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『夢に主導権を渡すな』

ある、ふたつの記事を読んだ。

まだ自分の体が本調子とは言えないときに読んだ記事だったけど、体調不良で回らない頭をぶん殴られたような、衝撃的な記事だった。

特に潮永さんの記事は、荒々しい、ともすれば誤解されそうな強い言葉で書かれているけど、私は、だからこそ潮永さんの本気が感じられて、素晴らしい記事だと思った。

最初に断っておくが、これはリレーエッセイではない。

おふたりの言葉に触発された私が、ただ自分の思いを吐露するだけだ。

ヘラジカさん、潮永さん、勝手に記事を引用して申し訳ないです。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

『夢なんてものは実力では叶わない』

叶う確率が限りなく低くても、“いつか叶う“と愚直に信じて、無駄にも思える努力を重ねる。

そうして努力を重ねた先に、偶然を必然にしてしまえるような、とんでもない強運の持ち主が、気まぐれに舞いおりた、ひとつのチャンスを掴み取るもの。

私は、それが夢の叶え方だと思っている。

そう。
乱暴な言い方かもしれないけど、所詮運に左右されてしまうのだ、夢なんてものは。

どれだけ実力があったとして、努力を積み重ねたあとに成長したとして、道ゆく誰もが振り返るような、才能に溢れた人間になったとしても。

“誰かに見出される“なんてものは、それこそ運でしかない。

医者になりたい。弁護士になりたい。
アイドルになりたい。歌手になりたい。
誰かのお嫁さんになりたい。公務員になりたい。

どんな職業に就くにしても、そこに至る道のどこかに、実力ではどうにもならない“勝負“がある。

『努力をすれば夢が叶う』なんてのは幻想だ。

キラキラした成功者が言う、そんな言葉に縛られる必要はない。

血の滲むような努力をしたって、結局は環境とか運とか才能とか、自分じゃどうにもならないもので打ちのめされるのが夢なのだから。

『夢破れた人間の遠吠え』

私は、夢に破れた人間だと思う。

「だと思う」なのは、間違いなく夢には破れたけども、そもそも夢をつかむための勝負をしていたのかどうかすらも、わからないからだ。

それくらい浅かった。
ただの空想のようなものだった。

だから敗れたし、破れた。

しかし、幼きころからの夢に、確かに私は破れはしたが、そこにはある種の納得があった。

「夢を追うことをやめよう」と思ったのは、誰でもない私の決断で、そこに至るまでに葛藤がなかったといえば嘘になるが、私が納得して諦めた。

勝負の舞台に立つ前に、「これは無理だ」と見切りをつけたのは間違ってなかったと思う。

きっと、それでよかった。

私には全てが足りなかった。

努力も、時の運も、才能も。
夢を追い続ける情熱も。
全てが足りていなかった。

運だ才能だに責任を転嫁し始めると、「負け犬の遠吠えだ」と悪様に言う人がいるのは知っている。

ああ、そうだ。負け犬だよ。

けれど、遠吠えの何が悪い。

夢に縛られて、全てを、誰かを、自分すらも犠牲にして。
這々の体で掴み取った栄光に意味はない。

諦めることは悪いことじゃない。
そこから新たな夢を見つけるのも、夢から自由になってリアリストとして生きるのも、ちっとも悪いことだとは思わない。

だって事実だろう。
結局、私になにもかもが足りなかったのは事実。
自分では到達出来ない高みまで、そこまで誰かに押し上げてもらうための情熱が、運を引き寄せるための熱意が足りなかった。

だから納得した。
諦めたというより、事実を認めた。
それだけだ。

『夢を持つことが悪いとは思わない』

ひとつの夢を失った私は、
またひとつの夢を見つけた。

「叶うはずない」と心の隅で嘲笑う自分がいても、結局、夢を持つことはやめられなかった。

けれど昔と違うのは、夢を=“自分自身“といえるほどに大きな存在にするのではなく、あくまで自分と共存し、溶け合うような存在として。

夢、そのものに意思を、価値を持たせるのではなく、主導権を自分においたまま、ふとしたときに顔を出す、片隅に存在する“モノ“として。

程よい距離感を保った状態で、夢とともに生きられるようになった。

私はロマンチストだから、夢を持つことは素晴らしいと思っている。

“夢を持つこと“をくだらないとか、どうせ叶いっこないのに、とか、他人も自分も、そういう冷めた視点では見られないし、夢を追いかけている人に冷や水をぶっかけることもしたくない。

それ自体が私の甘さで、弱い心の現れなのだとしても、どうしたって、夢を持つことはやめられない。

打ちのめされても、貶されても。
嘲笑されても、馬鹿にされても。
いいじゃないか、自分が楽しいなら。

『夢に主導権を渡すな』


けれど、“夢“に自分の全てを預けるのは違う。

夢を失ったら、自分が自分でいられなくなるくらい、それほどまでに深く、自分を明け渡す必要はないと思うのだ。

夢破れても、失っても。
日々は必ず続いていく。

夢を取り払ったときに、もし自分自身に何も残らないのであれば、それはすでに夢ではなく、別の何かにきっと変化している。

そう。例えば、ありきたりな言い方をすれば“人生“とか。

“人生“賭けて、理想の自分、理想の未来を追い求める人は素晴らしいと思うけど、そして掴み取った人はすごいと思うけど、大多数の人にとっては、夢はあくまで夢のままで終わる。

夢を“生きること“そのものにしてしまえば、
夢が夢のまま終わったときに、きっと苦しい思いをするだろう。

全てを終わらせてしまいたくなるほどに。

私は、もう夢に振り回されたくない。
夢の手綱を握るのは自分で、続けるのも諦めるのも、決断を下すのは自分でありたい。

「いつか叶ったらいいな」くらいで、夢を抱きながらも何も気にせず生きるのが、自分の性には合っている気がするんだ。

私には夢がある。
でも、そのために何かを犠牲にしたりはしない。
無理のない範囲で、夢を叶えるための努力はするし、ふって湧いたチャンスをみすみす逃したりはしないけど。

けど、夢を追いかけるのはもうやめた。


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