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詩の授業ってどうするの:谷川俊太郎「朝のリレー」を例に

国語の教科書にちょくちょく載っていて、1年に1回くらいは扱うことになる「詩」の教材。受験ではめったに出ない分野ですが、全くやらないという選択肢もとりにくい。

国語の先生とはいえ、多くの人が小説を読む訓練は受けていても詩を読む練習はあまりしたことがないのではないでしょうか。詩の授業、なにを教えたらいいか困りませんか?「詩はわからなくていい。言葉を味わうだけでいいのだ!」なんて割り切れませんよね。

私は中高の国語の先生ではありませんが、近代詩を専門として研究しており、人より多少長く詩を読む修行を積んでいます。というわけでこの記事では授業案……とまではいかなくとも、詩の読解・教授に際して「このへんがポイントになるんじゃないか」というところを示してみたいと思います。

例に挙げる教材は谷川俊太郎「朝のリレー」。中1国語教科書の冒頭に載っていることが多い詩ですね。ただし後述するように、不用意にこの詩を4月の頭にやってしまうと、苦労することになるでしょう。

◯まず前提知識をおさえたい

詩を授業する上で、最低限生徒に知ってほしい知識があります。「連」の概念と、口語詩/文語詩・自由詩/定型詩の区別です。

念のため解説しておくと、「連」は詩の中の形式的なまとまりを指します。ふつう、一行アケの前後で連が区別されます。「朝のリレー」なら、「いつもどこかで朝がはじまっている」までが第一連、それ以降が第二連ですね。

カムチャツカの若者が
きりんの夢を見ているとき
メキシコの娘は
朝もやの中でバスを待っている
ニューヨークの少女が
ほほえみながら寝がえりをうつとき
ローマの少年は
柱頭を染める朝陽にウインクする
この地球で
いつもどこかで朝がはじまっている

ぼくらは朝をリレーするのだ
経度から経度へと
そうしていわば交換で地球を守る
眠る前のひととき耳をすますと
どこか遠くで目覚時計のベルが鳴ってる
それはあなたの送った朝を
誰かがしっかりと受けとめた証拠なのだ

連は形式的なまとまりですが、「朝のリレー」がそうであるように意味のまとまりにもなっていることが多く、連単位で詩を読んでいくのが理解しやすい読み方でしょう。授業で「じゃあ第二連に注目してみて」などと指示をするためにも、連の概念を先に教えておくとあとがスムーズですね。

また、「朝のリレー」は口語自由詩というカテゴリに分類される形式的な特徴を持っています。口語というのは現代のような言葉遣いの文章、逆に文語は古文みたいな言葉遣いの文章ですね。また、自由詩はルールの無い詩、定型詩は七五調のようなルールのある詩です。

ということで、多くの詩はざっくりと口語自由詩・口語定型詩・文語自由詩・文語定型詩の4パターンに分けることができます(もちろん本当はもっといろいろあります)。

詩の基本的な分類なので知っておきたいというのもありますが、テストで問題にしやすいというのがこのパターン分けを教えるメリットのひとつです。詩の解釈はどうしても「これもありだな……」みたいになってしまうので、知識的な部分の方が出題しやすいでしょう。そういう意味では、作者の谷川俊太郎についても軽く触れておけばテストに出せますね。幸い、習っていなさそうな漢字は「俊」くらいです。

※ただし「朝のリレー」が扱われることが多い中学1年生だと「文語」というのがピンとこないでしょうから、このような分類はもう少し学年が上がってからやることにしてもいいかもしれません。

◯朗読しよう

まず全体像を把握するためにも、リズムを楽しむためにも、最初に朗読を3回くらいしたいですね。短い詩ですし、そんなに時間はとらないはずです。「リレー」にひっかけて、生徒にリレー形式で一行ずつ読んでもらうのもいいかと思います。

朗読の際には、読み方や漢字の読み仮名に注意します。そういう基本的なところがあいまいだと、あとあと苦労しますので。

◯「朝のリレー」はわかりにくい詩である

朗読が終わったら、いよいよ内容に入っていけます。この詩は第一連と第二連で内容が明確に分かれていますから、連単位で授業構成を考えればよいでしょう。

第一連では、カムチャツカやらニューヨークやら地名が数多く登場します。生徒の理解のためにも、地図で示してビジュアル化できるといいですね。そうすれば東西の距離感がよくわかりますし、それがわかれば朝がどのようにリレーされていくのかわかりやすくなります。

さて、連こそ分かれていませんが、第一連はその中でも三つのパートに分かれています。「カムチャツカ/メキシコ」パートと、「ニューヨーク/ローマ」パート、そして第一連のまとめとなる「この地球で/いつもどこかで朝がはじまっている」ですね。

カムチャツカはロシアの端っこにある半島で、経度は東経160度くらい。メキシコは西経100度くらい。時差は(160+100)÷15=18時間くらいですね。というわけでカムチャツカの若者が夜24:00くらいにすやすや眠っている時間でも、メキシコはまだ朝の6:00。「朝もや」がかかっているくらいの時間だということです。

