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おにぎりの味は人間の味

「あ!分か...んねぇ」の有用性という記事で、私はとある質問を自分自身に呈していたのであった。

おにぎりは何故おいしいのか?

数か月前の私は、こんな簡単のように見えて、当たり前の過ぎる事実であるような「おにぎりは何故おいしいのか?」という質問に対して具体的な考えや文言を思いうかべることが出来ずにいた。


そうだな・・・。なぜおにぎりは何故おいしいのだろう。

時間とは不思議なもので、数か月前よりも、成長というものを人間に見出してくれる。

さて

いや、そもそも「おにぎりがおいしい」という前提すらも、疑問に思えるようになってきた。「おにぎりはおいしい」ではなく、「おにぎりはおいしいと感じるようになっている」というような前提の方が自然なのではないか。

私たち人間が食すあらゆる動植物は、「自然」ではない。もしかすれば未だに、自分が口にするものを、特に植物に関して、「自然」のものであると感じている人もいるやもしれない。

しかしどうだろう。食糧生産を始め、動物を家畜化し、植物を栽培する様にしてからは、それらは人間が食せるように改造された、栽培種となり果てたのである。(人間の手によって生存できるように進化したと考えれば、いたって「自然」であるように思われるけれど。)

でも、実際にそれが「自然」であるかのように感じてしまうのである。人間は途方もなく長い年月をかけて、今の様な暮らしをするようになったのである。物質的な充足では飽き足らず、精神的な充足を求めようとする人間達は、そのような事実には目もくれないだろう。(自然が理想的な「本物」だなんて思ってはいない上に、その区別なんて明確ではないことは承知しているけれども)

おにぎりの米。すなわち稲。これは本来の原生種と全く同じではない。最初から人間が食すことも出来たのかもしれないが、稲だって生きているのだから、生きるための特性を少なからず備えていたかもしれぬ。しかし人間用に改造されていく中で、人間に逆らうのではなく、彼らを利用して生きることがマシであったから、元来の性質を棄てた。

塩も海苔も、人間が食せる形で、加工されている。まったく人間以外にこんなものを誰が考えうるのだろう。はたしておにぎりは極めて不自然だ。

仮にあなたが、何の手入れもされていない、人間の手によって改造されていない自然のものを食そうとするなら、辞めておいた方がいいだろう。人間用に上手く作られていないそれらを食べると、苦しむか、死ぬか、良くてもそれをうまく食べることが出来ないという状況に陥るだけだろう。

大地の恵み

大洋の恩寵

確かにベースとしては、自然のものであろう。しかし「食べる」となれば、それは須らく人間の手が加えられなければならない。

もし人間が今亡びるなら、その後の植物というものは、人間という枷をかなぐり捨てて、自分たちが生きていくことが出来るような特性や性質を持ち始めるだろう。それはあまりにも、食べられることには向いていない。

おにぎりは何故おいしいのか?

それは、人間が生きるために編み出した、食糧生産の恩恵に負うもの。

おにぎりは何故おいしいのか?

つまりそれは、人間が人間だけに適するように改造させた植物が生まれたから。

おにぎりの味は、自然の味?

いや。きっと自然の植物からは、そう簡単におにぎりはできまい。出来たとしても、とても食えたものではないだろう。

おにぎりの味は、人間の味。

そうだとも。コンビニのおにぎりは、保存料も豊富な、作為的食物の象徴のように見える。そうでない大抵のおにぎりでさえも、おにぎりである時点で、もうその味は、人間の味である。

おにぎりの味は、人間の味。とどのつまり、”不自然”の味。


おにぎりを美味しいと感じる。人間でよかったと感じる時は、これ以上にあり得るのだろうかと考えるほどに。



今日も大学生は惟っている。




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