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2020年の本棚

そろそろ年の瀬なので、今年読んだ本をまとめようと思います。

思いついた順に、読んでよかった本を12冊ピックアップしてみますので、気になった本があったらぜひ実際に読んでみてください。

ただ、僕は本を古本で買うことが多いので、「2020年の本棚」と言いつつ古い本も多く混ざっています。そのあたりはご容赦を。

※タイトルの写真は「みんなのフォトギャラリー」のもので、僕の本棚ではありません。僕の本棚はもっと汚くて、お見せできないです笑。

村上春樹『ラオスにいったい何があるというんですか?』

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村上春樹の紀行文です。村上春樹と言えば毎年ノーベル賞候補として取り上げられる日本を代表する小説家……なのですが、僕は小説よりも紀行文の方が好きで、そっちをよく読んでいます。『ラオス』以外にも、ヨーロッパでの暮らしを書いた『遠い太鼓』や、芦屋から三宮まで歩いた話を描いた『辺境・近境』など、春樹にはさまざまな紀行文があります。

『ラオス』でも、彼は方々を訪れます。ボストン、アイスランド、ギリシャ、フィンランド……。その中には観光地とは言えないような場所もあって、そうしたところの文化や生活の話を読むのは、どことなく非現実的で小説のような面白さがあるのです。

それから、紀行文と言えばやっぱり食べ物の話題!春樹は小説の中でも料理や食事のシーンをよく描く作家で、『ねじまき鳥クロニクル』では奥さんがいなくなって大変なのに、丁寧ににんにくを炒めながらペペロンチーノを作るシーンがあったことを覚えています。これは小説じゃないですが、『もし僕らのことばがウイスキーであったなら』なんかも、読むと本当にウイスキーが飲みたくなります。

『ラオス』でもその食レポは健在です。そのものずばり、「おいしいものが食べたい」と題されたオレゴン州ポーランドの章を見てみましょう。

ほかに感心させられたのは、「フィルバーツ」という街はずれにあるレストラン。去年できたばかりの新しい店だ。僕は季節野菜のリゾットをメインにとったのだが、これは実に簡潔にして、念入り。人間にたとえれば、言葉は少ないが要領を得た人のようだ。前菜としてはムール貝のムニエルがお奨め。僕はムール貝よりは牡蠣の方が好みなんだけど、「スイート・トーテン・インレット・マッセル」と呼ばれる、この地元でとれた新鮮な貝は、思わず口がほころぶほどうまかった。とろけるように柔らかく、なにしろ量が多い。三人でも食べきれないくらいだ。おまけに値段はまったく嘘のように安い。自慢のクラブ・ケーキも試してみる価値があるだろう。

昨今の情勢では、海外旅行もなかなか難しそうです。年末年始、読む旅行を楽しむのもいいのではないでしょうか。

※文集文庫、2018。870円+税

○國分功一郎・ 熊谷晋一郎『〈責任〉の生成』

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『〈責任〉の生成』は2020年の11月に出版された本です。出たてほやほやです。本書は『暇と退屈の倫理学』や『中動態の世界』で有名なドゥルーズ研究者の國分功一郎さんと、当事者研究で活躍している熊谷晉一郎さんの対談形式で議論が進められていきます。

本書の大きなテーマになっているのが、「意志」と「中動態」、そして「責任」の問題。「中動態」とは國分さんが『中動態の世界』で詳しく論じた動詞の形態で、現代に残っている能動/受動とは違った役割を担っているものです。ラテン語などでは能動/受動の対立ではなく、能動/中動の対立があったといいます。

中動態の例として、國分さんは「惚れる」を挙げています。誰かを好きになることは「~される」ことではありませんから、受動ではない。しかし、自分が好きになろうと思って好きになったわけでもないですから、能動でもない。こういった受動態でも能動態でもないものが、中動態と言われるものです(ほんとはこういう否定的な定義ではなくて、もっと肯定的な定義があるのですが、ちょっとややこしいので省略します)。

