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多様性の尊重と社会構築主義―成長について

こんばんは。今日は普段よりも気合を入れた話をしたいと思います。

「多様性が尊重される」ことの究極は「〈わたし〉が尊重されること」です。また社会構築主義的な観点からだと、個人が感じる困難や苦痛は社会的な環境要因にあることになります。

それぞれはそれぞれで妥当な思考でしょう。しかし、その2つが結びついたとき「成長」が取りこぼされてしまうのではないか。そうしたことについて考えていきたいと思います。

〇多様性の尊重

昨今、ポリティカル・コレクトネス(PC)との関連で「多様性」が重要なテーマとして浮上しています。性別・性的な好み(ゲイやレズビアンなど)・人種・国籍……その他さまざまなカテゴリにおいて、多様性を認めていこう、差別をなくそうという動きが活発です。

こうした動きの中で、いわゆるマイノリティ(少数派)と呼ばれる人々に注目が集まりました。その結果、当然のことながらマイノリティとしてくくられる人々の中にもさらに多様性があることが認識されつつあります。たとえば、当初LGBTと呼ばれていた性的マイノリティの枠組みに、しばしば「Q(Question)」がついたLGBTQ、あるいはさらに「I」と「A」がついたLGBTQIAといった表記が用いられるようになってきています。

こうした流れは今後加速しこそすれ、逆行していくことは考えにくいですし、逆行することは食い止めなければならないでしょう。究極的には、多様性の「多」とはあらゆる個人のことを指すようになると思います。Aくんは異性愛者だけれどもイギリス人男性とのオーラル・セックスも望んでいるんだ、Bさんは日本人と韓国人のハーフで、アメリカで長く暮らしていたので自分の考えるアイデンティティとしてはアメリカ人なんだ、というように。

そこではマジョリティ/マイノリティの区別は存在しません。全員がそれぞれの〈わたし〉でしかないからです。

もちろんこうした個人の在り方は思考実験的に多様性の究極として考えてみただけで、さすがに現実的ではないかもしれませんが、現在のPCが〈わたし〉のレベルにまで浸透しつつあるのはたしかでしょう。

〇社会構築主義

一方、社会構築主義という考え方があります。社会構築主義についてはさまざまな捉え方がありますが、ここでは社会的な環境や言説によってジェンダーとか障害、性的な好みなどが構築されるのだという考え方を指すこととします。

たとえば、車椅子に乗っているおばあさんがスーパーに行くのに苦労を覚えたとき、障害を作り出しているのは段差や階段の多い社会の側なのです。あらゆる場所が車椅子用に配慮されて作られていたら、おばあさんは苦労せずに済んだはずです。つまり障害は社会環境によって構築されているのであって、おばあさんが障害を持っているわけではないのです。

また、こんな例も挙げることができます。Cくんは自分の体が太っていることに悩んでいます。しかしその悩みは、Cくんが太っているためにうまれたわけではありません。TVのCMや街中の広告で、やせた俳優や女優の姿ばかりが理想的なものとして取り上げられるせいで、太っている自らの体に劣等感を覚えなくてはならないのです。

ジェンダーなんかは、社会的に構築されたものの代表です。「女性には本来的に母性があるんだ」という言説は、女性に母性を求めてきた社会の構造を無視した言い方だということになります。

こうした社会構築主義については批判も多く出ていますが、今回はそれらにはふれないことにしましょう。それよりも、社会構築主義がやはりPCと相性のよいものであることに注目したいです。

あるマイノリティが差別を受けているのは、そのマイノリティに問題があるからではなく、社会的な環境や言論の積み重ねがマイノリティに負のイメージを背負わせているからだと考えるのが妥当です。時々「いや、科学的に○○人は劣っているんだ」と面白い主張をする人がいますが、その「科学」も一つのイデオロギー(思想)であり、構築されたものに過ぎないという事実に注意が必要でしょう。

