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「〇〇らしさ」←コレの正体知っていますか?

まず一つ、僕から質問があります。

「自分らしさ」「男らしさ」「女性らしさ」
「大人らしさ」「子供らしさ」「親らしさ」
この中に「いい言葉だな」と思うものはありますか?

色々な「らしさ」というのがありますが、どれもあまりいい響きに聞こえないのではないかと思います。現代に生きていて、いい言葉だと思う方が稀でしょう。
この日本の社会どころか、この時代を生きる全世界の人たちにとって言葉とは到底思えません。
ではそれはなぜでしょう?

今回の記事では僕らが既にうっすらと感じている、
「〇〇らしさ」という言葉が抱えている問題点を浮き彫りにしていこうと思います。


僕がnoteで作る記事というのはいつも歌う人に向けての話ですが、今回は歌手に限らず、誰にでもに役立つかもなと。。。



「〇〇らしさ」という言葉の意味と「問題点」


「らしさ」というのは、特定の人や物事の「独自性」や「個性」を表現する際によく使われる表現ですが、
「そのものにふさわしい様子をしていること、まさにそのものであると判断される程度」という意味がある言葉です。
主に、そのものの特徴がよく出ているときに「〇〇らしい」というふうに形容されます。

ここで疑問が生じます。
「そのものにふさわしい」とは、
誰が判断しているのでしょうか?

また、
「そのものの特徴」とは、
誰から見たどの特徴のことでしょうか?

その「らしさ」は誰が決めたものなのか?

まさに、ここなんです。

僕らが「〇〇らしさ」というものについて考えるとき、
コレについて議論するときに一番重要な点は
「何を持って相応しいとするのか」「誰からみたどの特徴なのか」
なんですよ。

一つ例を出しましょう。
「自分の個性」一つとっても

  • 自分も他人もわかっている個性

  • 自分は気がついていないものの、他人からは見られている個性

  • 自分は認識しているが、他人には知られていない個性

  • 自分も他人も気づいていない個性

こんなに色々な個性があると言われています。
(有名な「ジョハリの窓」という考え方の応用ですね。)

つまり「自分らしい」という言葉一つでも、
それを相応しいと判断するのが「自分なのか」「他人なのか」「自分及び他人なのか」で「らしさ」というのは180度内容が変わることだってあるわけです。


「らしさ」に揺らぎが生じるという実例

コレよりさらにわかりやすい例を僕らは知っています。
「男性から見た女性らしさ」≠「女性から見た女性らしさ」であること、
そして同様に
「女性から見た男性らしさ」≠「男性から見た男性らしさ」であること、
人類は何千どころか何万年も前から知っているはずなのです。

「男性と女性」を「大人と子供」に置き換えても全く同じことが起こります。
それどころか何と何に置き換えても
「らしさ」というのは必ず揺らぎが生じるものなのです。
常に観測点が2点以上あるからそうなって当前なんです。

原作つきのアニメや映画が完成したとき、原作のファンが「コレじゃない」と感じるのもそう。
「海外から見た日本」と「日本人から見た日本」が噛み合わないのもそう。

つまり、
「〇〇らしい」というのは、いわゆる「偏見」なのですよ。


〇〇らしさとは「偏見」である。

偏った見解。バイアス。
中正でない意見。思いこみ…。
これが「らしさ」の正体です。

実際、個人の認識というのは偏りだらけなんですよ。
偏りのない事実のことを「本質」なんて言いますが、この世の中でちゃんと「本質」について話せる人間はまぁいないんじゃないでしょうか?
だからことあるごとに「本質が〜」って言っちゃう人に限っt

だからですね。

「らしさ」について悩むことなんてないんです。

本当に悩むべきは、
「”らしさ”が偏見であることに気づけないこと。」
それから、
「自らの偏見が自身にも向けられていて、結果として自ら首を絞めていること」
なんですよ。


