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私にとっての写真とは

写真は好きですか?
撮るのが好きですか?
撮られるのが好きですか?
「写真を撮ること」が好きですか?
撮った「写真を見ること」が好きですか?

noteに限らずSNSを見るに、世の中には写真が好きな人が多いのだなーと思います。

スマホのカメラ機能強化にしのぎを削る各メーカーを見ていれば、おのずと分かることなのではありますが、こんなところでも私は少数派なのかもしれないという話。


私は写真を撮られることがひどく嫌いです。それは、まぁ外見がよくないことがきっと大きな要因なのでしょう。現実を直視することが耐えられないから、後で自分が見返す可能性があるものは本当に撮られたくないのです。(外見をよくする努力しろよ)

では、自分が見る可能性がない写真はどうか。これも嫌いです。この理由は、その写真に写る私と今の私を無遠慮に比較して、私の預かり知らぬところで何か感じられる可能性があるという点が嫌いです。(考えすぎー)

とまぁ何だかんだ思っていても写真を撮ろう!と言われると拒否しません。「拒否できない」ではなく、「拒否しない」です。

それは、相手が望んでいるなら応えてあげたいという感情がわいて、自分の意思より相手を尊重するからです。悪意をもって写真撮ろう!という奴はいませんから、きっとその人にとっては大事なことなんだろうから、それなら叶えてやりましょうってなもんです。
でも、ちょっぴりモヤっとするのも事実で、このモヤっとすること自体は嫌いじゃないんです。(わけわからんぞ)

実は私にとって何かが明確に嫌いと言えることはあまり多くなく、そういったことで感じる自分の感情は貴重なものなのです。つまり、写真を撮られるのは嫌いだけど嫌いじゃないのです。

自分で言うのもなんですが、実に鬱陶しい性格であります。


次に、撮ることは好きかというと、撮ることは好きです。ただし、撮った写真を見ることはあまりありません。「写真」には興味がないのです。「写真を撮るという行為」が好きなのです。もう少し細かく言うと「写真を撮るという行為をした”状況”やそこで写真を撮るという”選択をした自分”」が好きです。

さっぱりわかりませんよね。

世の中には廃墟や工場跡地の写真集なんかがあると思います。
私はアレらを見てもなにも感じませんが

「この写真を撮るに到った撮影者の心境ってどんなもんだよ」
「この写真と次のページの写真の違いはなんだよ」
「この写真集に載っている写真と載らなかった(大量にあるであろう没)写真との決定的な違いはいったい何だったんだよ」

とか、やや批判的なことや背景を考えてしまいます。

シャッターチャンスは一瞬です。こんなことをいちいち考えずに、身体の反射でシャッターを切らなくてはいけません。つまり、私が写真を撮る行為をしたときというのは、考える工程をすっとばしてシャッターを切ったということです。頭で考えてからでないと身体が動かない私がシャッターを切ったということは、そこに深い感動があった”はず”なのです。それは一瞬で、記憶でもって思い返すことができるものではありません。

でも、写真として残っています。

ブレていようが下手くそだろうが関係ありません。写真が残っているからこそ、そのときに深い感動があったことを確信できます。

私は写真を撮ることが好きです。
子供が産まれて3年半。
写真は増える一方です。

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