この中動態の話が、意志の話とつながっていきます。多くの場合、自分が選択した行動について「お前の意志でやったんだろ!」と言われるわけですが、先ほどの「惚れる」の例のように、必ずしも自分の行動と自分の意志が結びついているとは限りません。中動態の問題を考えることは、意志の問題を考えることでもあり、それは行動にまつわる「責任」の問題にも関わります。

本書のおもしろいところは、最終的に、行為を自分の意志でやったものだと認識することが、責任をとることと相反しているのではないかという結論に至るところです。本書において、意志は「切断」として解釈されます。どういうことでしょうか。

ここに放火をしてしまった男性がいるとします。警察は彼を問い詰めます。「お前がやったんだろ!」「はい、私の意志で放火しました……」。しかし実は、ここで問題が何も解決していないことに気づきます。放火を個人の意志に帰して問うと、「なぜそんなことをしようとしたのか」という理由の部分が問われなくなるからです。

犯罪は犯罪ですから罪を償うことは大切ですが、理由をさかのぼることをやめて(「切断」)、意志の有無だけを考えていっても、責任(responsibility=応答可能性)をとることはできないのではないか。これが、本書で提起されている重大な問題です。

行ったことを一度中動態的な場において、その人自身とは切り離して考えることで見えてくるものがあるのではないか。僕たちはついつい事件の責任者探しをしてしまいがちなので、こうした観点を忘れないようにしたいところです。

※新曜社、2020。2000円+税

〇『田村隆一詩集』

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いい詩とは何か?これはなかなか難しい問題ですが、僕はひとつの基準として、「緊張感」のある詩はいい詩だ、と考えています。

「緊張感」を正確に言語化するのは難しいのですが、余計な言葉がなく、ある言葉のあとに必然的に次の言葉が来るような詩、それが僕の考える「緊張感のある詩」です。

今年読んだ詩で、一番この「緊張感」があると思ったのが田村隆一の詩集です。残念ながら手に入れやすい形でまとまっていないので人に勧めにくいのですが、田村は戦後詩人の中でも最重要詩人の一人です。

たとえばこの「四千の日と夜」なんかは、先ほど言った「緊張感」をそのまま詩にしたような作品です。

一篇の詩が生れるためには、
われわれは殺さなければならない
多くのものを殺さなければならない
多くの愛するものを射殺し、暗殺し、毒殺するのだ

見よ、
四千の日と夜の空から
一羽の小鳥のふるえる舌がほしいばかりに、
四千の夜の沈黙と四千の日の逆光線を
われわれは射殺した
(第一連・第二連)

この詩は第二次世界大戦にまつわる「死」と強烈に関わっているのですが、詩が生まれるとは配置されなかった言葉が殺されることなのだ、という「詩」に関する詩としても読むことができます。

あるいは、こんな詩もあります。

世界の真昼
この痛ましい明るさのなかで人間と事物に関するあらゆる自明性に
われわれは傷つけられている!
(「一九四〇年代・夏」の一部)

言葉と言葉の間にある強い緊密感、生きていることへの先鋭な意識。田村隆一は、日本近代詩人の中でも詩の「緊張感」という点でトップに位置する詩人だと思っています。

※残念ながら、いま新品で買うのは難しいと思います。

〇小崎哲哉『現代アートとは何か』

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モネとかピカソがすごいのは分かるけど、現代アートはよくわからん……と思っていたので買いました。実際表紙のやつも白い髑髏がショーケースに入ってるんですが、これはどういうアートなのか。よく分からん。

本書は、「マーケット」「ミュージアム」「クリティック」「キュレーター」「アーティスト」「オーディエンス」といった多角的観点から、現代アートがどのようにな状況になっているのかを紹介してくれています。

たとえば表紙の髑髏はカタールで開かれた展覧会のもので、この写真からオイルマネーのデカさが分かります。僕たちがぱっと想像する「アート」ってパリのルーブル美術館みたいなヨーロッパ系のものが多いと思うのですが、いま買い手として金を持ってるのは石油王/石油女王たちなわけですね。本書の第一章「マーケット」では、そうした億万長者たちのお宝争奪合戦が垣間見えて、単純に読み物として面白いです。

