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息子に紡ぐ物語

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1男1女の子供を持つ平凡なサラリーマンと、父で作家の「長谷部さかな」は、不思議なキッカケから毎日メールをやりとりすることに。岡山県の山奥にある見渡す限りの土地や山々はどのように手…
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#応仁の乱

■【より道‐110】戦乱の世に至るまでの日本史_時代を超えた因果応報_ 六角高頼という男

■【より道‐110】戦乱の世に至るまでの日本史_時代を超えた因果応報_ 六角高頼という男

ふと、思うのですが「応仁の乱」にかかわった、八代将軍・足利義政から、十五代将軍・足利義昭までの間を生き抜いた室町将軍たちのことをじぶんは、よくしりません。

織田信長が活躍した戦国期は、なんども脳裏に刷り込まれているので、なんとなく経緯を理解していますが、どうも歴史のカゲに隠れてしまっている時期が、我が家のファミリーヒストリーにはとても重要のようです。

「応仁の乱」後には、戦国期の突入を決定づけ

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■【より道‐109】戦乱の世に至るまでの日本史_時代を超えた因果応報_ 日野富子という女

■【より道‐109】戦乱の世に至るまでの日本史_時代を超えた因果応報_ 日野富子という女

平安時代末期に後白河法皇の息子、以仁王が平家討伐を企てると、それを知った検非違使たちが、以仁王を捕縛しようと、兵をあげ内裏に向かいました。

そのころ、内裏の警護を担当していた、滝口武者の長谷部信連は、騒々しい気配を察知すると、以仁王に女装して脱出するようにと進言して近江国の三井寺まで逃しました。

そして、自らは内裏に残ると単身、検非違使たち相手に大太刀振る舞いをしたと言われています。しかし、多

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■【より道‐108 】戦乱の世に至るまでの日本史_時代を超えた因果応報_時系列

■【より道‐108 】戦乱の世に至るまでの日本史_時代を超えた因果応報_時系列

今回は、あくまで、じぶんのファミリーヒストリーに近しい日本史を、「嘉吉の乱」から「明応の政変」まで整理したものです。

当時の将軍や管領がどのような悩みを抱えていたのか。有力武家たちのお家騒動がどのように発展、展開していったのかが、なんとなくわかるものとなっています。

《六角騒乱》

■【より道‐107】戦乱の世に至るまでの日本史_時代を超えた因果応報_「応仁の乱(自習):後編」

■【より道‐107】戦乱の世に至るまでの日本史_時代を超えた因果応報_「応仁の乱(自習):後編」

「応仁の乱」は、政事で対立していた、細川勝元と山名宗全が畠山氏のお家騒動を利用したことで、戦に発展しました。

なぜ、ふたりが対立していたかというと、「嘉吉の乱」で山名氏が討伐した赤松氏の再興を細川勝元が支援したからだと言われていますが、室町幕府に権力が集中して、朝廷のチカラがなくなっていたことも「応仁の乱」に発展した一つの要因だったと思います。

ただし、私たちの日本史は、ペリーが来航したことで

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■【より道‐106】戦乱の世に至るまでの日本史_時代を超えた因果応報_「応仁の乱(自習):中編」

■【より道‐106】戦乱の世に至るまでの日本史_時代を超えた因果応報_「応仁の乱(自習):中編」

人の世のむなしい「応仁の乱」と、語呂合わせがありますが、1467年前後の出来事だけでこの争いの背景を理解するのは、難しいと思います。

これは、なにも「応仁の乱」という、わけのわからない中世の日本史だけではなく、第二次世界大戦にいきつくまでの近代史もそうです。どうしても、目の前のことばかり気にしてしまいますが、時代を超えた理由が必ずあります。

現在起きているロシアとウクライナの戦争もそうですし、

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■【より道‐105】戦乱の世に至るまでの日本史_時代を超えた因果応報_「応仁の乱(自習):前編」

■【より道‐105】戦乱の世に至るまでの日本史_時代を超えた因果応報_「応仁の乱(自習):前編」

歴史に興味がなければ、「応仁の乱」などわけがわかりません。そもそも、中世の時代は、日本の歴史に隠されているような気がしていますので、普通の「くらし」をしている現代の人には、人生で触れる機会というのが非常に少なく、日本史として人気があるのは、織田信長が活躍した戦国期のように思えます。

それでも、じぶんなりに、ファミリーヒストリーの視点で調べてみると、中世の時代は、かなり面白く、いまの日本の文化や、

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■【より道‐104】戦乱の世に至るまでの日本史_時代を超えた因果応報「応仁の乱(通説)」

■【より道‐104】戦乱の世に至るまでの日本史_時代を超えた因果応報「応仁の乱(通説)」

今までの人生で、「応仁の乱」ほど、わけがわからなく、興味のわかない戦はありませんでした。まあ、そもそもファミリーヒストリーを調べるまで歴史に興味がなかったのですがーー。