同様にニューヨークは西経75度くらい、ローマは東経10~15度くらいです。時差は(75+15)÷15=6時間くらいでしょう。なので「ニューヨークの少女」が夜24:00くらいで気持ちよく眠っている時間帯、ローマはちょうど朝日が登るくらいの時間になっています。

ここまで内容を見てくると、見た目に反してこの詩がけっこうわかりにくい詩だということに気づかれるかと思います。

「朝のリレー」は多くの場合、国語の教科書の冒頭に掲載されています。つまり、中学校1年生の4月ごろにこの詩を学ぶわけです。

詩の中で朝がリレーされていくことを理解するためには、「時差」の概念がわかっていなくてはなりません。ところが、これを学ぶのはふつう中学校に入ってからです。つまり、「朝のリレー」を勉強する段階の生徒は、日付変更線とか東経西経とかをわかっていない可能性が高いです。そしてそれがわからない状態でこの詩を学ぶと、必要以上に読解の難易度が上がってしまいます。下手すると、「え、地球の中で時間が違う地域があるんですか?」みたいになりかねません。

したがって、社会科の先生と連携し「朝のリレー」の授業は経度・緯度などの知識を身に着けたあとに行うことを提案します。国語科的には、教科書の冒頭に載っているということ以外この詩を先に扱う理由はないはずですから。逆にこれはチャンスでもあります。社会で習った時差の計算などを国語で改めて復習することで、科目を超えた分野同士のつながりを生徒に実感してもらうことができるからです。それは、国語が好きな生徒が社会に、社会が好きな生徒が国語に興味をもつきっかけにもなります。

ただし、この詩の難しさはそれだけではありません。詩のカメラはカムチャツカ➡メキシコ➡ニューヨーク➡ローマと動いていきます。つまり一度極端に東に動いてから徐々に西側に戻る構成となっているわけで、これは朝が訪れる順番と一致しないのです。

「朝のリレー」と題するなら、朝が来る順番、カムチャツカ➡ローマ➡ニューヨーク➡メキシコと詩が展開してほしいところです。しかし、そうはなっていません。タイトルに反して、この詩は朝をリレーしている感じを覚えさせない順序で地名が出ています。しかも冒頭に登場するカムチャツカは夜の場面が描かれており、「朝」のバトンを次に託すという印象も抱きにくくなっています。

研究であればこういう構成の「つまづき」からいろいろ考えてみたくなるのですが、正直言って中学1年生に読ませる詩としては構成が複雑です。教授者は、この詩が見た目に反して読みにくいことを十分自覚して授業を行う必要があるでしょう。

◯第一連を読み解く

さて授業の際ですが、「リレー」のイメージを重視してカムチャツカの朝を想像してもらうところからスタートするのがいいかと思います。たとえばカムチャツカの中学生が学校にいくために朝起きて、朝ごはんを食べる。学校に行く。そのくらいの時間には、日本にいるみなさん(つまり生徒たち)にも朝が訪れて、こうやって授業を受けるために学校に行く。そしてそれがインドやらフランスやらでも繰り返されて、「メキシコの娘」までバトンが渡されていく。そのころには、最初朝だったカムチャツカはもう夜になっている……。

詩の内容からちょっと逸れる部分はありますが、朝がリレーしていくということをイメージしてもらうためには、朝の情景をイメージすることからスタートしたほうがわかりやすいはずです。

次のパートも同じです。詩の順番はニューヨーク➡ローマですが、ローマ➡ニューヨークの方が「朝のリレー」感があります。その順番なら、1~4行目までと同じように教えればよくなります。それで8行目まで教えられたら、地理の知識も確かめながらカムチャツカ➡ローマ➡ニューヨーク➡メキシコという東から西への太陽の動き(厳密には地球の動きですが)を確認してもらって、「この地球で/いつもどこかで朝がはじまっている」とまとめればよいわけです。

なお、この詩についてしばしば対句構造を指摘する方もいますが、「朝のリレー」は対句を教えるのには向いていません

対句構造を指摘するとすれば、眠っているカムチャツカ・ニューヨークの人々と朝を迎えているメキシコ・ローマの人々「対」、あるいはカムチャツカ/メキシコのペアとニューヨーク/ローマのペアの「対」になります。

まず前者ですが、この詩の朝と夜を対照的に捉えてしまうと「リレー」のもつ連続性が意識しづらくなってしまいます。詩における朝と夜は対立する2つの項というよりはリレー的に引き継がれていくものであり、「対」という言葉のイメージはそうしたリレー構造の理解を阻害するでしょう。カムチャツカの夜に「対して」メキシコの朝があるという詩ではないからです。

また後者、「カムチャツカ/メキシコ」パートと、「ニューヨーク/ローマ」パートも対句として教授すると混乱を招きそうです。なぜなら「カムチャツカ/メキシコ」パートは東から西へ、つまり太陽の移動する方向に詩の視点も移動しているのですが、「ニューヨーク/ローマ」パートは西から東へと視点が移動しているからです。もちろんそこまで踏まえて「対」になっていると言うことは可能なのですが、生徒がカメラの移動方向の違いをわかっていないと、どのように朝がリレーされているか分かりづらくなってしまうでしょう。

