トロッコ問題から考える意思決定の強さとは

トロッコ問題というものがある。

そもそもこれは、倫理観とかを考える話で、それに関して言えば、絶対的に正しい答えというものは存在しない。あらゆる回答が許される。

これが度々話題になるのはそういうことじゃないだろう。結局、どうしてその決断をしたのかという意思決定の話に面白みは集約されると考える。

だから、ここでは意思決定の話をしようと思う。

問題内容と選択肢の確定

トロッコ問題は派生問題が多すぎるため、どの問題内容にするかを明確にしておく。

今回はwikipediaの内容に沿った問題内容で話を進める。

ざっくり要約すると、

トロッコの線路上に5人いて、このままではひき殺してしまう。アナタの目の前にある分岐点のレバーを操作すれば、別線にトロッコは入るがそこには1人いて、その1人をひき殺すことになる。5人を救うためにレバーを操作し、1人を殺すか。あるいはレバーを操作せず5人を殺すか。

こういう問題だ。

次に、選択肢の確定をしよう。
他の方法はないという前提の純粋な思考実験で話を進めるので、レバーを引くか引かないかの2択のみ。他の選択肢は一切なしだ。

レバーを引かずにそのまま5人犠牲にする。
レバーを引いて、1人犠牲にする。

このどちらかだ。

さて、はじめよう。

意思決定要素の分解

先程の2択を意思決定という観点で分解すると、

1.選べないから、結果レバーを引かない。
2.5人犠牲の選択をし、レバーを引かない。
3.1人犠牲の選択をし、レバーを引く。
4.5人殺したいから、レバーを引かない。
5.1人を殺したいから、レバーを引く。
6.選ぶ意味がないが、結果としてレバーを引かない。あるいは結果としてレバーを引く。

という6つに分解できた。
特に下3つの観点は見落としている人が多い。この問題において「人を殺さない」は絶対に成立しない。そこを排除して可能性を突き詰めるとこの意思決定にもたどり着く。

それぞれのタイプを確認しよう。

1.選べないから、結果レバーを引かない。

これに関しては、選択の放棄。思考実験に参加することすら放棄しているのだが、一番人間的な選択にも感じられる。ここでは現実逃避的意思決定とでも呼んでおこう。


2.5人犠牲の選択をし、レバーを引かない。
3.1人犠牲の選択をし、レバーを引く。

これらに関してが、この問題で本当に考えるべき部分であろう。どちらの犠牲を”受け入れるか”、“許されるか“という倫理上の問題をどういう根拠で意思決定をしていくか。これを考えるための問題だ。言い換えるならば、どちらの犠牲なら(自分あるいは社会が)受け入れられるかという、受け身な視点であり、これを受動的意思決定と呼ぶことにする。


4.5人殺したいから、レバーを引かない。
5.1人を殺したいから、レバーを引く。

これらに関してだが、行為の結果だけを考えると2・3と変わらない。変わるのは行為の根拠が殺したいという能動的なものになっている点だ。殺したいという表現が強すぎると感じるなら「犠牲にしたい」と読み替えてもらって差し支えない。どちらも同じ意味で、これを能動的意思決定と呼ぼう。

例を挙げるまでもなく、受動的な態度と能動的な態度では、意思の強さや行動力といったものに差が出てくる。
もう一度いうと、「殺したくない」はこの問題上存在できない。
「多くの人を殺したくない」と「多くを助けるためだからといって1人を殺したくない」は言葉としては表現できるが、前提として選ばなかった方は殺すことに変わりはないので、やはり「殺したくない」は存在できない。
つまり、能動的意思決定は「殺したい」「犠牲にしたい」という表現のみとなる。


6.選ぶ意味がないが、結果としてレバーを引かない。あるいは結果としてレバーを引く。

最後、6に関してだが、これは「人を殺さない」ということが絶対にできないという認識をした上での、選択の放棄といえる。つまり、どちらを選んでも人を殺してしまうという本質は同じなのだから、どうなろうが関係ない。という態度。この意思決定をする人は、自分のなかで確かなものがあると思われる。ただ、この思考実験からは対象外だ。

ここまでをまとめると、
レバーを引く、引かないは6つの意思決定のタイプに分解できて、その意思決定の強さを不等式で表すと

4・5の「殺したい」という能動的意思決定>2・3の「犠牲にするなら」という受動的意思決定>1の「選べない」という現実逃避的意思決定
(6は思考実験の対象外)

となる。

6つのうちのどの意思決定を選んでも結果的に人を殺すことになるが、そこに至った理由や心構えによって、アナタや社会にとって変わってくるものがあると私は思うのだ。
だからこそ、何故そうしたかをはっきり回答できるようにアナタに考えて欲しい。
次は、意思決定の強さを考えよう。

