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ジェンダーに関する過去の【書評】


①なぜ女は「従」なのか、そこに理由はない 〜『82年生まれ、キム・ジヨン』

小説『82年生まれ、キム・ジヨン』(チョ・ナムジュ・筑摩書房)の主人公キム・ジヨンが夫に連れられて精神科医を訪れる。突然他の女性が憑依するようになったのだ。キム・ジヨンが精神を壊した原因は何か?見えてきたのは 面々と受け継がれ社会の隅々にはびこる女性差別。世相を示す統計データを交えながら淡々と物語が進むのは、この小説が精神科医のカルテという体裁だから。客観的な視点で語られていると思いきや、それも結局は男性医師のフィルターがかかっているという皮肉。(で、解説でさらに、作者の意地悪な仕掛けが明かされる。解説は必読!)
 男の見ている社会と女が見ている社会はまるで違うと感じることがある。私たちが生きているのは「女」という性別がことごとく足枷になる、男が「主」で女が「従」の社会だが、その認識は男性にない。日本でもさまざまな医学系大学で女は入試に不利であり、働く女性の6割は非正規で能力があっても出世できない。家では家事育児介護の担い手の多くは女性だし(女を家に縛りつけたいから、保育士と介護士の給料ベースアップがされないと私は考えている)、実名で性被害を抗議すると、女は黙れとばかりに強烈なバッシングを受ける。「日本ではほとんどの男性は犯罪に巻き込まれずに一生を終えるけど、女性のほとんどが犯罪に巻き込まれるよね」と旦那に言ったら「え?そうなの?」「痴漢にあうからね」「え?そうなの?でも、あなたはないでしょ?」「…えっと、5回以上はあるけど、普通だよ」「…」という会話を最近したが、つまりそれは女性が日常的に我慢を強いられる社会でそれを男性が気づいていないよい例です。歳をとるとさすがに痴漢はないけれど、年に3回ぐらいは見知らぬおじさんに「俺の進路を遮るな」的な不条理な文句をつけられることがある。私が屈強な男だったら、このおっさんもこんな説教しないに違いないと思うと腹立たしい。しかしながらほとんどの場合その不平等や卑下は「気にしなければいい」と吐き捨てられる。
 <「いい子だね。だからって私も産んで育てたいとは思わないけど」「うん、かわいい、いい子だよ。だからってあなたも産んで育てなさいよとは言わないけど」>というジヨンと同僚の会話が好きだ。出てくる女性がみな知的で、女性同士の断絶がないのがこの小説の救い。韓国では戸主制度が廃止されたり、女性家族部ができたりなど、性差別につながる構造を国が変えようという動きがあるようだ。指導者が自国の人権問題の存在を公然と否定したり軽視したりしない。韓国国民の連帯感と行動力がそんな指導者たちを支えている。#MeTooへの関心も高く、この小説が社会現象になる土壌。日本がジェンダー・ギャップ指数で、韓国に抜かれる日は近いと思う。
(2019年6月執筆)