そもそも対句を教えるなら対句に関して厳密なルールのある漢詩などでやればよいわけで、この詩を使って無理にそれを教えるメリットはあまり感じません。この詩で対句を教えるのはおすすめできませんね。

◯第二連を読み解く

第一連がしっかりと理解できていれば、第二連はそんなに難しくありません。「ぼくらは朝をリレーするのだ」ということを、具体的な事例と一緒にやってきたはずですから。まさに授業の時間中に朝を迎えている国がどこか、自分たちで調べて具体例を作ってみてもいいでしょう。

ちょっと気をつけないといけないとすれば、第二連の後半でしょうか。「眠る前のひととき耳をすますと/どこか遠くで目覚時計のベルが鳴ってる/それはあなたの送った朝を/誰かがしっかりと受けとめた証拠なのだ」の部分で、夜➡朝へとやや時間が飛躍しています。

たとえばカムチャツカが寝る時間になり別のところが朝を迎えるまでには、各地域で朝をリレーしていく過程があるはずで、そこを意識せずに夜の地域から直接朝の地域に朝がリレーされていくと読まれてしまうとちょっとイメージがジャンプしてしまって困るのです。やはり、「リレー」的連続性を大切にしたいところです。

※逆に言えば、「リレー」と銘打ちつつ様々の地域を次々と移動するこのカメラの跳躍力が本作の特徴ということになります。ただ、こうした微妙な逆説を論じ始めると生徒の混乱を招くだけだと思いますので、こういうことをやるとしたらせめて高校生以上でしょうか。

〇詩の構成

内容以外で気にしたいのは、この詩の構成、第一連と第二連との関係です。一読すればわかるように、この詩では第一連で具体的な「朝のリレー」の様子を、第二連で抽象的な「朝のリレーとはなにか」みたいな話を描く構成になっています。具体➡抽象、文章構成の基本ですね。

ただし生徒のレベルにもよりますが、この具➡抽という型を中学一年生の始めに教えるべきかと言えば微妙です。少なくとも、「具体」とか「抽象」とかいう言葉遣いは避けたほうがいいかもしれません。

それでも詩は構造を捉えることが大切なので、第一連でなにかわかりやすい例が出ており、第二連でそれがまとめられている、というようなことは言ってもいいかと思います。必ずしも全ての詩がそうなっているわけではないですが、「連のまとまりが意味のまとまりであり、各連の内容をつかんだら次に連と連の関係を考えることで全体がわかる」という感覚を生徒につかんで欲しいので。ちなみにこの考え方は評論文の意味段落にも適用できます。

〇プラスαをやるなら

短い詩ですが、中学1年生で学ぶなら以上のようなことをやると2~3コマ消費していることでしょう。ですので追加でなにかをやる余裕はない可能性が高いですが、一応活動案を示しておきます。

せっかく谷川俊太郎という面白い詩人の詩を扱っているので、谷川の他の作品を授業で取り上げてもいいかもしれません。谷川には「ことばあそびうた」のように平易でリズムと言葉遣いが楽しい作品も多数ありますから、そうしたものをピックアップして教室で朗読するだけでも詩に親しむきっかけにはなります。

もう少しちゃんと鑑賞を深めるなら、「二十億光年の孤独」を扱うのもおすすめです。「朝のリレー」は地球上の様々な地域にカメラが移動するという地球規模の広がりがある詩ですが、「二十億光年の孤独」は地球と火星でカメラが移動するという宇宙規模の詩です。谷川の想像力の広がりのようなものを、「朝のリレー」と「二十億光年の孤独」を並べることで感じてもらうことも可能でしょう。

また、もう少し道徳的な扱い方もできます。この詩はいわば、自分が寝る時間にもどこか朝を迎えている地域があるという、遥かな他者に思いを馳せる詩となっています。自分と境遇も環境も違う他者への想像力を養うという観点からこの詩を扱うこともできるはずです。

もっとラフに考えて、谷川に限らずいくつか面白いと教員が感じた詩をもってきて生徒にベスト1を選んでもらってもいいかもしれません。あるいは、「夜のリレー」みたいなタイトルで詩を書いてもらってもいいかもしれませんね。

◯まとめ

今回は中学1年生の教材ということを考慮して、かなりリテラルに「何が書いてあるか」を理解してもらうような授業の構成を考えてみました。詩は短くややこしい論理も含まないことが多いですから、文字通りのリテラシー教育に向いています。書いてあることをひとつひとつゆっくり追っていくことが、小説や評論ほど(時間的に)難しくありません。

ただしそのとき教員は、詩の重心がどのようなイメージにかけられているか把握している必要があります。私は今回それを、「朝のリレー」というタイトルに注目して「リレー」の連続性であると設定しました。

ここがあいまいだと授業の方針そのものがぶれてしまいます。その詩で重要な意味を持つモチーフ、繰り返し出てくるイメージ。そうしたものに注目することで詩の読み方は少しずつ定まってきますし、授業も軸のあるしっかりとしたものになるでしょう。

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