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だから私は旅をする

私たちは、人生を通して退屈する。

時間を持て余していたら、なんとなくSNSやニュースアプリを開いてスクロールしては一喜一憂したり、新しい漫画や映画で目ぼしいものをぼーっと探していたりする。

ドイツの哲学者であるハイデガーいわく、私たちは心の中の「なんとなく退屈だ」という声を押さえつけるため、仕事の奴隷となったり、気晴らしに耽ったりするのだそう。

思い返してみれば、私が今あてもなく世界を放浪しているのも、おそらく「退屈」からの一時的な逃避行のようなものかもしれない。

でも、日々の見慣れた景色にあきあきとしたら、新しい世界をみたいと思うのはきっとみんな同じ。それがよくも悪くも人間の好奇心、原動力でもあり、人たらしめるものだと思うのだ。

わたしの場合はその手段がいま「旅」なだけであり、人によっては「ゲーム」、「ヨガ」、「買い物」だったり「ギャンブル」かもしれない。予定調和から抜け出すその行為は、その人だけの秘密の花園となりうるのではないか。

自己を知り、世界を知る

サントリーニ島で出会った猫

そんなごく平凡な「退屈しのぎ」ではじまった私のノマド生活。定職も家もなく「何者」でもない今、自然と心は満ちたりている。

いま所有しているものといえば、少しのお金とお気に入りのものたちで詰まったキャリーケース(私だけのテイラーメイド宝箱と名付けよう)、そして「自分」という名の肉体と精神のみ。

周りの環境になじみ始めたころには他の場所に移り、新しい世界に溶け込むために自分との対話や内省を重ねていると、自分が何に退屈や心地よさを感じ、好奇心が掻き立てられるのか、身をもって実感するのだ。

「自分を知ることは、すべての知恵の始まりである」とはアリストテレスの言葉だが、まさにいま私の中で旅とは、自己を知り、世界を理解するための尊い手段のひとつなのだと思う。この無常の世で、一(=私)は全(=世界)。全は一。(ハガレンの名言!)

The Sense of Wonder

チェンマイにて

この文章を綴っているいま、私はタイのチェンマイにいる。

あまり観光らしいことはせずにのびのびと旅暮らしをしているのだが、道中であらゆる生命、景色、文明におのずと出会う。

それらは気が遠くなるような歳月の中で、そこに誕生したものたちだ。(そこに意図があったか無かったかはさておき)
135億年も前に無から物質、エネルギー、時間、空間が生まれ、そこからあらゆる奇跡を経て、私たちの先祖、文明が爆誕し、時同じくして同じ場所で会った。

それは、まさに一期一会という言葉では足らない、最上の奇跡なのである。
バタフライエフェクトというように、蝶の羽ばたきひとつで万事変わりうる世界で、私たちが生まれ、たまたま、もしくは必然的に「彼ら」と出会った。人生は、世界は、なんと摩訶不思議なのだろう。

そして私たちは、私たちを取り囲むいっさい、森羅万象について、おそらく砂漠の砂一粒ほども理解していない。その事実におののくと同時に、畏敬の念をも抱くのである。この感覚こそ「センス・オブ・ワンダー(Sense of wonder)」と言えるものかもしれない。

「日々旅にして旅をすみかとす」

長瀞にある線路上での夕暮れ

ここまでつらつらと「旅」について言及してきてなんだが、正直まだ「旅」について自分の中でしっかり哲学できていない。結局、旅とはなんなのか?人生そのものが旅のようなものではないかとも思うのだ。
もう思考が停止しはじめているので、今日はここでおひらき。旅について哲学するのはまた別の機会に。

しかしいま言えるのは、帰る家を持たず転々と生活をしている私にとって、まさに旅が日常。まさに、奥の細道で松尾芭蕉が綴ったように、日々旅にして旅をすみかとす、なのだ。

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