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総てのラノベを読む若人に告ぐ(はずだった)



ラノベ世代

この記事を読んでいる貴君は、ライトノベル(通称ラノベ)を読んだことがあるだろうか。

メインの世代としては、最高齢が30歳ほどで、最小が13歳ほどだろう。

メジャーなラノベを上げるなら、「涼宮ハルヒの憂鬱」「僕は友達が少ない」「バカとテストと召喚獣」「ネガティブハッピー・チェーンソーエッジ」「羽月莉音の帝国」「しゅらばら!」「俺の彼女と幼なじみが修羅場すぎる」「やはり俺の青春ラブコメは間違っている」「変態王子と笑わない猫」「エロ漫画先生」「86」「青春ブタ野郎シリーズ」「ソードアートオンライン」だろうか。

ラノベのパターン

もちろんのこと、筋は作品ごとに違う。

だが、パターンは粗方決まっている。

これを読んで、「あぁ~これだわ・・・」と思うだろう。


主人公は内気気味
近くになぜか美少女(才色兼備か巨乳、もしくは両方)
登場人物語彙力ありすぎ
主人公は極々平凡(に見える場合もある)
美少女は非日常への入り口となっている
舞台は大体高校(大学はなぜか少ない)
異世界転生多すぎ
異世界転生多すぎ
異世界でなんやかんや無双しすぎ
最弱に見えるけど実は最強
たまにガチの戦争もの
主人公はほんとに取り柄がない
親は出てこない
いつの間にか回りは大変なことに
僕は依然「僕」のまま
そしてまた日常に戻る


逆にこれに当てはまらないライトノベルがあるのなら、是非紹介してもらいたい。それが「ラノベ」と呼べるかはわからないけれども・・・。

「男」でなくていい

ライトノベルに出てくる男主人公は、「男」らしさを持っている場合が多くない。

ここで現実での「男らしさ」に関する文章を引用しよう。

一九六七年、社会心理学者のロバート・ブラノンとデボラ・デイビッドは、男性の性役割に関する、すなわち伝統的な男性性に関する基本的な構成要素を四つにまとめた。ひとつ目は「意気地なしはダメ」。二つ目は「大物感」。上に見られたいという欲求と、男性の成功とステータスを論じている。3つ目の「動じない強さ」では、とりわけ危機的状況における男性のたくましさと自信と自立心を説明している。4つ目の「ぶちのめせ」では、男性の振る舞いにおける暴力性、攻撃性、大胆さを論じている。(グレイソン・ペリー、2019、20)

正直、今まで私が見てきたラノベ主人公の中で、これら4つの特徴すべてを兼ね備えている人物は見たことが無い。そう見えても、実は強がっているだけという場合もあるからだ。(オーバーロードのアインズ・ウール・ゴウンみたいな感じ)

大抵は、意気地なしであり、大物感もなく、それどころか近くの美少女より下の位置にいることが多く、動じてばかり、誰かをぶちのめすこともめったにない。

総じて、受動的なのである。

近くに美少女がどれだけいようと、賢かろうと、ソードスキルを使えようと、千里眼並みのチート能力を持っていようと、将棋が強かろうと、文才があろうと、世界を揺るがす強大な敵が現れようと、彼らの根本(設定)は、受動的なのだ。


ラノベの正体?

このようなラノベを読んで育った(?)少年、もしかしたら少女たちは、往々にして、主人公の影響をドバドバ受けてしまう。ただでさえ多感な時期に、このような世界に没入してしまうのだから、多少なりとも憧れのような感情を抱いても不自然とはいえない。

先に言っておくが(もっと早く書けよ)

「ラノベは男子の妄想の権化」である。

自分の移動範囲が狭いなかで、世界が小さいなかで、ラノべという代物は有限で矮小な世界を、ほぼ無限に広げてくれる、ドラえもんの秘密道具に匹敵するもの。

もしもボックスが、その姿を変えて顕現したと言っても過言じゃあない。

では、ラノベの影響を真に受けてしまうとどうなるか書いていこう。


ラノベの影響

ラノベの主人公は基本的に受動的である。

その影響が最も現れるのは「恋愛」に近しい状況だ。

まず

自分が行動することはない
美少女がどこかに居ると信じている
自意識過剰になりやすい
自分のコトを好きな人がいると信じている
ラノベと現実とのギャップに気づきたくない(認めるには、相当の時間を要する)
働くことが悪だと思っている
僕は「僕」のままでいいと思ってる
美少年ではないのに美少年ぶる
原因を自分に求めない

大体ここらへんだろうか。

全部当てはまったら相当重症だが、前述で挙げた項目は、あまり幸福につながるとは言い難い‥‥‥。

世相を反映するラノベ

これは「やはり俺の青春ラブコメは間違っている」という作品に強く現れていると私は思う。

今の若者がどういった特徴を持っているのかは、こちらを☟を見て頂ければわかりやすいだろう。

さて

主人公の比企谷八幡は、総武高校に通う、高校二年生。その社会的背景は、今と似ており、大学全入時代というものが伺える。

このラノベだけでなく、高校生などの学生生活が基盤に置かれるライトノベルは、一貫した傾向が垣間見える気がしてならない。

ラノベを読んでいると、「資本主義経済」が見えないのだ。「労働」にかかわる要素が徹底的に排除され、そして「労働」について語られるときは、それを卑下しているかのようにである。

登場人物は日常の中の非日常で展開される物語で舞う。それは「働くこと」「労働」をどこかで恐れている、自分が自分でなくなり、社会の歯車となることを恐怖しているようで。

