磊落不羈に「非」ずと~も


何をかくべきか。いやなにを書かないべきか。偏に何かに決めようと思っても、それが結局の一つの何かに帰着させることが出来ないのだとばかりしると、原因ばかりを求めていくことばかりに、あまり意味がないのではないかと思うようになる。

目的論的でも、原因論的でもない。どちらにせよ、究極の何かを求めようとすることは、きっと生きていることにおいては、無意味でしかないのかもしれない。意味がないのに、どう意味を見いだせばいいのか。それが、哲学の新たなワタシにとっての側面となった。芸術的であり、創造的であり、オリジナリティを求められるものであり、作為的であり、人的であり、ある意味で自然である。

時間が来る。バイトに行かなければ。仕事に飽き飽きする感覚はこのような感じなのだろうか。仕事をして、その先になにがある。そう考えると、このまま寝入ってしまおうかとも思ったが、習慣として沁みついているのか、この身体は拒否しない。意味を考えることの意味は何かを考えることを、何かをしている間だけは忘れることが出来る。生徒が解けずに悩んでいる問題を一緒に考える。先生のような、コーチのような役割を演じていると、悩みは一瞬どこ吹く風になってくれる。

結局何がしたいのですか。いいえ。おそらく、そんなものはありません。自分の中から湧き出るような意思、決定者としての意志などどこにもない。そのような有意志的な存在などどこにもない。なら結局何がしたいのかなんて、環境で決まってしまうのだ。そう育ってきた。そのような奴をみた。そう経験した。そういう考えに影響された。そういうことを認めた。その円環的な、どこまでも終わることの無い因果性、無限性に囚われている。

そう決める自分がいるはずだ。しかし決定要因は自分自身ではない。そう思っているはずのワタシがいたはずだ。しかしそれは思わされていたのではないか。生きる希望を作り出せ。いや、自分自身が生きる希望になれ。そうは思ってみるものの、数年後の無い未来を心配して、億劫になっている。

貯金何て意味がない。今さえよければそれでいい。現在指向の成れの果て。終ぞ寿命は予定され、生きさせられることに泣いている。

生きている。生きさせられている。生きている。死なせないようにさせられている。生きるよう強制されている。生きようとしている。でもちょっと楽しくない。年金の支払いを遅らせなきゃ。いつの間にかそんな年に近づいた。肩が鈍く痛いのだと、押し寄せる不快感に身体をよじらせる。本当なら、後十年で死ぬのかな。いや、消えていくのかな。

黒歴史だのなんだのと、そう笑うことが一種のコード。ネタとお決まりのそれにしかず。貶めることそのものが、貶められるような対象となる。お決まりにしか思えないその感性には、驚嘆と恐怖の念が無い。夜と冬と雨と猫。余り物には何がある。





今日も大学生は惟っている




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