もちろん、「アートとは何か」という抽象的な問いも扱われています。特に「クリティック」の章では、グリーンバーグやボリス・グロイスといった美術批評家の批評理論が紹介されていて、現代アートをどのように考えればよいかという示唆を与えてくれます。

また、「オーディエンス」の章では芸術を鑑賞するということについての理論的な問いが扱われていますし、「現代アート採点法」という珍しいタイトルの章では、著者が実際に村上隆やダムタイプの作品を「採点」して鑑賞を示してくれています(もちろん、「採点」するという行為自体に著者の批評性を認めるべきでしょう)。

正直読んだからと言って現代アートが分かるようにはならないのですが、少なくとも現代アートが何をめぐって作られているか、ということの輪郭は掴むことができます。400ページを超えるボリュームがある割に、ソフトカバーで図版が多く、読みやすいのがgood。

※河出書房新社、2018。2700円+税

〇綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど』

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本書は、ポリティカル・コレクトネス(以下PC)について扱った本です。PCとは何か?その歴史的な発生のあたりをきちんと押さえてくれているのがこの本のいいところなので、あんまり簡単に説明しちゃうのもよくないのですが、本書の冒頭ではとりあえずこう定義されています。

PCの意味はあいまいだが、ここで簡単に定義すると、「差別に反対する言説や運動。猥褻な表現、残酷な描写の規制を求める言説や運動」であり、しばしばそれらに否定的な意味合いを込めて指し示す言葉、といったところだろう。(Kindle の位置No.359-361)

たとえば今年は「ブラック・リヴズ・マター」が話題になりましたが、ああいった黒人差別に反対するような流れが力を持ち始めたのはPCの浸透によるところが大きいでしょう。さまざまな記事や報道を通して、PCという言葉自体は聞いたことがある人も多いと思います。

ただ、本書を読むうえで大切なのは「けれど」という接続詞です。「差別はいけない」、それだけではダメなのか?

著者によれば、この「けれど」には2つのニュアンスが込められています。「差別はいけないとみんな言うけれど、そう言うだけでは解決しない問題もあるだろう」というニュアンスと、「差別はいけないとみんな言うけれど、みんなが差別を批判できてしまう時代特有の問題もあるだろう」というニュアンスとです。

前者はある程度想像がつくかと思うので、ここでは後者について説明しましょう。綿野さんが指摘するのは、たとえば次のような問題です。

かつてマイノリティのものだったアイデンティティ・ポリティクス の「責任」観は、いまやマジョリティによって簒奪されている。トランプ大統領 は、アメリカにおける白人男性の「足の痛み」は移民という行為が招いた ものであり、移民たちに「痛み」の「責任」がある、と主張した。かつて 差別者の「責任」の追及を可能にした当事者の「足の痛み」は、フェイク や妄想が入り混じった主観的な「足の痛み」にかわっている。たとえば「 逆差別」という言葉が知られるように、いまやマジョリティが「被差別 者」のようにみずから振る舞い、マイノリティの「責任」を追及するので ある。(Kindle の位置No.3407-3412)

僕なりに読み替えれば、PCは少々便利すぎるのではないか、というわけです。攻撃したい人物なり作品なりがあったときに、PCを大義名分にすると簡単に批判できてしまう。「なんとなく気にいらない」が、無反省に「PC的にアウトだ!」に変換できてしまいます。

本書によれば、みんなが「差別はいけない」と言えるようになったのは、最近のことです。以前は当事者性が重視され、被差別者のみが差別を告発する権利をもっていました。本書は、このみんな/当事者の区分を「シティズンシップ」/「アイデンティティ」として整理してくれています。PCについての議論はまだまだ散らかっているように見えますから、こうした概念整理は大変助かります。

また、このみんな/当事者の区分に伴う問題については、絓秀実の『「超」言葉狩り宣言』(太田出版、1994)も参考になります。ちなみに、これも今年読んだ本の一冊で、取り上げようと思いましたが話題がかぶりすぎるのでやめました。

