとしても、必ずやいくつもの男性が彼女の前に来賓し跪いて彼女にその心を献上しようとするに違いない。その度に彼女は桜のあしらわれたハンカチを濡らしてすすり泣くのだろうか。惨めで不幸に圧倒されそうなその場から逃れようと、鋭い慟哭を上げてあらゆる人に助けを求めるだろうか・・・いや、きっとそうだろうとも!
 霜が降り始めた。花園のヒキガエルたちは薄い一枚の「チュール」に覆われたよう。
 私はズイに尋ねた。
「帰るの?」
 彼女は言った。
「うん、帰る!」
「今あの飯屋の通りに戻っても、退屈だろ?」
「もしそう思うんだったら、お部屋でも借りて、一緒にお話ししましょうよ」
 ズイは私よりせかせかと先に行ってしまう。私は言った。
「しかし、金があまりなくて」
 すると彼女は素早く言った。
「そう、私は沢山あるのよ、あなた。じゃあ、行こ」
 ところ変わってから私たちの成したことは特に下男や女中たちの義務に属する話でもないので、細かく述べる必要はないだろう。
 だがただそこで、遊びに来た男たちにプライベートな金を落とさせることを目的とした遊郭の財産ゆすりの心理術というものを学んで来たとでも言っておこうと思う。

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