しかし、多様性が認められ、ジェンダーや人種が社会的に構築されたものだという視点が手に入れられたとき、そこから「成長」が失われてしまうのではないでしょうか。それが僕の考えです。

〇K先生の悩み

こんなケースを考えてみます。

中学教師のK先生はある悩みを抱えていました。クラスのMさんは、社会の成績はいいのですが英語の成績がとても悪く、英語を勉強しないと行ける高校の幅が狭くなってしまいます。しかしMさんは、単に英語が苦手だというだけでなく、授業中も集中力がなく、課題もやってこないのです。そこでK先生は、Mさんと面談する機会を設け、英語の勉強に励むよう説得することにしました。

K先生「Mさん、なぜ英語の勉強をしないのですか。苦手だからっていつまでも英語に取り組まなかったら、余計苦手になるばかりですよ」

Mさん「でも先生、私は英語が苦手なだけじゃなくて、英語を勉強するのが苦痛なんです。なぜ無理やり英語を勉強させられなきゃいけないんでしょう?全員が毎日同じことをさせられるって、ロボットみたいで気持ち悪くないですか?」

K先生「でも、英語を勉強しないと、行きたい高校に行けなくなるかもしれませんよ」

Mさん「それっておかしくないですか?私、アルファベットを見ると頭がくらくらしてくるんです。そういう人から高校進学の機会を奪うのって、間違ってるんじゃないですか。私、大学まで行って日本史の勉強がしたいんです」

K先生「日本史を勉強するのにも英語はきっと役に立ちますよ」

Mさん「いえ、どうしても英語の勉強はしたくありません。大学に行っても、英語を使わずに日本史をするつもりです。なんで英語をしないっていう選択肢がないんですか?嫌がってる人に英語を勉強させるのって、一種の暴力じゃないですか」

一科目くらい勉強しなくったって大学へはいけるんじゃないか、とかそういう細かい話はおいといて、K先生がこのMさんを説得することは可能でしょうか。英語をしなければ選択肢が狭まる社会構造の方が間違っているのではないでしょうか。

僕がここでしたいのは学歴社会批判ではありません。多様性を尊重し、社会構築主義の考え方をとるなら、Mさんに英語を勉強させるのが非常に難しくなるのではないか、ということです。もっと言えば、そもそも説得を行うこと自体が暴力的ではないか、ということを述べたいのです。

〈わたし〉の多様性を認め、かつ多様性を尊重した結果生じるデメリットが社会構造の問題なのだとすれば、Mさんに英語を勉強させることは不可能ではないでしょうか。Mさんはアルファベットを見ると「頭がくらくら」するのですし、英語を勉強しない結果選択肢が狭まることはMさんの責任ではなく、社会の責任だと言えるからです。

一つ注記しておけば、原理的に、あらゆる人の多様性を認めることはできません。なぜなら、そうすると多様性を認めない人のことも「多様性」の一つとして認めなければならなくなるからです。あるいは「殺人」や「差別」も、「多様性」として認めることになってしまいます。認められる「多様性」とそうでないものの境界は、公共性に照らしながら(そしてその「公共性」を疑いながら)その都度引き直される必要があるでしょう。

しかし、このように「多様性」のハードルを引き上げたとしても、なおMさんの英語嫌いは多様性の一つとして認められるべきでしょう。英語が嫌いだからって、誰に迷惑をかけるわけでもないのです。Mさんは中国語なら勉強できるかもしれません。それなら、高校や大学が中国語の試験をもっと広く設けることで、Mさんの問題は解決するのではないでしょうか。

また、こんな例を考えてみます。K先生は読書感想文の採点をしながら、こんな疑問が生じてしまいました。「文章は生徒たちの自己表現だし、自己にはそれぞれの形があるはずなのに、それに評価をつけるのは間違っているんじゃないか。自己表現にうまいとか下手とかあるんだろうか。正しい原稿用紙の使い方なんて教えてたけど、それぞれの表現を一定の型に押し込めるのっておかしいんじゃないか……」。