ここでもまたダブルバインドが生起していることが問題なのだ。「被差別者にとって不利益な問題は一切差別である」と言い換えて、その「差別」の具体的な内実は「その痛みを知っている被差別者にしかわからない」とすれば、つまり差別は何ら解決不可能であると言うことにしかなるまい。そして、この二つのテーゼに依拠して差別問題の解決を迫る批判は、逆説的に、反動化するほかはないと言える。「被差別者にとって不利益な問題」というかたちで「差別」をイメージ化するよう相手に求めながら、そのイメージは虚偽であるとするものだからである。これは、われわれがこれまで述べてきたような意味での、イメージ批判ではない。イメージを利用した詐術であり、相手に「疚しい良心」を生じさせる「ルサンチマン」に発するものでしかない。それゆえ、差別者ー被差別者の齟齬を、双方が想像力によってこえるなどと考えることは、単なるオプティミズムであろう。リンクされた二つのテーゼ自体が相手に想像力を要求し、なおかつそれを斥けているからである。(p247~248)

引用個所だけ読んでも分かりにくいかもしれませんが、ここで指摘されていることは至ってシンプルです。差別を解消するために被差別者の痛みを創造しようとしても、「いや、その痛みは差別された人にしかわからないんだから安易に理解した気になってはいけない」と言われてしまうとどうしようもないんじゃないのか、という「ダブルバインド」です。

ここには「当事者性」という、重要かつ厄介な問題が露出しています。このことについては僕自身強い関心を持っているので、そのうちnoteでなにか書くと思います。

ついでに宣伝しておくと、先日PCについてまた違った問題点を取り上げた記事を書きました。よければこちらの記事もご覧ください。

※平凡社、2019。2200円+税。

○柴田英里・千葉雅也・二村ヒトシ『欲望会議』

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PCつながりで、もう一冊紹介したいのがこちらです。哲学者・千葉雅也、フェミニスト・柴田英里、AV監督・二村ヒトシの鼎談本です。

本書では綿野さんの本よりも明確に、ネット上に浸透したPCに対して批判的な姿勢が打ち出されています。その一部を引用してみましょう。

柴田:要は、銃で人を殺すにしても、弱い女性に対して銃を向けるのは絶対 駄目だけれど、女性を虐げるような悪い男性であれば撃ってもいいし、それ は正義だと。そして、その暴力性を正義として定義したい欲望があるんじゃ ないかと。そこにはまず、驚くべき「正義」の単純化と思考の硬直化があり ます。(Kindle の位置No.724-727)
千葉 :グローバル資本主義が、それまでの共同体の狭い規範を崩し、ありとあらゆるものをすべて交換できるようにしていくという趨勢がある。これは マクロな趨勢であり、それに対する抵抗、バックラッシュはたびたび起きますが、この趨勢自体は揺るがないと思うんです。ポリコレというのは、なるべく交換がスムーズにいくようにするということ。(Kindle の位置No.3153-3159)

特に後者の千葉さんの指摘は重要です。PCにうまく配慮できる企業の商品は売れる。たとえそれが建前でしかなくても、企業戦略としてPC順守を前面に押し出すことは有効です。これと似たような使われ方をしているのが、「エコロジー」ですね。建前でもエコやPCに配慮した企業が増えるのはいいことではないか、と思われるかもしれませんが、もしそれらが商品価値を失ったときには途端に見捨てられることになりますので、商品としてのPCはあまりあてになりません。

こうした書籍の登場をPCに対する反動としてとらえる向きもあるかもしれませんが、PCを相対化するような視線はあってしかるべきだと思います。内側にコレクトネス=「正しさ」という概念を含むような言葉は、乱用の危険を孕みやすいものです。実際、いまPCやフェミニズムはネットミームのようになってしまっていますよね。これは、長期的に見ると運動全体としてもマイナスに働くのではないでしょうか。

本書では、いくつかの具体的な「炎上」事例を通して、改めてPCに対する再考を促しています。千葉さんと柴田さんが理論を、二村さんが実作を担っているという点でもバランスの良い鼎談です。フェミニストの柴田さんの意見が一番過激で、AV監督の二村さんの意見が一番穏当だというのはなんだか逆説的で面白いですが。

