好きな曲は好き~ハイウェイ/くるり~
はじめに
今日はくるりの『ハイウェイ』という曲についてお話しします。
これまでくるりについてお話ししてきたように、
中学生の頃良く聴いていたバンドでした。
中でもこの曲は、「旅に出る」という当時の自分には理解しがたいことについて歌っていたので印象的でした。
中学生の頃、旅に出るなんてことは到底考えられませんでした。
狭く、小さな世界に住んでいた私にとっての広い世界はしいて言うなら小説やラジオ、インターネットぐらいでした。
また、この曲や『ばらの花』が収録されているアルバムの表紙が印象的で、当時の私はどこのタワーなのか知りもしませんでした。
ただただ綺麗で、まあるくて白から赤に変わるグラデーションが何だか不思議だなあと思っていました。
しかし、高校生になって京都に行く機会があり、京都駅でお昼ご飯を食べながら驚きました。
昼間の景色でしたが、確かに見たことのある、大好きなアルバムの表紙でした。
京都タワーを見た時、アルバムの一曲目である『ワンダーフォーゲル』のイントロが脳内で流れ出すほどに。
こうやって数年後に、数年前の自分の小さな疑問が解消される快感は素敵です。
尚更すべて忘れられない思い出になりました。
旅に出る理由
この曲は印象的な一言から始まります。
ここの時点で私は驚きました。
私は旅に出るなんて考えたことなくて、旅の定義もわかりません。
それなのに『僕』は理由が百個もあると話しています。
驚きでした。
ここで3/100個の理由を述べていますが、一つ目が一番の理由なのではないかなと直感しました。
『ばらの花』でも考えたように、漠然とここではないどこかに逃げ出してしまいたい気持ちが強く根本にあるのではないかなと思いました。
だからこそ、二つ目と三つ目でそれっぽい理由を述べているのではないかなと。
言おうと思えば百個ぐらい言えるけど、『ここじゃどうも息が詰まりそうになった』が全てなのではないでしょうか。
だからこそ、子どものように考えなしで「だいたいひゃっこぐらい」と言っているのではないでしょうか。
爆音低音ノリノリで最高な闘志
中学生の頃、歌詞カードを見ていなかったので、『ウーハー』を「歌」だと思っていました。余談です。
『ウーハー』とは車などに付ける低音スピーカーだそうです。
なんだかノリノリな感じですね。
たまに見かける、やけにベースラインの効いた曲を爆音でかけている車のような感じでしょうか。
なんだかギャル、です。
そうやって自分の好きな曲を自分の好きな雰囲気でかけて、将来とか未来とか関係なく今じゃないどこかに向かっていく様子でしょうか。
ここでやっと、この曲はもしかして、上京したり、メジャーデビューしたりという大きな変化があった際の心境なのではないかと思うようになりました。
『東京』という曲もあるのでいつかまたお話ししたいです。
赤い公園の『東京』のように、
意気込んで、今の自分からしてみれば結構大きめの目標を持って、「やってやるぞ」という闘志満々に歩き始めるイメージです。
『ハイウェイ』は全体を通して、くるり節通りというかのんびりして軽やかなイメージで進んでいきますが、ここはしっかりと若い意思を伝えているように思えました。
受け身でいいんじゃない
ここのジョニーという名称が気になりました。
他に『かごの中のジョニー』という曲があるため、なんとなく“もう一人の自分”とか“本当は表に出してみたい自分“という解釈をしています。
まあ、人によって解釈は様々なようで、気になる方は「くるり ジョニー 意味」と検索してみてください。
何かは出てきますよ(検索済み)。
それでも私は“もう一人の自分”がジョニーであると思っています。
多くの人が社会では求められるように、求められたい自分のようにふるまっていると思います。
それでも、折角今いる社会ではないどこかへ『旅に出る』のですから、他の人の視線を『気にしないで』、別の世界へ度に出て、そこで『身ぐるみ全部剥がされ』るように、自由に自分らしさを出していきな、と言っていると思いました。
この考えは中学生の頃から変わりません。
ただ最近気になるのは、“受け身”であることです。
「身ぐるみ全部剥がしちゃいな」ではなく、『剥がされちゃいな』です。
この受け身の姿勢が、これまで旅に出ることができていなかった理由に繋がるのではないか、と思ってしまいます。
しかし、あえて受け身でいることで、無理に頑張って自分らしさを出そうとしなくても自然とそうなるような環境に行こうぜ、ってことなのかもしれません。
『勇気なんていらない』という歌詞が印象的でした。
例えば遠くの高校に進学すること、将来は地元を離れること、両親と一緒に居る時間も少なくなること、これらのことは中学生の私にとってとても大きな決断であり、なんとなく見えている未来でした。
大きな決断だからこそ、大きく踏み切る必要があると考えていましたし、慎重派だからこそ尚更大きなエネルギーがないとできないことだと感じていました。
それなのに、『勇気なんていらない』と言われてしまったとき、「わあ、私とは全く考えの合わない人だ」と思いました。
素直すぎますよね。
でもこれが本音でした。
どんなに誰かに勇気は要らないと言われても私は勇気がないと進めないだろうし、後回しにもできない性格です。
そこで高校生になってぼんやりと気付きました。
私のように、慎重派で決断力がなくて、先回りして考えたいタイプの人だからこそ、この歌詞が響くのではないだろうかと考えました。
こんな性格の人は自分に『後回しにしちゃいな 勇気なんていらない』と言ってあげることはできません。
だからこそ、音楽が、くるりが言ってくれているのではないかな、と。
だからこそ私の心に約10年間も残っている曲なのではないでしょうか。
冷たい花は何の花
最後です。
ここにきて一番初めの歌詞とは全く異なることを言っています。
仰天しました。
結局一つもないんかい!!と突っ込みたくなります。
もしかして『“旅”に出る理由』は無くなったのではないでしょうか。
旅とは一度出ていって、もう一度元の場所に帰ってくることを言いますよね。
ということはもう再び帰ってこない場合は旅とは言えませんよね。
もし、始めの歌詞の一番目の理由が、旅に出ようとしていることの1番目の理由なのであれば、もう戻ってくることはないのではないでしょうか。
つまり、もう帰ってくる理由がないから、旅に出る理由なんて何一つないのではないでしょうか。
考えすぎでしょうか。
『手』や『花』が出てくると昨日お話しした『ばらの花』という曲を思い出します。
昨日の記事では、『お互いのことを思っていた頃を「ばらの花を掲げていた」と表現するのであれば、~~~』とお話ししました。
そのためここの歌詞では、簡単には縁を切ることができない人を思って掲げていたばらの花をお互いに受けとることができなくて、枯れてしまって冷たくなってしまった様子が浮かびました。
なんとなく哀しい様子ですが、現実味があると思います。
どんなに大切で、どんなに大事にしたくて、どんなに愛して、どんなに相手を想っていても、その愛がそのまま相手に伝わって受け入れられるとは限りません。
『会えなくなってほっとした』『ばらの花』の様に、お互いに受けとることができないなら諦めてもいいんだよと言われているような気がしました。
さいごに
上手く言葉にできているか自信がなくなってきました。
ここまで読んでくださってありがとうございました。
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