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そして誰もいなくなった・・・❶

アガサクリスティーのこの小生津に出会ったのは、小学校5年生のころ。

小学校の担任の先生が演劇をやっていて、先生が参加する劇団の演目がそれだった。

あれから何年たっただろう。

今、私はたくさんのデイと別れの先にいる。
そして、歳を重ねるたび、ひとりずつ、ひとりずつ…
私が愛する人、私を愛していていたであろう人が去っていく。

今日は、「自分」について「別れ」をキーワードに少し話そうと思う。


◆序章 ~「寂しん坊体質」の形成~

小さな時、毎年長い休暇の時は名古屋に住む祖父母(母の実家)の家に滞在していた。

親族の中で東京住まいは我が家だけで、出張多い父は、母の負担を減らしたい父は、長期休暇になると母より先に私たち兄妹だけ名古屋に帰省させていた。

祖父・祖母共に大好きだったから、何の不安もなかったと言いたいところだが、到着すると私は必ず一晩泣いては祖母を困らせていたらしい。

兄は私より4つ上、祖母宅の近所に友も多く、到着すればすぐに遊びに行ってしまっていたから。

それでも、帰省中は私を守ってくれる唯一の存在だった。
だから、彼は私にとって「一番」、ヒーローそのものだった。

祖母の家では、私たち兄弟は家主そのもの。
集まってくるいとこたちを迎え入れ、送り出した。

ただ、そうやって遠隔地で過ごしていたから、その間地元の友達と関わることはできなかった。(今のようなツールはなかったので)

加えて、小学3年生になる歳、済んだことのない街へ引っ越したので、その状況は加速、今ほど社交性に長けていなかったから、環境、言葉遣いになかなかなじめず・・・まるで「浦島太郎」状態。

何度とない「初めまして」とその不安の蓄積が、その場を乗り切るための「初見耐性」と、心への侵入を許さない独自の「距離感」=自分が傷つかないシールド=を形成していった。

これが、私の「寂しん坊体質」の原型だと思う。

では、この体質がどうやって今につながるのか、私の歴史を通し紐解いていこう。

◆亜紀ちゃんとの別れ

時は遡るが、都内在住であった幼少期、いつも金魚の〇〇のようにくっついていた憧れの友達がいた。

亜紀ちゃんだ。

彼女は、明朗快活、好奇心にあふれた素敵な女の子だった。
それこそ男女など関係ないし、誰とでも気持ちよく遊ぶことができ、同級生のみんなから愛される存在だった。
私も、亜紀ちゃん信者のひとり。
同じアパートに住み、毎日のように遊んでいた。

ただ、どちらの親も転勤族、先に私が引っ越すことになった。
(それが先に記した新天地である)
それはそれは寂しくて寂しくて・・・。

引っ越し後も高校に入るころまでは手紙のやり取りがあった。
まさに心の支えだったのに、高校生になったある日、パタリと返信が来ないようになった。
その後、何通か送った記憶があるが、そこで途絶えてしまった。

私の大切な人がひとりいなくなった・・・。

◆まゆみちゃんとの別れ

私のシールドをより強固なものにしたのが中学時代だ。

小学校高学年に入ると、みんな心も体も大人に向かい変化し始める。
気の合う友達もそう。
「恋愛感情」も生まれ、それが友情を邪魔することもある。

先にも述べた通り、私の特性である「初見耐性」と「距離感」が年齢と共に独り歩きを始めた。

「初見耐性」により創り出された一見社交的に見える私を、みんなは「八方美人」と呼んだ。
また、独自の「距離感」により生まれる雰囲気が「お高くとまっている」「話したい人としか話さない」という誤解を招いた。
そして、気づけばいつしかそれが「村八分」の理由になっていた。

小学校の頃毎日一緒に遊んでいたあゆみちゃんも、そのひとり。
知らぬ間に「嫌悪の目」で私を見るようになっていた。
理由は「嫉妬」。

彼女の大好きな人に色目を使っているというものだった。
それを、彼女の取り巻きの友達たちが難癖をつけにやってきた。
そして、それが動線に火をつけたように広がり、私はいつか「男に色目を使う女子」にされていた。

そして、私の大切な人がひとりいなくなった・・・。

が、ここでひとこと言っておこう。
私は兄がいたので、さばさばした男子と話をする方が楽ではあったが、愕然全部の男子をかき集めても私を恋愛対象としてみている人がいないことは明らかだったし、当時嫌生れながら男の子の目がハートになるような容姿ではなかったので、いまだに嫉妬した理由がわからない・・・。

◆中学生活との別れ

先にも記したとおり、私の中学時代は散々なものだった。

救いだったのは、その当時の男子は私を「女」としてみなしていなかったことと「ツッパリ」という代名詞でくくられていた反抗期まっさかりの子たちは、村八分している人たちに興味がなかったこと。

いずれも、私に向けられた「冷たい視線」にも「無意味な無視」にも特別な「興味」がなかったから、必要があれば話しかけてくれたし、こちらから声をかけられることを避けることもなかった。

そのおかげで、壊れ切ってしまうことなかったわけだ。

もう一つの救いは、自分の分析好きな性格と決断力。

「村八分」にされている違和感を早い段階で感じていた。
そのおかげで傷も浅めだったのかもしれない。
仲間外れは嫌な気持ちになったのは間違いないし、とても悲しかったけれど、分析力から首謀者と傍観参加者の見分けはついていた。

だから、傍観参加者が一人きりの時に思い切って声をかけた。
彼女が困らない程度の接触で。
「なんでみんな私と口をきいてくれないの?」「はっきり言ってもらった方が、改善できると思う。」と。

それがきっかけで、クラス会議となり「嫌われている理由」が露呈した。
またしても「嫉妬」。

これは恋愛関係の嫉妬ではなく、優先順位の嫉妬であった。
この時「嫉妬」の恐ろしさをあらためて痛感した…。

これが中2の時の話。

残りの期間、できる限り目立たず過ごしたい・・・そう願っていたが、気持ちとは裏腹、先生方が勝手に私の役を決めていく。

クラス委員、部長・・・、世の中の不条理をしった。

中学卒業までの間に、親が永住地として学区外通学が可能な地域に家を買い求めたため引っ越し、都内の私立への進学を決めたことで、地元の人との距離が生れ、少し気持ちが楽になった。

部活動を通し共に苦労した数名が中学時代の私の唯一の友人となった。
とは言え、そこでの生活は楽しい記憶よりつらい記憶が多かったのは事実である。

こうして、私の中学時代という時間は、私のもとを去って行った。

***次に続く***


《後記》
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