自由への責任を果たすこと。果たせない責任をシステムや科学で補うこと。

自由には責任がともなう。という言葉がある。
私はこの言葉が嫌いだった。自由に責任が伴ってしまえば、それはもう自由ではないのではないか。
例えば殺人を犯すという自由、それへの責任は、一般には秩序維持のための処刑。個人では精神異常。

ということを考えれば、確かに自由には責任がともなうのかもしれない。いやわかんねえけど。

しかし、タイトルにもある通り、いわゆる一般の人ができる自由を、責任が果たせない異常な人がやるべきではない、という、考えは間違いだと思う。
それは例えば、障害。

脚の不自由から車椅子を利用し、映画館での鑑賞がしたいが、車椅子の利用者専用の席しか選べない不自由。
自由には責任がともなう、ということで、自由に席を選ぶことにともなう責任とは、自分でその席まで行くことができること。有事の際、健常者とほとんど同様に対処できること、などだ。

この責任を障害者は果たせない。ゆえに席の選択の自由は与えられない。

しかしこの責任、システムや科学で補ってやれないものか。
今、現実的ではないかもしれないが、そもそもの理想とは、健常者と障害者の平等だ。
今、現実的ではないから健常者と障害者は区別され、それでもなるべく過ごしやすいようにシステムや科学が補ってくれている。バリアフリーのように。
未来、脚の障害であれば、完全な再生技術によって一部平等は達せられる。それまで、その自由への責任を果たすことができる物の代替となるシステムや科学で、平等を叶えられないかしら。

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