詩の授業ってどうするの:短歌
日ごろ日本の近現代詩について研究している者です。
私が普段書いているのはどちらかというと専門的な、日本の詩にどのような可能性があったのかというような論文ですが、多くの人から中高国語で詩をどのように教えればいいかよくわからんという話を聞きますので、noteではちょくちょく詩の読み方について書いております。
短歌・俳句については厳密に言えば専門ではないのですが、それなりに読み慣れているつもりではあるので、番外編ということで短歌・俳句の授業についても書いてみることにしました。
全国の先生方の参考になれば幸いです。今回は短歌篇。
◯使用教材
この春から高専で働いていて、高校3年生の学年も教えています。短歌と俳句もシラバスに加えて授業したので、そのとき使った教材を例に挙げて読み方を説明します。あくまでも具体例で、この記事の内容は他の教材にも応用がきくはずです。
使用教材は数研出版の『文学国語』。授業時間数は、短歌で1コマ(90分)、俳句で1コマ(90分)とりました。高校の授業時間数に直すと3.5コマ分くらいになるので、短歌・俳句の授業としてはぜいたくに時間をとっている方かもしれません。
ちなみに指導書も大いに参考にしましたが、教科書会社の方でも他分野に比べて指導書を作りあぐねている印象を受けました。詩・短歌・俳句のいわゆる韻文系が(ただし、日本の近代詩は基本的に韻文ではありません)、国語科の中でも特に指導法が確立されていない分野ではないでしょうか。
◯読解例
短歌と俳句はたった14音しか音数が違いませんが、その表現の質はまるっきり違います。例外は多数ありますが、多くの場合①短歌の方が音楽的であり、②短歌の方が抒情的です。
短歌を扱う場合、授業では内容もそうですが「音」に特に注意を向ける必要があります。実際に作品にふれながら見ていきましょう。
◯「水すまし流にむかひさかのぼる汝がいきほひよ微かなれども」
この短歌で最も多く登場する音はなんでしょうか?
短歌で「音」と言った場合には母音を考える場合も多いですが、今回は子音+母音で指摘することができます。このように音を考える場合、短歌をすべてローマ字に直すのが効果的です。授業で音について扱わないような短歌でも、教材研究としてはすべてローマ字に直して音を見ておきましょう。
なおこの短歌は歴史的仮名遣いで書かれていますが、ここでは実際に発音するときの音を考えたいので、「ひ」などは「い」にしてしまいます。
この短歌のなかで、最も特徴的な音はk音およびg音です。「ながれに」「むかひ」「さかのぼる」「ながいきほい」「かすか」と、何度もk/g音が出現します。
また、n音もそれなりに多く出てきます。「ながれに」「のぼる」「なが」「なれども」と各音節にバランスよく、しかも句の頭に2回できますから、これも作者による音の工夫の一環として指摘してもよいでしょう。生徒には、短歌でまず見るべきは音数と音韻だということを徹底してもらいましょう。なにせ韻文なので。
では内容。内容はあまり複雑ではありません。水すましは小さな虫です。水の流れに逆らって進もうとしますが、大した推進力はありません。
注目すべきは末尾の「ども」です。単に水すましの勢いが微かだと言っているのではないわけです。この「ども」には、どのような意味が込められているでしょう?ここはぜひ生徒に考えてもらいたいポイントです。
この「ども」には、生き物の生命力の力強さに対する賛美とか、懸命に努力する姿への共感・感嘆などが込められているのでしょう。水すましのもつエネルギーは「微か」ですが、そこにはあなどれないものがあるのです。短歌や俳句は短い分こうした細かい部分に目をつける必要がありますが、逆に言えば普段の授業ではなかなかやっている暇が無い「細部に注目すること」の重要性」を教えるいい機会だとも言えるかと思います。
◯「たびごころもろくなり来ぬ。志摩のはて 安乗の崎に、燈の明り見
これは釈迢空、民俗学者折口信夫の短歌です。歌の中に句読点や空白が入っていますが、短歌にこうした要素を入れるのが釈迢空の特徴です。ちょっとめずらしい書記法ですね。
先ほどと同じ手順で、この短歌の音を考えます。
この歌で最も出てくる音はなんでしょうか。今度は母音で考えてみます。「o」?たしかに「o」音は前半にたくさん出てきますね。この歌の中で特に目立つ音のひとつと言っていいでしょう。
ただし、単純な回数で言えば「i」音が最頻出です。数えてみてください。少しの差ですが、「i」音が「o」音よりもたくさん出てきていることが確認できます。なんとなくの感覚ではなく、実際に音を数えてみることの大切さがよくわかると思います。
でも生徒によっては、あるいは先生方自身も疑問に思うかもしれません。5つしかない母音を扱って、どれが多いとか少ないとか言う余地はあるのか。20%の確率でどの音も出てくるのだから、誤差みたいなものではないか、と。
その感覚は間違いではありません。細かいことは省きますが、日本の詩が押韻を捨てた理由のひとつは母音が「響きすぎる」ことでした。母音だけを考えるなら、テキトウにやっても勝手に韻を踏めてしまうことはしばしばあります。
ただ、現代のアーティストはそのあたりも含めて歌詞作りをしているようです。下の本などは、読みやすいので生徒・先生方ともにおすすめです。
ラップではないですが、せっかくなので生徒も知っていそうな曲でひとつ例を挙げましょう。
すぐに「i」音が多いことに気が付くと思います。しかし、それだけではありません。「がらあき」の「らあき」の部分で、「ラッキー」と同じ音が登場するようになっているのです。このような細かい工夫を繰り返すことで、この曲は非常にリズムよく耳に感じられるようになっています。1回聴いみるとわかります。