では、K先生はこれからこんな風に教えるべきでしょうか。「1+1は2だと多くの人に認められている。もちろん、1+1が3だと考える人を否定するわけじゃないですけどね」。

〇成長はどこにいくのか

まとめます。まず、多様性の尊重はそれぞれの〈わたし〉を尊重するという側面を含みます。また、社会構築主義的な考え方では、〈わたし〉が生活の上で覚える困難や苦痛は社会構造の問題に回収されます。そしてこの2つが抱き合わさると、社会自体が〈わたし〉に合わせて編成されることになります。「私が向かおうとする先に道ができるのだ」という感じでしょうか。

〈わたし〉の尊重は、「今・ここ」の〈わたし〉の尊重でなくては意味がありません。「あなたがあと3キロ痩せたら認めます」とか、「黒人のことは5年たったら考えるよ」とか言ってたら多様性も何もないですから。

では、今のままの〈わたし〉が尊重されるとすれば、成長はどこにいくのでしょうか。もちろん、成長したい人は成長すればいいでしょう。成長したくない人は?変化なしの成長はあり得ませんから、誰かに「成長しろ」と言うことは、多少なりとも「今のあなたを認めない」というメッセージを含むのではないでしょうか。

「教育」というものが、何らかの方向性における人間の成長を目指すものだとすれば、これは「教育はどこにいくのか」とも言い換えられるでしょう。逆に言えば、教育とは一種の暴力性を含まざるを得ないものだということです。先生と生徒は常に非対称的な関係にありますし(先生の方が立場的に上)、学ぶことは変わることを意味しますから、「勉強しろ」「勉強してほしい」というメッセージは、「あなたに変わってほしい=今のあなたには認められないところがある」という暴力性を孕んでしまいます。

暴力性を含まない教育とは?生徒が自発的に学ぶときには、教育は暴力性を含まないかもしれません。変わりたいと思う〈わたし〉を尊重することになるからです。

学びたくない人は?成長したくない人は?――PCに忠実であるなら、成長を促すことはできないでしょう。それは誰に迷惑をかけることでもないですし、その人が〈わたし〉を保ちたいなら、それを否定する権利は他人にはないからです。

そのとき、成長はどこにいくのか。成長したい人だけが成長すればいいのでしょうか。

※ここでは、多様性を尊重しようとする側に焦点を当てた議論をしています。たとえばいじめを受けたせいで不登校になり、それがきっかけで勉強を拒絶している子がいるとすれば、その子にとって「学校に行って勉強をする」という選択肢自体が存在しないことになります。そうした場合、成長云々以前に、まず学びに関する選択肢を用意することの方が先でしょう。もしかするとMさんの英語嫌いにも、何か外的な理由があるのかもしれません。その「理由」の質を見極めることが難しいのは、支援を必要とする個人のニーズが本人にも自覚されていないことがあるからです(「非認知ニーズ」)。だからこそ、「成長しろ」という呼びかけから暴力性を取り除くことが困難なのです。また、同様の理由で、「成長する」という選択肢と「成長しない」という選択肢の間に優劣をつけることも、暴力的なものになるでしょう。なのでこの記事では、「人は成長すべきである」というスタンスはとっていません。

〇反知性主義を批判できるか

今までの話は言葉遊びのように聞こえるかもしれないので、もう少し実際的な話をします。これまで述べてきたことについて少し違う観点から言えば、PCを突き詰めることは反知性主義を否定できなくなることでもあります。

Twitterなどで、ある種の広告や漫画が炎上しているのを見かけることがあるかと思います。それが「炎上して然るべき案件」なのか否かはそれぞれのケースにあたって見極める必要がありますが、ここで注目したいのは、そうした広告や漫画への批判がしばしば「私は不快と感じました」「自分の経験と重なり、傷つきます」という形をとることです。これは書き方の問題ではありません。多少テクニカルな単語を使っていても、文の構造は変わりません。「私はこれを性的消費だと感じました」「自分はこれを人種差別だと感じました」など。