意思決定の強さとは

意思決定の強さというのは、それが他の条件が加わったときにブレないか。という点において重要である。

元のトロッコ問題においても、質問の形式を変えて、回答が変わるかを見ている。回答が変わるのは、そこに至る意思決定の強さが足りないからとも言い換えられる。
(質問への回答が正しい・正しくないではなく、一貫性があるかどうかということ。)

では、先程の3種の意思決定について考察を深めてみよう。


違う条件で考える

思考実験で条件を変えるというのは、ルール違反をしているようだが、意思決定の強さを測るには大事なことだ。他の条件・視点での意思決定との差異を明確にすることで見えることもある。

1.殺す人数を変化させる

もとの話では5人か1人だが、この数をいじってみよう。

ケース1.
レバーをひかなければ0人犠牲。
レバーをひけば1人犠牲。

問題として破綻してしまう。何の葛藤もなく、誰もレバーを引かない。レバーを引くのは許されない。という結論にすぐに到達するので議論にならない。

ケース2.
レバーをひかなければ5人犠牲。
レバーをひけば5人犠牲。

これまた破綻する。同数でもあまり意味はない。レバーを引かなくてもいいし、レバーを引くという回答も同じレベルで許されるはずだ。死ぬのは同数なのだから。
(しかし研究者によっては、やはりレバーを引くのを許さないとする人が多くなるとしている。これは選択の余地が入るという面で、同数殺してしまうにしてもレバーを引くという行為が、殺すという選択の実行ともとれてしまうからだとか。つまり、能動的に「殺す」という意思決定は社会的に許されていないともいえる。)

ケース3.
レバーをひかなければ60億人犠牲。
レバーをひけば1人犠牲。
(思考実験なので。レバーをひかなきゃ核弾頭が複数爆発する設定にでもしましょう。)

これは問題として成立する。単純に数が増えただけである。
さて、アナタの意見は5人の時と比べて変わっただろうか。

もともと受動的意思決定で1人を犠牲にする選択をしていた人は変化ないだろう。
一方、現実逃避的意思決定でレバーを引かない、あるいは受動的意思決定で5人を犠牲にする選択をしていた人は、人数が増えたことで、レバーを引く意思決定に変わる人も出てくるだろう。

いや、いいんだ変わっても。回答は自由だ。でも変わったのならばそれは、意思決定の強さが足りないということだ。

このトロッコ問題は結果的に死ぬ人の数、それ自体には意味がない。
もちろん、倫理観を問う問題としての功利主義的観点では数は大事なのだが、意思決定という観点で見ると、死ぬ人の数によってそれが揺らぐのは、「弱い」としかいえない。

そんな弱い意思決定では、社会や自分の心を守れない。

話をもどして、元の問題で能動的に5人を殺す意思決定をしていた人は、ケース3で60億人に殺す人が増えたら考えが変わるかというと、きっと変わらないだろう。何故なら、殺したいという能動的意思決定をする人は、何らかの理由でそう決めているはずで、それは5人でも60億人でもきっと同じはずなのだ。

何らかの理由とは、どんなものがあるだろうか。それは個人によって違うことなのでここで語ることはできないが、もし自分が能動的意思決定をする場合、どんなことが理由になり得るかを少し考えてみてほしい。


「アナタが1人を助けるために60億人を殺す選択をする理由とは、なんですか?」




思いついただろうか。




それぞれ違う理由があがるとは思うが、こんな理由を考えた人が多いかもしれない。
「1人の側がアナタの大事な人だった」
この理由なら、60億人殺す能動的意思決定をする人もいると私は予想する。

さて、次はこのこと。つまり、ひかれる人に属性を加えた場合どうなるかを考えてみよう。


2.属性を加えて考える

トロッコ問題を話している現場を見ると、「線路にいる人が大事な人だったら、どうするんだ」などと言う人がいる。それは思考実験を頭っから否定した言葉なのだが、実はこれも意思決定の強さを測るのにちょうどよいのだ。

現実逃避的意思決定をしていた人も、受動的意思決定をしていた人も、その選択の結果で殺してしまう側に「大事な人」がいた場合、考えを変えて「大事な人」を助ける選択をするだろう。それはトロッコ問題で本来考える部分ではないが、倫理上の観点でみたら、これは許されることだろう。名前もしらない他人の命と「大事な人」を天秤にかけて、「大事な人」を優先する行為は許される価値観だと思われる。

では、先程のケース3に当てはめて考えてみよう。

レバーをひかなければ60億人犠牲。
レバーをひけばアナタの「大事な人」が1人犠牲。

さぁ、どうだろうか。

現実逃避的意思決定をした人も受動的意思決定をした人も、さらに頭を抱えて考えることになるだろう。その時点でやはり、意思決定としては弱いといわざるを得ない。

このケースに関しては、能動的意思決定で1人を殺すことを選択した人でも、「大事な人」を助けるために考えがかわるかもしれない。

また、60億人も死ねばアナタの「大事な人」の「大事な人」を殺してしまう可能性もある。さらにその人にも「大事な人」がいて、とキリがない無限連鎖を考えてしまう人も出て来るだろうから、自分の「大事な人」1人が死ねば、自分だけが我慢すればいい、という風に考えて、あえて能動的意思決定で「大事な人」を殺す考えにかわる人も出てくるかもしれない。