現在、PCに批評的な(「批判的な」であればなおさら)位置をとること自体が、少々危険な行為だと言ってもいいでしょう。柴田さんなんかは日々炎上しています。李露店的にというよりは世間の風当たり的に、PCは相対化されにくい雰囲気が生まれています。そういう時代だからこそ、思考停止にならないためにも、こういった本を読んでおくことが必要ではないでしょうか。

※ KADOKAWA、2018。1600円+税。

〇カズオ・イシグロ著/土屋政雄訳『日の名残り』

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『日の名残り』(”The Remains of the Day”)はノーベル賞作家であるカズオ・イシグロの代表作の一つです。ある屋敷で長年執事として仕えているスティーブンス。そんな彼が初めての長期休暇をもらい、イギリスを車で巡る中で、これまでの人生について思いをはせます。

単純に、老執事の丁寧な語り口で屋敷の運営がどのように行われているかを読むだけでも面白いのですが、もう一つ面白いのは、このスティーブンスが典型的な「信頼できない語り手」であることです。

通常物語には語り手と呼ばれる人物がおり、物語内で起こった出来事を読者に伝達します。『日の名残り』の場合、それはスティーブンスだということになるわけです。ただし、語り手は物事を正直に・正確に語るとは限りません。語り手が何か隠し事をしていたり、嘘をついていたりする場合、彼・彼女は「信頼できない語り手」と呼ばれます。

スティーブンスは自分が勤めている屋敷の栄光時代を語るのですが、彼の発言の端々から、どうやら屋敷の主人が政治的に失脚したらしいということが窺えます。そして老いたスティーブンス自身も、昔のように機敏に動くことはかなわず……。作品をよく読むことで、「信頼できない語り手」であるスティーブンスの語る物語の裏にもう一つの物語が見えてくる。それがこの作品の魅力です。

『日の名残り』というタイトルは、日本だと太宰治の『斜陽』を思い出させますね。『斜陽』も没落貴族の話でした。『斜陽』の主人公・かず子は、男性との恋愛を通して再起する力を得ます。

スティーブンスはどうでしょうか。「日はまた昇る」のでしょうか。読みどころの多い良作です。

※ハヤカワepi文庫、2001。760円+税

ピエール・バイヤール著/大浦康介訳『読んでいない本について堂々と語る方法』

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タイトルだけ見ると怪しげですが、その実非常に面白い問題を提起している本です。「読んでいない本」とタイトルにありますが、そもそも本を「読む」とはどういうことか。

たとえば、僕はメルヴィルの『白鯨』という長くて複雑な小説を読んだことがあるのですが、どれくらい内容を覚えているかというと怪しいですし、当時内容を理解できていたかも相当怪しいです。果たしてこれは「読んだ」と言えるのでしょうか。

こんな観点から、バイヤールは「完読」という状態はあり得ないのだと主張します。この本に出てきた書籍にはいちいちバイヤールが読んだ本なのかどうかメモがしてるのですが、そこには次の4つの状態しかありません。

〈未〉ぜんぜん読んだことのない本
〈流〉ざっと読んだことがある本
〈聞〉人から聞いたことがある本
〈忘〉読んだことがあるが忘れてしまった本

見ていただければわかるように、「ちゃんと読んだ本」の項目がありません。要するに、人間が行う読書なんて限界のあるものなので、読んだ本でも読んでないのとあまり変わらないようなものもあるのです。

しかし絶望するなかれ。逆もまた然りです。読んだ本と読んでいない本との境界があいまいだということは、「読んだことがない本について堂々と語る」ことも可能なのであります。本書では、そうした観点から〈幻影の書物〉という魅力的なアイデアが紹介されます。

このように、われわれが話題にする書物というのは、客観的物質性を帯びた現実の書物であるだけでなく、それぞれの書物の潜在的で未完成な諸様態が交差するところに立ち現れる〈幻影としての書物〉である。この〈幻影としての書物〉は理論的には現実的物象としての書物から生れるはずのものだが、われわれの夢想や会話というのは現実の書物よりこの〈幻影としての書物〉の延長上に花開くのである。(p239~240)

