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吉野敏明さんの新著「医療という嘘」④/3章ロックフェラー医学と失われていく大和魂②

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■前回のお話

続きものなので、前回の内容を知っていると面白いですよ(^。^)

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①体丈夫な兵隊を作るために設置された「厚生省」


1904年から始まった日露戦争で莫大な戦費が必要になった。その際に日本の国債を買って援助をしたのがロスチャイルド家の代理人のジェイコブ・シフというユダヤ人だった。

ロンドン・アメリカロスチャイルド家が日本に投資する一方で、パリのロスチャイルド家はロシアに大量の投資をしていた。

戦争当事国の両方に投資をして儲けるのが彼ら、ロスチャイルド家の常套手段だった。


日本は戦争には勝ったが、発行された国債は全て日本負担となり、以降の重い負担になった。

1877年代にコレラが大流行し、日露戦争の後にはスペイン風邪が世界的に大流行して結核になる日本人が多くでた。

日露戦争から太平洋戦争へと至る中で、農村部の疲弊が明らかになり、国民健康状態の悪化、出生率の低下が顕著になった。つまり戦争のための徴兵検査に合格する若者が激減したということ。

ここで陸軍省医務局の提案に沿ってできたのが厚生省。国民の体力向上を望んだ陸軍省医務局がである。

厚生省が設置された3ヶ月後に「国家総動員法」が公布され、あらゆる経済活動と国民生活が戦争遂行に制限された。厚生省が戦争のための兵士招集に設置されたのだろう。

1940年には体力測定法が行われ、重症の結核患者には療養所に、軽症者には県民修練所に入れて指導措置が行われた。この目的のために全国に保健所が整備されたといっていい。

終戦後は陸軍省と海軍省が廃止され、軍人引き揚げ事業が厚生省に移管された。どうみても厚生省は戦時体制の産物でしかない。

徴兵制のもとで丈夫な兵隊を確保する目的で軍属主導によって作られたのが厚生省であり、一般国民の健康増進をはかるために設置されたのではないということだ。

これはヨーロッパと同じで、強い軍隊を作るために、軍医を育成する目的で西洋医学・ロックフェラー医学が発展した経緯と同じなのだ。



②ロックフェラー医学を持ち込んだ公衆衛生福祉局


日本では明治迄の民間の医療家たちは各自で独立していて、個人開業が多く、戦争や国債情勢によって発展した組織的な西洋医学(戦時医学)には歯が立たなかった。

吉野さんの家計でもそうであったように、江戸時代までは代々続く漢方医が大半で、自宅で療養している病人を往診して薬を処方する医療(訪問医療)が一般的だった。

例外として、1722年に徳川吉宗が薬草園と共に設立したのが小石川養成所。ここでは貧民救済施設として薬草を使った治療が行われていた。明治新政府時代に漢方医廃止の方針で閉鎖されてしまった。

戦後はロックフェラー医学の日本進出がさらに加速していった。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による占領期、日本の医療福祉・社会保障の分野で「サムスの改革」と呼ばれる改革が実施された。

アメリカ軍医准将だったクロフォード・F・サムスがロックフェラーに対して「占領期終了後の日本に、公衆衛生福祉諮問委員会を設置する」ように進言した。これにより、GHQの発足と共に公衆衛生福祉局が設置された。サムスはGHQ公衆衛生福祉局の局長として居座った。

その翌年に、総務、歯科、獣医、予防医学、看護、福祉、社会保障、病院管理、供給、人口動態統計等の各課が置かれ、組織の改変が行われていく。

これはアメリカ医師会においてのホメオパシー学派が排除されていったのと同じ。鍼灸や漢方を中心とした東洋医学や口中医を完全に排除し、日本にも薬物療法を中心とした西洋医学(アロパシー医学)に基づいた保険・医療・福祉行政が徹底されたということだ。


こうして終戦直後から対米従属路線が敷かれた日本国でロックフェラー医学は一層強化されていった。

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