つまり、どの意思決定をした人でも、考えが変わってしまう可能性が高くなるのが、属性を加えるという行為だ。それでもなお、回答が変わらなければ、それが強い意思決定とも言える。

しかし、属性を加えることは実にナンセンスで、本来の思考実験としての意味もなさない。

「大事な人」というアナタの心に直に訴える属性以外に、こんなのものでも考えてみても、属性を加えてはいけないことがわかるはずだ。

ケース4
レバーをひかなければ日本中の猫が犠牲。
レバーをひけば日本中のホームレスが犠牲。
(思考実験はなんでもアリということで。)

件のメンタリストなら、能動的意思決定でレバーをひくのかもしれない。きっとそれは壮絶な社会全体からのバッシングでもないと揺るがない、強い意思決定だろう。これにまつわる倫理的な問題はここで語るのはやめておこう。

属性を加えてはいけないことと、能動的意思決定が、他の意思決定よりも強い意思決定であることはわかってもらえただろうか。


意思決定が強い方がいい理由

それは決断の速度や行動力のもととなる。そして、後悔せずに済むことが多いからだ。

現実逃避的意思決定で、決断を放棄した結果5人を殺してしまうのと、能動的意思決定で5人を殺す選択をしたのでは、決定的に違うことがある。

それは、反省ですんだり、後悔する場所がかわったりすることだ。

現実逃避的意思決定で殺してしまった場合は、意思決定をしなかったことに対して後悔をする。これは払拭しようのない後悔だ。

受動的意思決定で5人を犠牲にする選択をした場合は、意思決定の弱さから、選択を間違ったかもしれないということに後悔をする。これは、いずれは自己肯定できることもあるだろう。

能動的意思決定で5人を殺すことを選択した場合は、そもそも後悔しない場合もある。自分で決めたことだからだ。もし、後悔したとしても、比較的すぐに立ち直ることができるだろう。
意思決定の根拠を問わず「あの時はあの選択がベストだと思ったんだ」などと考え、自己を正当化することができる。正当化出きることが、ブレないということで、これが強さだ。

トロッコ問題に限らず、意思決定が強いほうが行動にその強さが現れるのは自明だろう。

意思決定の強さとは、ブレないことにある。


ここまでのまとめ

トロッコ問題は、倫理学的な観点でのジレンマを題材にしたものであるが、我々一般人には多様な考え方や発想などを与えてくれる道具となっている。

その中でも私は意思決定という観点で見たときに、その意思決定の強さを測るのにちょうどよい題材と考えている。語り合える人とちょっとしたネタとして議論を交わすのも、新しい発見につながる、有意義な時間の使い方ではなかろうか。

「後悔は損でしかない」と私は考えているので、多くの人が後悔をしないで済むよう、強い意思決定でブレずに人生を歩めることを祈っている、という話。

おわり。


ここまでお付き合いいただきありがとうございました。

ここからは、トロッコ問題の意義とかを一切考えずに、私だったらこの状況に直面した時、どういう理由でどんな意思決定をするかを述べます。

意思決定の強さについて語っておいて、自分の意思決定を表明しないのもどうなのか。という点と、少数派であることは理解していますが、自分の考えを主張することにも何らかの意義があるのではないか。という2点で書き連ねています。

過激な表現があり、不快になる方も出てくるかもしれませんので、感じやすい方などは読まないでください。



持論(過激表現あり。閲覧注意)

最終的に、私の結論としては





「より多くを殺せる方を選択する」だ。

本来のトロッコ問題は最大5人を殺せるわけだが、この設問がケース3の60億人との選択なら当然60億人を殺す。
サイコパス的な回答であるが大真面目である。

その根拠を挙げていこう。
読み進めるにあたり、60億人を殺すか1人を殺すかのケースとして読んでもらった方がイメージしやすいかもしれない。

・誰かを殺すことにかわりない
自分には殺した人数の多寡自体に意味はない
・殺されるもの自体は考慮しない
(誰が死ぬかは関係ない。大事な人もOK)
・考えるべきなのは生きているものへの影響
つまり、ひき殺す意思決定をした自分と、選択により生き残った人。そして、この選択で殺されることになった遺族や関係者
(誰が死ぬかわからないという思考実験でいえば、生き残った人類全体)
・死ぬ人、その個人のことは考えない。
・私にもやむを得ない葛藤があったことなどを吹っ飛ばすほどの大事件にすることで、怒り、悲しみ、色んな感情の矛先を私にむけることができるという点

