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私は「パニック発作」が決定打になって休職をした

みなさんこんにちは。不安障害によるうつ病で休職中のyamaさんです。

先日、汐街コナさんの著書『「死ぬくらいなら会社辞めれば」ができない理由。』を読みました。ご自身の体験談をマンガで綴ったもので、過労死やうつ独特の狭い考えについて解説されており、私もそうだったなと共感する部分がいくつもありました。

私が休職したきっかけとは?

予め今回の記事は話が長くなることをお伝えします。またパニック障害をお持ちの方は発作の引き金になりませんようご注意ください。

私は、このきっかけが起きる以前にも、熟睡できない・突然夜大泣きする・文字を読んで理解できない・ごはんが不味く感じる・楽しいことが楽しめないなど・・・
今、振り返ればうつ状態であることは明らかでしたが、仕事への責任感から、まだ出来ると自分をさらに追い込んでいました。
さらに、身内に不幸が起きる、椎間板ヘルニアになってしまい生活に支障をきたすなど心的負荷がかかる出来事が重なります。

そんなどん底状態に、決定打となる出来事が起こりますーーー。

人生初の「パニック発作」が起きる

2021年5月上旬。コロナで何度目かの緊急事態宣言が出たころでしょうか。
在宅勤務をしていた私は、仕事をひと段落終え完了報告のメールを送信しようとキーボードの「Enter」キーを押したまさにその瞬間・・・

グルグルと目の前が急激に回りだし、座ることも困難な状態に。突如「今、死ぬかもしれない?!」という考えに襲われ、恐怖で泣きじゃくり、字のごとくパニック状態に陥っていました。

そんな状況でも超がつくほど真面目だったので、とりあえず上司にチャットで「今日の仕事は終了します」と送信。スマホを握りしめ朦朧としながらベッドへ移動し、ひたすらこの不可解な状況が落ち着くまで耐えようとしていました。

・・・しかし!

全く状況は収まる気配もなく「死ぬかもしれない」という感情は増幅される一方。蟻地獄に落とされるような感覚も出始めます。
死への恐怖心が爆発しそうという気持ちから藁にも縋る思いで、電話に出てくれそうな85歳の祖母へ連絡。この時は、会話らしい会話もできず一方的に「死にそう!」「怖い」と言い続けていたと記憶しています。
祖母はすぐどうにも出来ないと判断し、私の母から連絡がいくよう手配してくれました。
その後、母親と連絡がつき朦朧とした状況で落ち着くのを待ちました。そこへ夫が奇跡的に早く帰宅し、発作は少しずつ消失していきました。

時間にして、発作が起こる→落ち着いて夫と会話ができるまでに、1時間弱の出来事だったと記憶しています。
正直、体感的にはその倍ぐらいの時間を苦しんでいたと思います。
*過去に、過呼吸発作を起こしてことはありますが、その発作の比ではないくらいに、自分の身体がコントロール不能になりました。

「あぁ、仕事はもう出来ないな」という気持ちになる

この発作で初めて「死ぬかもしれない」という感情が自動的に自分の中に湧き起こったと同時に
「仕事はもう出来ないな」
「身体がおかしくなってしまった」
「来るところまで来てしまった」
バーンアウト(燃え尽き症候群)してしまいました

某ボクシングマンガの主人公のように、真っ白に燃えつく・・・
そんな状態を思い浮かべていただくと想像しやすいと思います。

不眠症から始まり、身体からのSOSは出ていたはずなのに、私はそれを我慢と根性で押し切って仕事していた。そのツケがドーンとまわってきたなと。
しかし、「ようやく休む口実が出来たなと」妙な冷静さもありました。医師の診断書さえ取得できればまとまった休暇がとれると・・・。
心の片隅では休みたかった。

後日、この出来事を主治医に相談したところパニック発作を起こしたとのこと。今後の治療方針から長期療養が望ましいと言われ、私は休職を決意しました。

忙しさのあまり、周りにも悪いし仕事が心配だから休めないと思いがちでしたが、これ以上頑張って仕事をしていたらと思うと・・・取り返しのつかないことになっていたかも。休養することの大切さを思い知らされました。

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