「常識とは 18 歳までに身につけた偏見のコレクションでしかない。」

これはアインシュタインの言葉ですね。
僕も今この記事を読んでいるあなたも「色々な偏見の集合」を「常識」だと思い込んでいるわけですが、常識なんていうものは「時代」「環境」「民族」「関係性」など色々な条件の変化で揺れ動くものです。

そう考えてみたら人によって考え方が異なるのは何も違和感のない普通のことだと理解できるはずです。
そもそもの ”らしさ” が偏見であることに気づけると、無理に自分の意見を押し付けるものではないということも納得がいきますし、お互いの「普通」を尊重することの大切さにも気づけるのではないかと思うわけです。


そしてもう一方。
「自らの偏見が自身にも向けられていて、結果として自ら首を絞めていること」についてですが、こちらの方が多くの人に気付かれていない難題なのではないかなと。

例えば「たくさんの人にチヤホヤされたい!」という人がいますが、そういう人に限って誰にチヤホヤされても満足しないものです。
それはなぜか、
その承認欲求が「自身の偏見」由来であるからです。
そもそも自分が一番自分を認められないんですよね。
(胸の古傷が疼くぜぇ……w)

「〇歳らしくなれない」「男性らしくなれない」「女性らしくなれない」「〇〇でないといけない」「〇〇であってはならない」…
「自身の偏見(≒育ってきた環境や経験により積み上げられてきた常識)」が自分を否定してしまい、結果的にものすごく苦しくなるわけです。
これでは誰にいくら認められても「自分で自分を認められる」ようにならない限りいつまでも呪われ続けてしまうのです。
真面目な人にありがちな悩みなのもこのためです。

かといって「自分の常識や価値基準」を覆すのは本当に難しいこと。なんせものすごく長い時間をかけて自身の生活に根付いたものですからね。

ではどうしたらいいか。
「自分の偏見を徹底的に理解、認識する」
まずは、コレにつきます。

そしてそのために
「できるだけ多くジャンルの偏見を持った他人と会話すること」
がおすすめなわけです。
偏ったジャンルの人だけと話しても、偏見には気づけないのですよ。


井の中の蛙、大海を知れ

改めて書きますが、偏見があることは悪いことではありませんし、普通のことです。
問題は「その偏見が偏見であると知らないこと」と「その矛先に自分もいることを忘れてしまうこと」です。

「自分はこういうふうに思う人なんだな」
「でもこういう考え方もあるよな」
「認識していたことと実際に起こっている事実となんか差があるな」

そんな風に見えるようになり出したら「そもそも悩む必要がなかった」とに気づけるようになると思うのですよ。
偏見を見つけることに慣れてくると劣等感などで滅入ることはか〜な〜り少なくなりますし、そのうち気分や状況に応じて「偏見をカスタマイズ」するようになります。
それから誰かが無茶苦茶なことが言っていたのを見ても
「あの人はああいう偏見の持ち主なんだなぁ」くらいにしか思わなくなります。
(悟りってこういうことか……??)

一つの考えに凝り固まらない方法といえば思いつくのは、
「今あるすべての常識を捨ててしまう」or「あらゆる偏見を取り入れてしまう」
この二択なんですが
全て捨てるなんてのは人間辞めなきゃできないので「色々な意見を聞いてみる」方向で行く方が無難です。

幅広いことに興味を持って、様々な考え方を持つ人と出会うことですね。

まとめ

中盤からちょっとクローズな方向に話をまとめにかかりましたが、これからの社会も「さまざま偏見」に対して寛容になりつつ、「偏見が所詮偏見であるということ」も忘れずにまとまりを得られたらいいなぁなどと書いて締め括っておきます。

音楽的なじゃなかったかもねw
でもアーティストなら少なからず悩んだことがある話だったはず。
応用次第で自身のプロデュースをする際にも活かせる考え方だったりするので、気になる方はまた別の記事を見て見てください。

今日はここまで。
ありがとうございました!
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