まず、「選択されることで結果として生き残ってしまったこと」により発生する苦しみ、いわゆるサバイバーズギルトの被害者の絶対数が少なく済む。

トロッコ問題において、サバイバーズギルト自体は無くすことはできないだろう。自分が死んで他人が生き残った可能性を容易に想像できるのだから。そして、この感情を受け入れるのはなかなか難しい。自分の心と向き合い続ける必要があるからだ。だからサバイバーズギルトの被害者は少ない方がよいという1つの視点。

次に死んでしまった人の遺族のことを考える。

死んでしまった悲しみを襲うのは避けようのないことだから考えてもしょうがない。多数を殺すも少数を殺すも、遺族が発生し得る点は一緒だ。

語るのも憚られるほどの凄惨な被害者1名の事件より、多数の被害者が出た事件・事故のほうが人々の記憶に残りやすい。

遺族にとって、他人にいちいち説明して回る必要もないくらい大事件として多くの人に認知されていれば、詳細に語る必要がない分負担もすくない。また、社会として遺族を思う気持ちが醸成されやすいので、勝手に同情してもらえたりもする。被害者の会のような、同じ苦しみを分かち合える人の数も多いし、それを支援する団体も生じやすい。悲しみから立ち直る速度が相対的に速いと考えられる。

次に社会への影響を考えると、戦争のように当事者がいなくなっても語り継がれる可能性もある。こうなれば、人々の間に戦争はよくない等の共通の価値観として共有されることに「大勢が死ぬ意味があった」といえることもある。

だから私は、殺すことは避けられないならば、この問題に直面したそれ事態を、大事件になるように死ぬ人は多い方がいいと考える。死ぬその個人のことではなく、残されたものにとって納得できるような死ぬことの意味を与えられる可能性を選ぶ。

もう一度、遺族の視点に戻る。
遺族にとって何が苦しいだろうか。

レバーを操作する私にもなにか事情があったかもしれなくて、どうしようもなかったことなんだ。と、思わなくてはいけない状態になることが、きっと遺族にとって苦しい。

「犯人にも事情があるんだから、しょうがないことなんだから、これを受け入れるしかないんだよ。」

なんてことを、言葉でも言葉以外でも浴びせられることは非常に苦しいのではないか。

悪は悪のまま、悪らしくしているほうが、被害者としては恨みやすい。どんな懺悔の言葉をもらっても、抱いた憎しみや苦しみは消えない。懺悔している悪を許せない自分が許せない。そんな人もいるだろう。

それなら、その苦しみは私が引き受けよう。

恨むなら私を恨みなさい。

自分の意思で大量虐殺を実行した私を恨みなさい。アナタの大事な人を奪った私を。何の落ち度もない人を殺した私を恨みなさい。
殺す必要のない命を大量に奪った極悪人の私を恨みなさい。

それがアナタの救いになるかはわからないけれど。そうなることを願って。

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悲しむ人の総数という意味では、多くを殺した方が増えるのは間違いないだろう。その分遺族も増える。

でも、その総数を減らすために少ない人数に、悲しみや苦しみの負担を全て負わせることは、あまりにも酷だ。

みんなで分けあって、乗り越えられる苦しみにまで薄めて、残された人たちが少しでも笑えるようになる道を選びたい。

そういう気持ちで私は選択する。
より多くを殺す選択をする。

これが私の、トロッコ問題への能動的意思決定による回答だ。前提や条件がどう変わろうと、この苦しみ・悲しみを理由とした意思決定は揺るがない。


最後に

結局のところ、こういった思考実験というのは何の目的でさせるかが一番大事なのだが、そこは置き去りで好き勝手に議論されている気がする。

そこの目的がはっきりしていなければ、無数の目線で語ることができてしまうので、思考実験としての意味を持たせることが困難になってしまう。のだが、だからこそおもしろい。多様な意見が、多様な価値観が飛び交う様を眺めるのが、私はとても楽しい。

余談

このトロッコ問題は、自動運転のAIに組み込むロジックとして、同じような状況になった時にAIにどう判断させるかを考える上で有意義という意見があり、そういった分野では活発に議論されているらしい。

すくなくとも、私の思考が組み込まれないのは確実だ。もちろん、私もそれがいいと思う。機械が犯人という事態は、人間には納得できず怒りの矛先を見失ってしまうだろうから。

ちなみに私がこの自動運転AIに組み込むロジックなら、
「搭乗者の生存可能性が最も高い選択を実行。搭乗者がいなければ、行動の変更はしない」にする。私は、これが社会的に最も合理的で許されるものだと考えている。

ところが、これが核弾頭の発射装置のAIに組み込まれるととんでもないことになる。人類滅亡まっしぐらだ。

思考実験は実におもしろい。

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