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この意識と、「私」

この意識自身が「私」であるのか

「私」自身がこの意識であるのか


すっとこの「意識」に注目します。「私」の肩書などではなく、今「意識」している自分自身に注目します。

今この意識ははたして誰であるのか。それは私は長年そうである(はず)と思っていた「私」では、少なくともありません。

それは、「何か」だった。「私」が、その意識と向き合った時、その時「私」はどこにもいなかった。いや正確には、私は三人いるのだが、そこに一人に明確な、自立自存しているものとしての「私」はいない。

もちろんそれは、テキトーにつけられた意味のない氏名を持つ「私」(のようなもの)ではないし、学校や職場や、本屋や、妄想の中にいる「私」でもなければ、誰かと対峙した役割を保持しているパフォーマーとしての「私」でもないです。

私はどこにも「居」なかった。この意識は「私」であるかもしれないが、「私」はこの意識である必然性はどこにもないと。この意識は、この意識だけである意味独立しているが、「私」とは非常に曖昧模糊な存在に見える。

この意識は、この意識でなければならないが、「私」は、別の私でも十分に代えがきく。なら、なぜ「私」は、「私」であるのか。これは偶然そうであったとしか言いようがない。

偶然そうだったのなら、やはり「私」を取り囲む必然性には、なんら意味がない事に気づくことになる。英語を勉強してきた。英語を話そうとするときに、「I」だなんていうが、私はどうもこの「I」から始めることが苦手です。

「I am no one」と言うけれど、その「I」は、明確な拠り所としてのものを持ち合わせてはいないように思える。これは主語を使わない日本人であることも関係しているのだとは思うが、「I」は、名詞(noun)というよりかは、やはり一種の動詞(verb)、いや正確には動詞のing形に近いものと思うですが。

itfortoっていう仮主語構文を中三で習うが、そもそも私としての「I」自体が、その性質として既に仮主語的なものを含んでいるじゃないのか。主語が文法的にも、意味的にも主語であるときは、「真主語」なって言われたりするが、「I」自体が、真主語だとは思えない。「私」はやっぱり、「仮主語」的だ。

この「意識」は、一時的に「私」に呼応しているだけなのだろう。

「私は思う」「私は書く」「私は感じる」「私は眠る」「私は嘆く」「私は選択する」「私は死ぬ」「私は生きる」「私は有る」「私は在る」「私は勉強する」「私は感謝する」「私は夢見る」「私は苦しむ」「私は憧れる」「私は夭折する」「私は迎合する」「私は転ぶ」「私は息巻く」

私、私というが、そもそも「私」とはなんだろうかという疑問に終局行き着く。

それは私の「意識」たり得るか。それは、「意識」と完全に同じものなのか。

先ほども書いたように、私」が「仮主語」的であるのなら、動詞のように「私」は変化するのだろう。「drive」「drives」「drove」「driven」「driving」「has driven」「had driven」と変化する以上に、私は、おそらく変化しているのだろう。

動詞の変化は、実際に現在、過去、未来に合わせて変化しているのではなくて、人間が、存在していると仮想してる世界に合わせて、変化させているのだと思うのです。「私」も、またその仮想世界、もしくは状況に合わせて変化していく。だが、そこにはやはり「私」である必要性はない。外側から「私」っぽく見えていれば、それでいいだけのことでして。

そしてかろうじて、外側の状況に合わせて変化させている時だけは、この意識は、「私」であろうと思えるのだ。「私」を意識しようとしない時、この意識は「私」を意識できるのですね。でもこの「思える」は、可能という意味では無くて、なんとなくそうであろうという推定の域を出ることは無い。

もう一度、この意識に集中すると、そこに「私」はいないのであって、結局は、「私」は、バーチャルのアバターのような、人間が観客となり、またパフォーマーとなり、お互いに演技をしている劇場という世界の存在なのではないかと識る。まさに「theater of life」或いは「ドラマツルギー」ってやつだろうか。

本音、本心。そうだな、私にはそれがよく分からない。本音というやつも、突き詰めていけば建前ではないのかと思う。それが「本音(建て前)」を捉えられるぎりぎりのところ。つまり、真の意味での「本音」とは存在してはいないのではないか。本音を言える人とか、友達とか言うが、そもそもその本音って何? となってしまうのは狂っているのでしょうか。

親しむみやすいとか、本音を言えるとか、それは「演技の難易度が低い」というこの裏返しであって、果てしなく気を置けかないということと同義だとはあまり思えない・・・。本音の中にも、やはりどこかで気を使っている部分もあるわけで、二重の意味で真の本音があるようには思はえない。

意識、「私」、本音

つらつらと記してきたのだけれど、まずこれが「私」の意識から生じる「本音」なのかすらも分からない。これも、一種の演技上のものでしかないとしたら、私の本心ははたしてどこにあるのか。

「私」「俺」「我」「儂」「童」「僕」「あたい」「あーし」「殿」「オラ」

こんなにも、主語を表す単語がある。まるで、「私」が最初から分裂している、統一性の無いコマみたいだ。

「私」、ねぇ。

外にあるわけではないけど、だからといって中を見ても全然見つからない。



今日も大学生(?)は惟っている(?)。



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