こうした感覚的な批判は、しばしばフェミニズムや人種差別に関するこれまでの蓄積を無視した次元で行われます。そうすると、黒人差別を皮肉的に描いた反差別的な作品が「黒人差別だ」とされたり、フェミニズム・アートが「女性差別だ」とされたりすることになります。「個人的なことは政治的なことである」という有名な言葉がありますが、そうした考え方が拡大解釈され、乱用されてしまうわけです。

ただし、この記事はそうした〈わたし〉の感覚で作品や言説を批判する人の問題点をあげつらうことを目的としていません(※)。そうではなくて、そうした批判者に「勉強してから批判したほうがいいですよ」と言えるのか、ということを問題にしたいのです。

千葉雅也・二村ヒトシ・柴田英里『欲望会議:「超」ポリコレ宣言』では、こうしたSNS上の炎上案件について具体的な批判分析がなされています。綿谷恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど。』と並んで、PCのことについて考える際に参考になる良書だと思います。

SNSでは炎上が楽しくて便乗的に批判している人もいるでしょうが、本当に過去に辛い経験があって、それを思い出させるような表象を斥けたいと思っている人もいるはずです。そうした人に対して、「勉強してから批判してください」と言うことは可能でしょうか。その人の多様性、〈わたし〉を傷つけることなしに、「批判は成長してからにしましょうよ。今は慎重になりましょうよ」と言うことは可能でしょうか。

もちろん、〈わたし〉に根差した批判が的を射ていない場合、批判された側には「気にしない」という選択肢があります。なので、そうした批判に対する穏当な解決策は、素直に謝罪するか/無視するかのいずれかです。そこで批判者を批判すれば、さらなる「炎上」につながるでしょう。

だとすれば、PCを順守すると反知性主義――「反」がニュアンスとして強すぎるなら、「非」知性主義・実存重視主義を批判できないことにならないでしょうか。学問を蔑ろにする人に、「学べ=成長しろ」と言うことは、今まで挙げてきた例と等しく、暴力性を孕んでいます。勉強しなくても〈わたし〉のレベルから批判できるのだ、という感覚が否定されないのならば、理論や知識がなくても生きていけるさ、という人ももちろん否定できませんし、そうした思考が「じゃあ学問はいらないんじゃないか」という考えに行きつくのを止めることは困難です。理論や学問よりも〈わたし〉の感じ方のほうが大切だ、となっていくはずです。

リベラルの例ばかり出しましたが、〈わたし〉の感覚から出たものだとナショナリズムも否定しがたいものになります。「私は日本が大好きです。なので、日本を悪く言うような本や漫画を見ると傷つきます。やめていただきませんか」という批判は、やはり無視することは可能ですが、批判を批判することはできません。批判自体が、批判する〈わたし〉と分かちがたく結びついているからです。

昨今の反知性主義的な流れはリベラルの在り方と真逆のように見えますが、実はPCの遵守が実存最上主義とでもいえるところまで行きついた結果出てきてしまったもの、リベラルと同根のものなのではないのか。そんな気さえしてしまいます。

〇まとめ

PCは〈わたし〉に暴力をふるうことができない。したがって、〈わたし〉の変化、成長を要請することができない。ゆえに、理論や知識を学ばない人を批判することができず、反/非知性主義を止めることができない。

これから成長はどこにいくのでしょう。成長したい人だけが成長すればいいのでしょうか。それはそれで、行きつく先は自己責任論だという気もしますが、〈わたし〉の在り方を尊重できない社会の問題だということになるのかもしれません。

僕は、自分が成長したいとは思いますが、人に「成長しろ」とはまだ言えなさそうです。いえ、言えるのですが、理論的には納得できる段階にありません。しばらくは上記の考察に眼をつぶって、論文の体裁やレポートの書き方について、「正しさ」を教えることになるでしょう。

さて、どうしたものか。










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