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【エッセイ】三島由紀夫は近くて遠い 

写真は、三島がよく通っていた、熱海の喫茶店ボンネット。その方面に旅行する際はできる限り立ち寄る。三島と深い交流のあったマスターはもう90歳を超えてなお接客をつとめており、彼の話などお聞かせくださる。変わらずお元気だろうか。

三島といえば、高校まで学習院で、同じ学習院の先輩であり、そこに親近感を覚える。実際、彼の作品中には、学習院についての記述も多い。そう、そうだよね、とうなずける場面もある。(最近、全く学習院と無関係の作家が、学習院華族女学校についての本などを参考にして、華族について書いた作品を読んだが、本当に参考にして想像で書かれているためか、全く親近感を持たなかった。)

彼が初めて作品を投稿したのは、学習院の幼稚園から大学まで一貫して年一度発行される、輔仁会雑誌だったと思う。実は私も、中学3年の時に作文が載り、時代はかなり異なれど、同じ雑誌に載ったということで、これまた親近感が湧くのである。

だが、三島の作品は、私の作文からは惑星ほど離れたところにある。そもそも比較の対象にならない。三島センセイに失礼である。

彼は「僕の文学の欠点っていうのは、あんまり小説の構成が劇的過ぎること。僕は油絵的に文章みんな塗っちゃうんです。日本的な余白ってものが出来ない」と語る。生涯尊敬した川端康成の文章については「怖いようなジャンプするんですよ。僕、ああいう文章書けないな、怖くて」と述べている。

以上は読売新聞から引いたものだ。油絵的に全部塗る、日本的な余白がない、という点には、大いにうなずける。これが欠点だとも思わないのだが、確かに、彼の小説は、これでもかというほど緻密で、蜘蛛の巣が張られているような、息苦しいほどに隙のない文章で覆いつくされ、構成されている。余白について「日本的な」と言っているところもまたうなずける。小説に限らず、日本の文化には、確かに、ときに意図的につくられた「余白」がある。

川端康成については、さほど読んでいないし、確かに日本的ではあるが、私はあまり、惹かれない。綺麗だな、とは思う。

音楽についてもまた然りだ。私の好みは、緻密に練られて作られた、幾重にも重ねられて構成された音楽である。だからエックスが好きだし、クラシックの中でも、吹奏楽よりフルオーケストラで、モーツアルトよりはラヴェルが好きなのだ。綺麗、よりも美しい、方が好きなのだ。サラサラ作られたものより、緻密に練り上げられたものの方が、好きなのだ。

そろそろ、三島の作品を、再再読くらいしてもよさそうな時期だ。彼の作品はときにミステリー的な要素も含んでおり、読みだすとその世界にしばらく引きずられる。何冊も読み続けることを覚悟で、またしばらくぶりに、三島の世界に溺れてみるのも、悪くない。  



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