また、読書にまつわるユーモラスなエピソードが数多く紹介されるのが本書の特徴です。たとえば、シェイクスピアの『ハムレット』の内容を紹介しようとした学者の話と、話を聞くティブ族のすれ違いの話なんかは最高です。ティブ族にとって見ることはできないが触ることのできない「亡霊」というのは理解できない概念で、父王の亡霊が出るシーンが全く理解してもらえないのです。彼らによって、亡霊は魔術師の出したサインだと解釈されます。だいぶ話が変わりそうですよね。

このエピソードはただユーモラスであるだけでなく、ある文化圏にある人々が有している共通の教養や物語、〈共有図書館〉の話へとつながっています。タイトルのキワモノ感に惑わされずに読んでみると、意外に重要な示唆を受け取ることができる一冊です。

※ちくま文庫、2016。950円+税

○読書猿『独学大全』

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『独学大全』については以前詳しくお話ししたことがあるので、よければこちらの記事もご覧ください。

簡単に説明すれば、この本は「学ぶ」ためのテクニックに注目し、それを55の技法として紹介したものです。僕たちは普段なにかを学ぶ必要が出てきたときに、自分なりの方法でそれに立ち向かっていくわけですが、初めて学ぶ分野などはどう進めていったらいいかわからないときもあります。そんなときに、この本が手助けをしてくれます。

また、すでに自分なりの勉強方法を確立している人でも、本書を読むことは自分の方法の見直しにつながるでしょう。

学習方法にベターはあってもベストはありません。常に自分のやり方を批判的に意識することで、よりよい学びを得ることができるのではないかと思います。

※ダイヤモンド社、2020。3080円。

〇永井荷風『断腸亭日乗』

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『ふらんす物語』や『濹東綺譚』で有名な永井荷風の日記です。荷風は数十年間日記をつけており、この上下巻ある岩波の『断腸亭日乗』もその日記の一部でしかありません。日記を一年つけただけで飽きてしまった僕とは大違いですね。

他人の日記なんて読んで面白いのかよ、と思われるかもしれませんが、SNSって基本的に他人の日記ですし、むしろ現代の僕たちのほうがこうしたものを楽しむ素地があるのではないでしょうか。

特に荷風の日記は戦前・戦中・戦後を貫いて書かれているので、当時の世の中の空気がどのように変遷していったのか、という歴史的な資料としての面白さもあります。荷風は物価とか印税とかこまめにつけているので、今との金銭感覚の違いを見るのも興味深いです。

日記の文章も、教養人永井荷風らしく格調高い文章で、漢詩の素養のおかげか固い書き方ながらリズムがあり読みやすいです。

特に通読しなくとも、自分の興味のある年代や話題のことだけパラパラ見る。そんな楽しみ方ができるのも、日記のいいところです。私は図書館で借りて読んだのですが、面白かったので改めて購入しようと思っています。

※岩波書店、1987。上下セットで2046円。

〇福嶋亮太『らせん状想像力』

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本書は簡単に言えば、「平成文学」がどのようなものだったかを問うた本です。こう書くと、「あーたしかに令和になったもんね。いっかい平成についてまとめてもいいよね」という気がしてきますが、これが案外難物です。

第一に、文学の歴史を語るときに、よく「明治文学」とか「昭和文学」とか言うわけですが、こうした元号による腑分けが適切なものなのかどうかが微妙です。去年元号が変わりましたけど、それで私たちの生活や意識ががらっと変わったわけではないですよね。小説も、そんなに変わった感じはしません。したがって、「平成文学」というくくりが有効なのかは議論の余地ありということになります。

また、平成以降は昭和のころのように「文壇」があって文学者同士が徒党を組んで派閥を作ったり同人誌を発行したりするような時代ではなくなりました。そうした状況下で文学史を語ろうとすると、「〇〇さんはこうしました。××さんはこれを書きました。△△さんが亡くなりました」などと、ばらばらの個人の動きを記述するしかないのではないか。そうした問題も、「平成文学」を語るときに出てきます。

というわけで現代文学史はなにかと面倒なのですが、この本はその面倒な「平成文学」に真っ向から取り組んでいます。しかも、取っている方法は伝統的な文学史記述の手法で、「現代文学でもいけたのか、それ」という感じです。正統派。