主人公たちは、(彼らが働くことはないが)、その日常に埋もれてしまうことを無意識に忌避し、美少女、世界の異常、異能、異世界、という現実世界には決して見ることのできない存在と、「自分」との舞踏を近くに居ながら遠目で楽しんでいる。そしてその状況を、あたかも「ラブコメ」みたいじゃないかと言い、その姿が、読者にまんまと当てはまってしまうのであろうよ。

ライトノベルは少年ジャンプとは違う。

自分自身が、サイヤ人になるわけでも、多重影分身を使うわけでも、月牙天衝になるわけでも、バウンドマンになるわけでも、ワン・フォー・オールを継承するわけでも、反魔法を使うわけでも、アドラバーストを持っているわけでもない。

ライトノベルは、限りなく現実の少年近い。

違うのは、物語が世界の方からやって来るか否か。

現実世界の平凡な少年には、彼を素敵な非日常的災害に導く者は存在しえない。


総てのラノベを読む若人に告ぐ


ラノベを読む少年たち。

物語は世界の方から君の身体に飛びついてくることはない。

どんなに力んでも、異能を使うことなんてできない。

せいぜい、仮面ライダーのベルトを腰に巻いて、それっぽくできるだけだ。

この世界の住人は、一つのプロットに沿って生きてはいない。

ライトノベルは、確かに軽い読み物だろう。

しかしながら、

ライトノベルが、現実とは限りなく乖離した存在だと知った時、その軽さはどこかへと消えてしまう。

軽さではなく、現実から見た浅はかさを反映しているように見えて、そのライトノベルの内容が重く腰にのしかかってくる。

人間は虚構を構築できるからこそ、つまりは妄想も嘘も作ることができるからこそ、その存在がひどく魅力的に見えてしまう。なんとも厄介だ。


ライトノベルを読む時は、用法容量を守って、適切に使用してもらいたい


ラノベにはまっていた馬鹿からの伝言だ。


でも偶には読みたくなっちゃうよな・・・でも、もし今から社会を担う全世代がラノベを読んで成長したらどうなるのかと思うと、少しゾッとするなぁ


今日も大学生は惟っている。



引用文献

グレイソン・ペリー. (2019). 男らしさの終焉. フィルムアート社


2020年12月16日 後記

なぜか、この記事のpv数だか、レスポンスだかよく分からない数字が、2000くらいになっていました。決して多くはありませんが、良くも悪くもある程度の数の人が目にした、或いは、タイトルを見た時点で、「ちょっと無理かな(笑)」と思った人がいるかなと感じました。

と、こんなことを書いたのも・・・

こんな記事を遅ればせながら発見しまして。多種多様な意見(と読んでいいかは分かりませんが)があり、結構ぐさりとくるものや、まぁ安心してもええよというコメントも。ネットに文章を書くというか、稚拙な文章を晒すということは、意見を僅かながらにもらうことなのだなと、間接的にではあるかもしれませんが、知ることができたと勝手に思います。

いわゆる、インターネット上の「タトゥー」のようなもの、或いは「黒歴史」かもしれませんが、それはネットで文章を多少なりとも晒すことからは、乖離させて語ることのできないことだと思います。

まぁ、良くも悪くも、いや良いや悪いという二項対立に落とし込んでしまう事は危険かもしれませんが、やはりネットの向こう側には、誰かがいるのかもしれないと感じました。

ワタシが、大学一年生という青二才の時(今もそんなに変化はありませんが)に書いた、「 総てのラノベを読む若人に告ぐ」は、正直稚拙という形容詞ではとらえきれないほどの、下劣?というか、低俗というか、「なんだこれ。だっさ(笑)」と言えるものでしょう。今見返しても、もうちょいラノベを読んでから書くべきだったなと・・・。

ネットの、というか、画面にワタシの書いたものに対して、いわゆる「否定」ととれるような(ワタシが勝手にそう解釈しているだけですが)ものがあると、おぉとなってしまいますが、というかなんだかこの後記すらも、詭弁に見えてきてしまいますが、ネットの海に埋もれていた文章が、誰かの目に止まったことには、嬉しい限りです。

黒歴史。共感性羞恥。もっと読め。こういう思いを他人に抱かせることが出来たことも、一経験かなと思います。まぁ、20になっていない子どもの文章が、良い意味で大うけするとは到底思えませんが。

ラノベに関して色々書くぞ!ということは、あまり無いですが、とりあえず意見を書いてくれている人がほっとしたというか、後結構、使用するマス・メディアの媒体によって、年齢層とか、或いはコメントの”感じ”が違うのだなとひしひしと感じ所です。でもまぁ、それがネットという場所なのかなと勝手に思うことにします。

この記事は、笑い話のネタにでもなるかと思うので、このまま残しておこうと思います。やはり、文章というのは、ムズカシイです。自己解決というか、こういう意見もあるのか・・・と、ネットに文章を晒すことの責任というか、重さというか、自らの浅はかさと識る契機として捉えようと思います。「否定」ではなく、「批判」として。

後、もう一つ。自分が勝手に納得するためですが、ワタシの書いたもんに何かしらの意見をもらうことが出来たことは、いずれにせよ、その人に影響を与えられたのだと思うことにします。バナナと5~6割遺伝子が同じの、ほぼバナナの人間であるワタシにしては、他人から批評をもらえるくらいの文章は書けたってことにしときます。

なんか、この記事の全文がネタに見えてきた




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