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「良い」とか「悪い」とかも恣意性がぎゅうぎゅうに充溢してんだろう

「良い」とか「悪い」とか、人はほぼ何も考えずに使っていることがほとんだ。

「科学的に良い・悪い習慣」とか、「良いですね~」という言葉ほど、虚心坦懐に発することの出来る言葉って無いんじゃなかろうか。

さらに言ってしまえば、「良い」や「悪い」なんて、ほとんど意味を失っているように思えるのは愚昧な行いに過ぎないのだろうか?

「良い」

「悪い」

人間が対象を評価する時というのは、大抵主観的な好みや嫌いが混じっているといってもいい。真に物事の評価を客観的に行うのならば、あらゆる状況を記述することのできる言葉というものを知っていなければ不可能。

「赤い」という言葉・概念を知っていなければ、赤い色や赤いものを指し示すことなど無理なことは分かっているでしょう。

では、

(物事を評価できる語彙力が十分備わっていた上で)、何か物事を判断する明確な基準があれば、「良い」や「悪い」という評価も客観的になるだろう、と思う人もいるだろう。


ん?

いやいや、そんなはずはない。

それは我々人間の思いこみに過ぎない。

たとえば、「科学」という基準に基づいて、「良い」「悪い」を決めるとしても、そしてその科学の基準があらゆる批評・批判に耐えうる「確実さ」を持ち合わせて(いるように見える)いたとしても、それは結局人間の判断の域を出ることは無い。

「科学」というのはそもそも反証可能性を持つ考えでなければならない。「科学的に良い」というだけで、ではそれが絶対的・恒久的な正しさを持っていることにはならない。

(「科学」っていうのは、最初から反証される可能性を内包していなければならない。)

もし科学に絶対的な正しさというのがあるというなら、最初から信じればよいだけで、わざわざ証明などを行う必要ななどない、宗教となんら変わりはないけれど。

つまり

人間の判断は、往々にして「恣意的」。

「リンゴ」というシニフィエが、リンゴとされている物体と一致している(させている)のも、恣意性が働いているからだろう。

「リンゴ」が「リンゴ」であることを証明することはできない。


「良い」「〇〇的に良い」

平明な確証がその意見を支えているからといって、その考えを妄信する前に少し待った。

それはニーチェが転覆を試みた、ありもしない超感性価値とは大した差異が無い。

人が何かを判断するための基準は、ゼウスやブラフマンが設定したものではなく、人間が恣意的に設定したものと考えることも出来る。

仮にそうだとしたら、(仮説の話になっとるやん)

やはり我々は、人間が考えうる範囲でしか物事を判断できず、「良い」や「悪い」なんて、終局人間の勝手な思い込みと、どう違うをつけるのだろう。


「良い」と判断したのも、「〇〇的に・〇〇の観点から良い」という思案を基準に判断したいのも

最初からそれが「良い」かどうかなんてわからないことと同義で、

つまり何事が「良い」か「悪い」なんてもの、そんな判断は、存在していないんじゃなかろうか・・・?


無いから「創ろう」とする。しかし神はいない。

あるなら、「創ろう」なんてしないだろうよ。


「良い」や「悪い」なんて、存在していないから、「良い」や「悪い」なんてものを作ろうとするんじゃないのか?

だとしたら


「良い」とか「悪い」とかって、一体なんなんだろう?



今日も大学生は物思いに涼む。



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