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【感想文】スメタナとドヴォルザーク@ サントリーホール7.11(前半)

「芸術に触れよう」という私の2024目標、クラシックコンサートのライナーノーツも3回目だ。今回は2021年末の「第九」以来のサントリーホールで、プラハ放送交響楽団、指揮者はペトル・ポぺルカ
1926年創設のプラハ放送交響楽団と、1986年生まれのプラハ出身の指揮者に加え、ヴァイオリン協奏曲のソリストは30代初めのようである。また、今回の曲目の作曲家であるスメタナ、ドヴォルザークともにチェコの人であり、今年はスメタナ生誕200周年、ドヴォルザーク没後120年という、チェコ共和国にとっても記念の年である。これら偉大な二人の作曲家の代表的な曲を、若き指揮者とソリストが前面に、それを歴史あるオーケストラが支える、といった構成のようである。

2階席の前列、真ん中よりほんの少し向かって右寄りの席。オーケストラの裏側の席まで、ほぼ満員だ。だが割とゆったりした造りと、空間の広さからして、やはり音響は最高だ。曲との距離感に戸惑う出だしにも、だいぶ慣れた。上野の東京文化会館のようにダイレクトな突き刺さり方ではなく、池袋の芸術劇場の時感じたサラウンドに近いが、一回り大きな空間ごと自分の存在もそこに音とともに包まれた感じだ。

1曲目はスメタナ(1824~1884年)の連作交響詩「わが祖国」より『モルダウ』。1874年から1879年にかけて作曲された。6つの交響詩からなるが、『モルダウ』は最も有名で、第2曲、ホ短調である。なお「モルダウ」は「ヴルタヴァ」のドイツ語読み。「モルダウ川(ヴルタヴァ川)の流れを描写している」これはスメタナ自身が言った言葉である。

最初の音色からして、大変美しい。川の水源の描写、水がピチャッと跳ねる様子が目に浮かぶ。モルダウ川の2つの源流と、それらが合流する様子がここで2つの一定のモチーフ(動機)によって表されている(上がってゆく音型と下がってゆく音型)。ヴァイオリンが登場すると、主題が提示される。
ここでまず目についたのは、ヴァイオリン奏者たちの演奏時の身振りが日本人たちより断然大きいことだ。一人一人の動きが大きく、この「大きな揺れ」は、曲の情景に感情移入している様子、表現者としての情緒の現われ、なのだろうかと思った。
その後の美しくも軽やかな中間部前半(森林や牧草地、農夫の結婚式のそばを流れる様子)、ハープが特徴的な幻想的な中間部後半(月光の下、水の妖精たちが舞う様子)の展開を経て、主題が再現される辺りからは、川の急な流れの様子が、背後に木管の転調を繰り返しながら表現される。金管はかなりの大音量で跳ねたり吠えたりし、その急な流れは劇的な頂点から、やがて遠くへ流れて消えてゆくように静まってゆき、最後は2つの強力な和音で曲が締めくくられる。

なかなかライブ感たっぷりの演奏であった。今まで聴いてきた回数やパターンが多かったためかもしれない。以前も書いたが「モルダウ」と「新世界より」は小学生の頃からほぼ毎日聴かされていたから(塾の帰りの車中で)、細かい箇所までよく音を拾い済みである。だからこそ、年月を経て、初めて(「モルダウ」を生で聴くのは初)、しかも本場チェコのオーケストラを生で聴き、心震えるような体験となった。
指揮は流れるようだった。だが抑揚がはっきりしている。生身の人間の演奏を引き出そうとしている箇所もあり、そこはラフ(いい意味で)だ。人数が少なめの編成でありながら、かなり圧倒された。