中世の時代は、たくさんの武家名がでてくるし、下の名前は、みんな似たような感じで覚えにくい。戦にどんな大義があったのかも想像しづらくて、生きていくうえで必要のない知識だと思っていたました。

しかし、ファミリーヒストリーを調べてい

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■【より道‐102】戦乱の世に至るまでの日本史_時代を超えた因果応報「京極騒乱:前編」

■【より道‐102】戦乱の世に至るまでの日本史_時代を超えた因果応報「京極騒乱:前編」

「応仁の乱」を語るには、京極家のお家騒動、「京極騒乱」についても書いてみようと思います。

なにせ、長谷部氏のご先祖様は、京極氏と婚姻関係を結んでいますし、我が家に残る「尼子の落人」と言い伝えを考えると、佐々木京極氏や佐々木六角氏のファミリーヒストリーと何かしらつながっていると思っています。

佐々木氏は、平安末期に源頼朝を支援した一族ですが、代々、近江国(滋賀県)や出雲国(島根県)などの守護を務

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■【より道‐101】戦乱の世に至るまでの日本史_時代を超えた因果応報「畠山騒乱」

■【より道‐101】戦乱の世に至るまでの日本史_時代を超えた因果応報「畠山騒乱」

◼️畠山氏のお家騒動

畠山氏のお家騒動は、畠山持国(もちくに)に子供がいなかったことからはじまります。そのため、家督は、弟の畠山持富(もちとみ)が継ぐ予定でしたが、畠山持国(もちくに)と遊女の間に息子がいたことが判明します。

自らの血筋を残したい畠山持国(もちくに)は、弟の家督相続を撤回して、じぶんの息子、畠山義就(よしなり)が正式な後継者にするよう、八代将軍・足利義政の裁可を得ました。

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■【より道‐100】戦乱の世に至るまでの日本史_時代を超えた因果応報_畠山持国という男

■【より道‐100】戦乱の世に至るまでの日本史_時代を超えた因果応報_畠山持国という男

中世のややこしい人名や出来事をファミリーヒストリーの視点で紐解いていくと、じぶんなりにではありますが、だいぶ理解が深まってきました。そして、ようやくですが、わけのわからない「応仁の乱」が起きた原因もわかってきました。

「応仁の乱」の原因をつくったのは、万人恐怖とよばれ、専制政治を推し進めた六代将軍・足利義教(よしのり)だと、個人的には思っています。

それは、父である足利義満(よしみつ)の政事を

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■【より道‐49】六分一殿と呼ばれた山名一族の明暗

■【より道‐49】六分一殿と呼ばれた山名一族の明暗

平安時代末期に長谷部信連が伯耆国(鳥取)に流された場所、日野郡下榎から大倉山(大蔵山)を越えた隣村にご隠居の故郷、高瀬村があります。

伯耆ふくめ山陰地方は、鎌倉幕府が開かれたときから山名氏が守護職を任されていたようなので、血縁関係のある我が長谷部一族も山名氏に従属していた可能性が高いです。

しかし、不思議なことに現代の自分たちには「尼子の落人」という、家訓のような言い伝えが残っていまして、この

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【143日目】応仁の乱

【143日目】応仁の乱

ご隠居からのメール:【応仁の乱】

政略結婚で長谷部の女子が山名伊豆守の正室ということなら、伯耆に流された理由がわかるね。信連なら正室の他に側室が多数いて、能登だけでなく、伯耆や安芸その他の地域に子孫を残したのだろう。

山名氏は天文年間以後、勢いが衰え、尼子氏がその勢力を吸収して、毛利氏と戦った。日野衆は上月城の戦にも参加して滅亡した。

長谷部氏は備後系と伯耆系に別れ、備後系の長氏は新見氏と手

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【88日目】ふゆ物語

【88日目】ふゆ物語

ご隠居からのメール:【ふゆ物語】

いくらなんでも五歳の娘が出産するはずがないと思って、信谷家の戸籍をじっくり点検した。字がかすれていて正しい読み方がわかりにくいね。

肝心のふゆさんの生年月日は「安政六年六月八日」と以前に書いたが、これでは「元治元年三月八日」に安次郎さんを生んだことになる。そんなはずはないと思った。安政六年は誤読で、正しくは文政十年ではなかろうか。それなら西暦で1827年で、

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■【より道‐11】戦国期までの道のり

■【より道‐11】戦国期までの道のり

ファミリーヒストリーを紡ぐなかでは、長谷部家の命運をわける戦国期をなんとか生き延びた長谷部元信について調べる必要がある。

長谷部(長)大蔵左衛門元信(はせべおおくらざえもんもとのぶ)は、長谷部信連の子孫と称し、広島県府中市上下にある翁山城(おきなやま)の城主で国人だったそうだ。長谷部信連ほど伝説が残っているわけではないが調べてみるといくつかの文献や痕跡が残されている。

しかし、長谷部信連の活躍

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