たとえば第一章「舞城王太郎と平成文学のナラティブ」では、大江健三郎と村上春樹が「語り」を意識した作家であることに注目し、両者の延長線上にゼロ年代の作家たちを配列して、ナラティブの問題に取り組んでいます。文学史的な縦列が強調されるわけです。

また第二章「内向の系譜―古井由吉から多和田葉子へ」ではタイトル通り内向の世代の作家と平成期の女性作家が連絡されていきますし、第三章「「政治と文学」の再来」でも、そのものずばり文学史の大きなテーマである「政治と文学」が、ポリティカル・コレクトネスなどとの関連で扱われています。

このように、僕がこの本のことを「正統派」だと言うのは、既存のある程度確立した文学史の上に、「平成文学」という形のふにゃふにゃしたものを接続することでその輪郭を描いていこうという、文学史に対する王道的なアプローチがとられているからです。それは「はじめに」の次のような記述からはっきりと読み取ることができます。

こうして、平成文学は大きな方向性として「私」を異常化し「世界」をディストピアに変え「言語」をいっそう世俗化した。ここで重要なのは、こうした傾向には先祖返りとしての一面があったことである。私の見立てでは、平成文学は大正文学のプログラムを再来させたところがある。(p16)

大正文学との重なり合いで平成文学を捉えている、だから、ある程度大正文学を語るときのやり方で平成文学を語ることが可能だということなのでしょう。

こうした観点から綴られる6つの章のトピックは、最終的に「らせん」を描くように配置できる、というのが本書の結論です。この結論がどの程度妥当なのかはもう少し時間がたたないと判断できない部分がありますが、どの章の分析も独創的なものを含んでいて、大変面白く読めました。福嶋さんの批評は、今後も追っていきたいなと思っています。

※新潮社、2020。2400円+税

〇外山滋比古『思考の整理学』

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『思考の整理学』は今年亡くなった外山滋比古さんの代表的な著作です。大学の生協なんかでは、新年度に必ずと言っていいほど平積みされています。

本書が伝えているのはまさに「思考の整理方法」ですが、読書猿さんの『独学大全』なんかと比べると、どちらかと言えば精神的な啓蒙という面が強いような気がします。「この本を読んで勉強するぞ!」と気張らずに、エッセイとして読むのに適した著作だと言えるでしょう。

私は学部一年生のころに、「生協で一番売れている本!」みたいな帯につられてこの本を買いました。初めに読んだときには、正直肩透かしをくらった気分でした。アイデアをお酒のように発酵させることが大切だ、みたいなことが書いてあるのですが、当時は抽象的すぎてよくわからなかったのです。

しかし読みやすいので折に触れて読み返しているうち、書いてあることが自然と自分にしみこんでくるようになりました。実際に研究に取り組むようになったことも大きいかもしれません。

特に『思考の整理学』を意識していないときでも、「このアイデアはしばらくほっといて発酵をまとう」みたいなことを考えるようになりました。影響を意識しないような本の影響が一番大きいなんて話も聞きますが、だとすると僕の中でこの本が占めるウェイトは無視できないものなのかもしれません。

何回も読んでいる本なので正確に言えば「2020年の本棚」の本ではないのですが、外山さんへの追悼の意を込めて、ここで取り上げました。

古き良き時代の教養書、といった風情です。現代の状況とずれた記述もありますが、それも含めて楽しめる本だと思います。

※ちくま文庫、1986。520円+税。

〇おわりに

以上、12冊の本を紹介してきました。どれか1冊でも読んでくださった方の琴線に触れた本があれば幸いです。

できるだけバランスを意識して本を選び、学術書は避けました。あんまり高いと買えませんし、ハードカバーは読むのに不便だし……。

今年は家にいる時間が長かったこともあって、今までで一番多くの本が読めました。量についてはこれ以上読んでも仕方ないかもしれない、と最近思っているので、来年はもっと質を意識してみたいと思います。

2021年はどんな本に出会えるでしょうか。今から楽しみです。


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