捨てられないじぶんを抱きしめてあげる
玄関に埃だらけの黒いものが落ちていて、ひいぃ、となる。
恐る恐るつまみ上げてみると、それはデッサンに使う練り消しゴムだった。
ネコがひとしきりそこらを転がして遊んだ後、玄関の段差に落ち、放置されたのだろう。
わたしはそれを容赦なく捨てた。
捨てられた。ありがとう、ネコ。と思った。
練り消しゴムというものは、いつ捨てればいいのか分からない。
使っていくうちにどんどん黒ずんではいくが、普通の消しゴムと違って決して無くなったりはしない。
『激落ちくん』という何とも丸出しな名前のメラミンスポンジを掃除の必需品として愛用しているが、わたしはあれも無くなるまで使っている。
もっと早く捨てる人もいるようだが、わたしにはそれができない。
カタチのあるものが捨てられない。
もちろん、明らかに壊れて邪魔でしかなくなってしまったり、元々の機能を発揮できなくなるほど消耗してしまったものは捨てている。
だけど、無くならずずっとそこにあるものをなかなか捨てることができない。
『もったいない』
その一言で片付く類のものでもないような気がする。
これは、何なのだろう。
ひと昔前の『断捨離』ブームでは、みなこぞって捨てていた。
必要そうなものまで捨てていてギャグみたいになっている人もいたくらいである。
今は、元から不必要なものは持たない、ミニマムな暮らし、みたいなものがスタンダードになりつつあるのだろう。
わたしもそれに憧れはある。
今、一番本が売れている日本人は「人生がときめく片づけの魔法」のこんまりさんだという。
「心がときめくものを選ぶ」をキーワードに、独自の哲学を展開し、活躍するこんまりさん。その、片づけ×哲学に共感もする。
ただ、わたしは片付けられない、捨てられない。
それは、なぜか考えてみた。
本質を追求する姿勢
マインドフルネスな生き方としての 「”人生を変える”片づけ法」
・片づけを通して自分の内面を見つめ直す
・自分が大切にしている価値観を知る
・キャリアや人間関係など、人生における全ての選択において大きな変革をもたらす
こんまりさんの大切にしていること、そして本のバカ売れ現象を起こす支持されている部分とはこういうところだろう。
これを眺めていて、はた、とひらめくものがあった。
『片づけ』を通して追求する本質の他に、『片付けられない』を通して追求する本質があるのではないか、と。
つまり、『片づけ』の前の『片付けられない』をありのままに見ることによってじぶんが見えてくることに気が付いたのだ。
ただの『もったいない』ではない。
カタチがある。そこに存在する。
わたしが無意識にこだわっているのはその“存在”そのもののことなのではないかと。
そして、もうひとつこだわっているのが、その“存在”の“役割”のことだ。
「ときめかなくなったら捨てる」というのが、わたしには心の奥をぎゅっとされるような苦しさと切なさを覚えさせる。
これはたぶん、幼少期に愛情を充分に注いでもらえなかったと感じるじぶんと捨てられていくものとを重ね合わせてしまうからだろう。
愛がなければ捨てられるの?
じゃあ、役に立てば捨てられない?
どんなにがんばってもだめなの?
わたしはここにいるのに?
怯えた瞳をして聞いてくる幼い頃のじぶんが、物陰からこちらを見ている。
いつまでも『捨てられない』のは、その幻影なのだ。
だけど、こんまりさんはそこもちゃんとただ『捨てない』で『拾って』いる。
幼い頃のじぶんの幻影に、本当の役割を考えてあげよう。
君ががんばったから、今のわたしがあるんだよ。
ありがとう、もういいんだよ。
そう言って抱きしめてあげるんだ。
君が安心して消えていけるように。
そして、いたいならいつまでもいたっていい。
いつだって、わたしが抱きしめてあげる。
こんまりさんの言うように、まずは身近な「ときめかなくなったもの」に本当の役割を考えてあげてから、捨てられるようになろう。
そして、いつか。
君の方から笑ってバイバイを言ってもらえるように、わたしはいつでも本当の役割のことを考えている。
2019/12/10 08:21
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