※2019年の12月の調査であっさり日本は韓国に抜かれました。2024年4月現在は、146カ国中日本は125位、韓国は105位

②シスターフッドは最高だと言わざるを得ない件〜『塩を食う女たち―聞書・北米の黒人女性』

 通勤電車は健康な人でも具合が悪くなる環境だが、妊娠中ならなおさらだ。座れなくてもいいから、せめて手すりにもたれたいと青ざめた顔で立っていると、席を譲ってくれるのは必ず女性(男性はほぼ席を譲らない)。思い返してみると、私の場合ピンチの時に現れる救世主は100%女性で、おばさん率が高い。貧血で倒れた時も、健康診断で医者にマンスプレイニングされたときも(非科学的な事柄に惑わされていると決めつけて説教)、道で見ず知らずのおっさんに、背中を殴られた時も(私が横断歩道で彼を追い抜かしたというしょうもない理由)、おばさんが助けてくれた。新幹線で赤子が長時間大泣きしたときも、おばさんの機転で子どもが泣き止んだ。このおばさんの神々しい力を何と呼べばいいのだろう。だれか名付けてほしい。
藤本和子著『塩を食う女たち―聞書・北米の黒人女性』(1982年初版・岩波文庫)は、著者がトニ・ケイト・バンバーラをはじめとする黒人女性作家たちの世界観に強く惹かれ、その背景を知るために、北米の黒人女性たちにインタビューした記録。黒人にとって狂気的ともいえるアメリカ社会で、底辺層にいる黒人女性はどう生き延びたのかが語られる。<「生きのびる」とは、人間らしさを、人間としての尊厳を手放さずに生き続けることを意味している>。そして生き延びているから、自分の人生には何か大きな目的が与えられているのだと考える。追い込まれたからこそ、見いだされた独特の人生観をもつ彼女たち。
おもしろいのは、おどろくほど男性の影が薄いことだ。黒人女性にとって男性が頼れるものではなかったのは明白。ギリギリの状況の中で女たちは、母や祖母、助産婦、美容師、売春婦など知恵ある年配の人々から助言をもらい、姿勢を学び、助け合う。最後のセーフティネットが同じ黒人の女性たちなのだ。誰も上になろうとせず、誰も下に見ようとしない女性たちの連携。女性がたくましいのではない。「生きのびる」ためには、これしか方法がないのである。
 翻って今の日本も、女性が頼れるのはやっぱり女性かなと思う。Twitterで「#私が女性に助けられたエピソード」を見ると‟胸熱”だ。そこにはかつての自分、将来なりたい自分、もしかしたらそこにいたかもしれない自分がいる。助けられてばかりでなく、私もそろそろ‟神々しいおばさん力”を手に入れなければ、と思う。(2021年10月)

③重厚なありままの一歩 〜『おらおらでひとりいぐも』

自分が高齢者になることを考えると、気分が上がるか下がるかと問われれば、やはりほとんどの人は「下がる」と答えるのではないだろうか。目も耳も遠くなり、思うように体が動かず、判断力も鈍くなり、新しい電子機器についていけない。そして白髪頭とシワシワの顔。しかしながら『おらおらでひとりいぐも』(若竹千佐子著・河出書房新書・初版2017年11月)を読めば、その高齢者へのイメージが一変するに違いない。
主人公は74歳の桃子さん。15年前に最愛の夫・周造に先立たれ、都市近郊の新興住宅に一人暮らし。成人した子供二人とも、仲が良いとは言えない。表層は“寂しい老人”だが、実は桃子さんには秘密があった。脳内では、実にさまざまな人物が、小腸の柔毛突起のように賑やかに、意見を交わしているのだ。しかも故郷の東北弁で。
 桃子さんは終わりが見えて来た自分の人生を、その柔毛突起たちと振り返る。母親の言いなりになっていた故郷の自分。結婚直前で故郷を捨てて上京したこと。夫である周造との出会い。母として妻としてしか生きられなかったこと。さらに周造を失った悲しみの意味を考える。そして結論づけるのだ。妻でも母でもない、私として生きていきたいという願望を叶えさせるために夫は死んだのだと。“なんの生産性もない、いてもいなくてもいい存在”だけど、運命が与えた人生最後のプレゼント期間を<おらはおらに従う>と生きていく。
いつか私も孤独に歳をとる。その時は桃子さんのように、人類史の中に自分の人生を俯瞰してとらえるようになるのだろうか。46億年の地球とまるで自分が一体であるような心持ちになるのだろうか。脳内に喧々囂々と意見を交わす仲間達ができるのだろうか。だとしたら、なんと面白い毎日だろう。<おらの思っても見ながった世界がある。そごさ、行ってみて。おら、いぐも。おらおらで、ひとりいぐも。> おお、私も行ってみたい、見てみたい!! 読後は旅行記を読んだような不思議な高揚感。歳をとるとは、孤独とは、こんなにも豊潤なことだったのかと思う。(2018年1月)