この曲は情景が目に浮かびやすく、小学生などでも聴いて割と容易に感想文が書けそうである。「川の流れる雄大な自然が目に浮かぶようだ」等々。もちろん間違いでは全くないのだが、今回、この演奏は、まさにこの川の流れるプラハに生まれた指揮者率いるいわば土着の人たちが、その自然の香り、脅威、神秘、優雅、全てを背負って、あるいは纏って、演奏しているのだ。そういう意味では、これまたありきたりであるが、これまでのカセットテープにはじまった数々のCDやらの整った演奏をただ耳で聴いていた経験とは、質的に全く異なる体験をしたのだな、と帰宅後改めて思った。

2曲目はドヴォルザーク(1841~1904年)の「ヴァイオリン協奏曲イ短調作品53」(1879年)。ヴァイオリンは三浦文彰氏。この曲は小林研一郎指揮の音源をよく聴いてきたのだが、それよりは遅いテンポか。ソロヴァイオリンはバックのオーケストラとよく溶け合っている。割とゆっくり丁寧に弾いている箇所もあるのだが、それ以外は淡々と演奏しており、熱量があまり感じられない。(ちなみに上野N響の時のハチャトゥリアンのヴァイオリン木嶋真優さんはものすごい迫力であった。)今回はソロパートもあまりattractiveな力を感じなかった。よく見えなかったので後で確認したら、やはりソリストは若い。たしかに上手である、だが、優等生的な演奏の「上手さ」なのである。使用楽器の違い(上野ハチャトゥリアン時はストラディバリウス、今回は違う)も、ソロの迫力を減少させていたのかもしれない。今回の楽器は耳にあまり優しくはなかった。ただ、ヴァイオリンのメロディ自体は深みも力強さもあり、それでいながら親しみやすい。

第1楽章では特に、大音量で演奏されるオーケストラのメロディーラインの短調と長調の行き来が、その変わり目が、大きなカタルシスをもたらした。なお、この曲は3楽章編成となっているが、第1と第2楽章は接続された形になっており、どこで切れたのか、あまりに自然な形で移行するので、何度聴いても分かりづらい。
第3楽章は主題が明るく、ソリストの演奏もスピーディーな箇所が多く出現するため、ようやくその存在感と熱を感じられた。独特なリズムの箇所も印象的だ。ティンパニーなどがまるで合いの手を入れるように合間に入ったり、ソロヴァイオリンとオーケストラの掛け合いがしばらく続いたりと、ソロのバックにオケあり、ではなく、様々な興味深いコンセプトで構成されている。主題は何度か繰り返されるが、暗く落ちることはなく、終始明るさを保つ。ここでやっと、ハーモニーという言葉が自然に浮かぶ。調和、である。ソロヴァイオリンもなじみ、美しい和音と、繰り返される主題で明るく統一され、そのまま締めくくられる。

全体的には、統一感があった。この曲はソロヴァイオリンはもしかしたらこの程度の抑え方が適切なのかもしれない、もしくは、バックのオケが鳴らしすぎると、うるさくなる恐れがある曲かもしれない。私がこの曲を聴きながら(ライブで)描いたイメージは、野球の守備体制である。ソリストが目立つとか、引っ張る、というより、ソリストは若きピッチャーで一人マウンドに立つが、指揮者=キャッチャーは、他の野手と違って一人だけ野手の方を向いて指示を出し、まとめあげる。内野に弦楽器、外野に金管やパーカッションが配置され、指揮者の指示に従いつつ、ピッチャー=ソリストの後ろで守備についている。ゆえに、この曲は、指揮者が本当に巧いのだという証を見せたのだと思う。指揮者はバランス感覚が抜群なのだろう、若き日本のピッチャーと少し耳に優しくないヴァイオリンを前面に出すのではなく、要するに協奏曲とあるからといってその楽器を前面に押し出せば良いという考えにとらわれず、逆にこの曲ではオケによる包み込み方、ときに優しく、ときに大きな音のうねりでもって、やっと調和をとっていく、そのように構想したのではないか。だが結局、その試みは成功している。そのことに気づいたとき、指揮者の動きを改めて振り返って、その才能に戦慄をおぼえた。
~つづく~







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