Jpopの押韻の話は次の記事でも書きましたので、ぜひ詩の話をするときには歌詞の話もしてみてください。生徒が授業に親しみをもってくれやすくなると思います。
この短歌は、内容的にはあまり解説すべきポイントがないですね。発問するとしたら、心が「もろくなりきぬ」ような状態になったとはどういうことか、それはなぜか、というくらいでしょうか。そうした心の様子と、「燈のあかり見ゆ」の関係がわかれば十分だと思います。
ちなみに、志摩は三重県。志摩スペイン村の志摩です。
○「最上川の上空にして残れるはいまだ美しき虹の断片」
ふたたび茂吉です。実際に教科書に載っている順番としては「たびごころ」よりこちらが先なのですが、説明の順番としては入れ替えたほうがいいと思います。
というのもこの歌、音楽的には特に指摘すべき特徴がありません。母音や子音が特徴的だったさっきまでの歌とは違うわけですね。
そのかわり、字余りが発生しています。「最上川の」と「いまだ美しき」の部分です。ここで字余り・字足らずについて簡単にレクチャーするとよいでしょう。
また、「上空 じょうくう」に拗音がでてくるのも注目ポイントです。というのも、「じょうくう」は一見すると「じようくう」で、5音とるように見えます。しかし数え方としては4音で、「上空にして」で7音ぴったりです。短歌の音はどのように数えるのでしょうか。
実は、私たちが短歌・俳句のリズムを数えるときは、厳密に言うと「音」ではなく「拍(モーラ)」で数えています。「上空」は拍数で言うと4拍、「じょ」は1拍で詠めます。
なので短歌は正確に言うと31拍の詩です。これを「音」と言ってしまうと、促音が問題になりますよね。たとえば「ビスケット」の「ッ」は発声していませんが、1拍分とっているので、「ビスケット ああおいしいな ビスケット」は5・7・5のリズムを守っていることになります。モーラまで授業で言うかは別にして、拗音・促音・長音をどう扱うかは説明しておいてもいいでしょう。
この歌の内容でおもしろいのは、「いまだ」ですね。この歌は単に虹が美しいと言っているのではなく、「虹の断片」が美しいのだと詠んでいるのです。ここには、線的な時間の流れがあります。「いまだ」とあるからには、もともと「断片」ではない美しい虹があり、それが時間がたって消えかかってしまっているが、「いまだに」美しいのだというニュアンスがあるのです。発問としては、この「いまだ」のニュアンスを聞いてみるといいでしょう。
○「きさらぎのはつかの空の 月ふかし。まだ生きて 子はたたかふらむか」
ふたたび釈迢空。教科書だと4番目に載っている短歌です。非常に面白い歌だと思います。
さっきの歌で「いまだ」について聞いたのですから、ここで注目すべきは「まだ」です。「まだ生きて」には、どのようなニュアンスが込められているでしょうか?
たとえばあなたのおじいさんが緊急搬送されたとします。あなたは連絡を受け、急いで病院にかけつけます。そこであなたは訊ねます。「おじいちゃんまだ大丈夫!?」。
こんな言い方はしないですよね。なぜなら、「まだ大丈夫?」という聞き方では、いずれ大丈夫でなくなることを含意してしまうからです。「まだ」は未来に対する推測を含んでいるわけです。
そう考えると、この歌は特殊さがわかるでしょう。息子の生に対して、「まだ」をつけています。普通に生きていてほしいと思うなら、「いまも子は戦っているのだろうか」のように詠むはずです。ここには未来に対する暗い予測があります。子供の死は避けられないだろう。しかしいまは「まだ」生きているだろうか、と。
折口信夫の養子である折口春洋は、第二次世界大戦中硫黄島で戦い、戦死しました。折口の予感は現実のものとなったのです。1942年の後半あたりから、アジア・太平洋戦争の戦況は急激に悪化していきます。当時の若者の日記や回想を読むとわかりますが、戦地に出て生きて無事に帰れると思っている若者はほとんどいませんでした。ここに歌われているのは、死が運命づけられた戦場に息子を送り出した父親の気持ちなのです。
こうして考えていくと、「まだ 生きて」と空白があいていることも重要な要素です。同じような空白は「たびごころ」の歌でも使われていますが、あちらは「志摩の果て 安乗の~」と音数にしたがった空白で、そんなに違和感はありません。ところがこの「まだ生きて 子は」は、「まだ生きて子は」という7音を分断してしまっているので、読んだときにつまづきがあります。つまづきを与えるような空白なのです。
つまり折口の中で、「生きて」という語と「子」という語のあいだに懸隔があるのです。なぜなら「子」は生きて帰ってこないだろうから……。この空白は、「まだ」が表していたニュアンスを形式としても表現しています。
文学者は、このように細部を作りこむことによって優れた歌を生み出しています。
○まとめ
以上から、を教授するときのエッセンスをまとめてみましょう。
①形式(音数、書記法)に注目する。
②細かい字句に気を配る。
③現代のポップスなどに接続してみる。
短歌や俳句はたしかに教えにくい分野だと思います。しかし、短歌や俳句のもつ「短さ」には、国語において重要な「細部に目を配ること」に生徒を集中させるという重要な利点があります。極論すれば、国語的な「読み」の技法のエッセンスを最も伝えやすいのが短歌・俳句ではないでしょうか。
教科書に載っているのは、名歌・名句ばかりです。こちらがやる気を出せば、作品は必ず読者に応えてくれるのです。
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