④「寛容」と「理不尽を飲み込む」ことは違うから〜『ケチる貴方』

小説『ケチる貴方』(石田夏穂著・講談社)の主人公・佐藤同様、私も会社では面倒なことはなるべくやらない主義だ。飲み会の幹事や、退職者のプレゼント係なども率先してはやらないし、給湯室やトイレでの雑談さえも手早く済ませる。そんな私を後輩が慕うわけもなく、この歳になるまで部下がいたためしがない。そういえば最近は愛想笑いもしない。最低限の仕事を時間内に淡々とこなすのみ。私って昔からこんなだったっけ? こうした“ケチる体質”は何が作り出したのだろうかと、ふと思った。
佐藤は備蓄用タンク会社で働く女性。勤続7年。仕事はできるが、かなりの毒舌。そして極度の冷え性。寝る時は電気毛布に湯タンポ。ホッカイロは肌に直に貼る。日常は寒さと戦うことを中心に回っている。体躯は「まさかり担いだ金太郎の逞しさ」だから見た目の雰囲気と体が芯から冷えていることにギャップがあり、苦しみが他人に理解されない。佐藤は自分自身を“ケチ”体質と言う。人に無償で何かを分け与えることが嫌いなのだ。ところが、偶然にもある法則を発見する。ケチるのをやめると体温が上昇するのである。佐藤は体温を上げたいがために、どんどん自分の“持ち物”を放出する。徐々に見た目や性格も“女性らしく”変化していく。そんな彼女を周りが消費していく様子が、とても不穏だ。
地道に積み重ねたスキルを、男というだけで自分より出世することが決まっている新人に与えるのは惜しいに決まっている。また、女ゆえ押し付けられる理不尽を飲み込んだり、身銭を切ったりしないと温活できないなんて納得いかない。佐藤、これでいいのか!?と不安に思っていたが、小説はそれでは終わらない。一気に冷や水を浴びせるようなどんでん返しが待っていた。
ケチが過ぎるのは問題だが、セクハラを我慢したり、出す必要のないお金を出したり、意に反して周囲が望むキャラを演じるのは精神衛生上よろしくない。自分が変わったとて、世間は何も変わらない。いや、むしろ図に乗ってくるから、要注意。結局自分でいい塩梅を見つけて、バランスを取りながら世の中を渡っていくしかないのかも。ケチるのもケチらないのもほどほどに。そして佐藤は、もっと着込めよ!と思った(2023年6月執筆)

⑤男が集まるとろくなことがない〜『彼女は頭が悪いから』

 ホモソーシャルとは恋愛感情のない同性間の結びつきを意味する。福島大学の前川直哉氏によると、男性ホモソーシャルな社会では、男性が公的な社会を担う性別とされ、男性たちは“男の絆”で公的な社会を独占しようとするのだとか。そしてホモソな男性は、女性たちを自分たちと同じ社会を担う一員とみなさず、女性は家事・育児・介護を担うケアに従事する人か、性の対象。おお、まさに今そんな世の中だ。
それでは早速、ホモソを念頭に『彼女は頭が悪いから』(姫野カオルコ・文藝春秋・2018年)を読んでみよう。<本名に関わらず、「浅倉」と「南」と男子部員は女子マネを呼ぶ><「専業主婦って、収入なくても夫に収入あったらクレジットカードはもらえるし、年金は国が出してくれるしパラダイスだもんな」><「女にとって結婚は最大のビジネス」>興味深い言葉が多すぎて書ききれない。美咲がつばさの「かわいい」人でなく「ネタ枠」になる重要シーンもホモソが垣間見られる。<譲治は、テーブルの下でスマホを操作している【神立さんてヒト、来ました。DB】送信相手はつばさだ。DBとはデブでブスのことである。(略)譲治が自分がまぐわった女をDBだと、ネタ枠だと判定してきた。つばさの頬は、恥辱でローズ色になった。>ホモソ男は、女そのものには興味なし。興味があるのは、女を〝所有〟する自分を見る男の視線。ゆえに、つばさは仲間に見せつけるごとく美咲に卑劣な行為を行う。

 男性ホモソーシャルが世を席捲している理由は明白だ。男性自身が有利な立場を手放したくないから。また社会の中枢を担う人(東大出身者など)に性別役割分業観が強いため、ホモソーシャルが再生産される側面もあるとか。小説にもそんな記述が。<高収入の世帯主の家に、成人後も、専業主婦の母親と同居する息子は、女子マネがつねにそばにいるのと同じである。> 子ども達よ、お母さんだって、お父さんと同じ重みをもつ主体なんだよ!
 忘れてならないのはホモソ万歳!の男性がいる一方で、辟易している男性も多くいる事実。ホモソなセクハラ(部下を風俗店に無理やり連れて行く、キスを煽る、裸踊りをさせる等)も近年話題になっている。ホモソ男は「俺たちこそが性を支配し、いつでも自由に消費できる強者だ」ってことを確かめ合いたいのでしょうね。でもさ、もはや誰も「強い俺」を望んでない。それに本当は男性だって、もっと自分らしく生きたいと思ってるでしょ?(2019年1月執筆)

※前川氏の発言は、下記を参考にしました。「社会を“男の絆”で占有する強固なロジック「ホモソーシャル」の正体とは?」(https://wezz-y.com/archives/48947


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