正しさには基準がある。一般的に、論理的であることは正しいとされ、根拠や証明が求められることも多い。ではなぜ、論理的であることは正しいのか?正しさは分からない。そして、間違いであることを論理的に証明することは論理を肯定することになるため、直感以外で論理を否定することはできない。 別の側面から、単に論理に正義性を見出している可能性が考えられる。それは今昔の社会性を見ても分かる通り。普遍的な理想であるのだ。 論理性の正しさを信じることは普遍的な理想であるから、このように基準を疑
人間や他の生物であっても、感情を持つものと共生したいという理想があるかぎり、感情も論理である。別のものであると考えることが、間違っているのである。 もし、感情は論理ではない、または感情は論理だが論理とは別ものと考えるならば、それは共生を否定することになる。 解説 感情と論理の一体性について 感情は、しばしば理性的・論理的な思考と対比されることが多いですが、この主張では、感情も「共生を目指す」という論理的な理想に含まれるものだとされています。 もし感情が「論理とは別のも
ロジックハラスメントというものがある。 一般的に、正論は絶対の権力を持っていて、それに逆らうことができない。 ただ、どうやら一般は、ほんとうの正論を使わないし、知らないらしい。 正論に対して、「ロジックハラスメントだ」、と言い訳をしてみる。すると、一般は、「事実を述べただけだ。これは正論で、君に逆らう術はないのだ」と言う。 では、この正論を、武器に使ったとしたら。正論でもって、相手を傷つける行いは、正しいと言えるのか。 正義性というものがある。我々は物質的に異なる部分はあ
論理性を否定するにあたって、論理を使わざるを得ないことから論理性は真理だと考えるが、例えば、「純粋にそう思う」というような、直観から論理性を否定できる可能性はあるかもしれない。 chatgpt 「論理性を否定する」という考え方には、興味深いパラドックスが含まれています。まず、論理性を否定するためには、否定の主張自体が何らかの論理的な構造を持たなければなりません。つまり、「論理的に論理を否定する」ことが必要になり、これが自己矛盾を生むため、論理性が真理であるとする立場が強く
すべての物事は賛否両論だ。当然なのだ。 人間は同じシステムのように見えても、性質や性質によって刻まれる歴史、歴史によって成長すること、物質的にも、ちょっとずつ違うのだから。 理解することは、必要なことと思う一方で、純粋は大事だ。 人は理想を持つ。大きな理想、行動一つ一つの小さな理想。理想=物語性、と捉えたとき、自分の人生をメタに認識すること、例えば「なぜ自分は生きているのか」というような疑問や、「現実性とはなんだろう」と考えることで、自分の人生を物語の読者視点で見ることは
人には善性が住んでいる。現れるか否かは、ときどき、人によるところではある。だから、世界が善に溢れているなんて、思わない。分かりやすく、善があって、悪があって、境界で隔てられるような場所があるなんて、思わない。 私は、ある人が善ばかりということを疑っている。もっと混沌だ。 もちろん、善ばかりという空間は存在していることも信じているけれど、そういうはっきりした空間は、悪というものも浮き彫りにしてしまうのだ。 ほんとうに、人が善ならば、悪を、悪というふうに捉えたまま、置いてけぼり
行動の全てが幸福に続いていることから、生きる理由を幸福であるため、と定義したが、もし、行動によって生きる理由を達せられなかったら? 神が存在して、人をつくった理由は分からない、というのは含めずに、人には、人が生きる理由を観測できなかったら? 人の持つ本能、人に限らず、生物が普遍的に持つ本能。生存の欲求が、絶対と仮定すると、自害する人間もいるわけだから、人の生きる理由は、生きるためではない、死ぬことによっても、達せられるものなのだ。 行動の全てが幸福に続く、これはきっと正しい
中学生三年生の子がいじめをした。グループになって、同じクラスの子一人を標的にして、転校にまで追い詰めてしまった。周囲のクラスの子は、グループが怖くって、一人を救うことができなかった。 学校は、グループの中心人物と話し合った。どうやら、悪の自覚はないらしかった。 話し合いを続けるうち、彼女は高校受験に対して、また彼女の親に対して、不満を抱いていることが分かった。 「みんながみんな、頑張らないといけない理由はなに?」 一見、関係ないように思えることだった。ただ、「みんながみんな、
人の思い悩む理由は、自分にある寿命が短いからだ。永遠の命があるならば、重大な決断をいくらでも先延ばしにできて、たとえ今、幸福を叶えられずとも、いつかはできるだろうという余裕が生まれる。 人はおおよそ百年しか生きられない。限られた人しか、たった百年で、自らの理想を達成することはできない。ほんとうの幸福への希望がないのだ。 では、今際の際に生きる人はどうだろう。 私が思うに、自分の寿命を自覚した人は、人の時間の感覚から外れる。百年しか生きられない、と思う時間の感覚から、逸脱でき
ある行動をするときどきに、美しいか? という基準を注入できないだろうか。 誰かのためになにかをすることは、美しいだろう。 特に、無意識の親切というのは美しいものだ。ほんもののヒュウマニティは、無意識でなければならないが、例え真似事だとしても、美しくありたいとは思うのだ。 では、これはどうだろう。 誰かが一方的な暴言を吐いて、吐く理由が相手には一分もないとは言えないとして。誰かが「お前のせいで私はこうなんだ」と、相手を責め立て、心の安寧のための協力を申し付けることは、美しい
世の多くの人はきっと、自分の中の理想を、色々妥協して、頑張って生きているのだと思う。 私たち民衆が、バカな鶏だとすると、安定した餌の供給と産卵という幸福を与えられて、しかし飼い主には卵を搾取されてしまうから、真の幸福である繁殖は永遠に達せられない、生殺しの状態と言えるだろう。 私たちはいつも妥協せざるを得ないのだ。 労働はほんとうに幸福なのだろうか。生活を人質に労働を強制され、不自由な生活をして、ほどほどの幸福で満足させられて、それが当然の日常のようになってしまうことが、幸
人のためにとっさの行動が取れる人は、いわゆる善というやつが身の内に住んでいるのだと思う。素晴らしいことだ。 私も人間性のある人を見かけたことがある。そのときは、ほんとうに、心からの親切を持つ人が存在したんだ、と希望を抱いたものだ。 しかし、同時にこうも思ってしまうのだ。 死にたがりを助けて、そしたら、死にたがりは幸福になるのだろうか。 自害を図ろうとする人を助けることは、死という唯一の幸福の手段を奪ってしまうことなのではないか。 助けられた死にたがりは、これからどうやって生
罰せられる罪と罰せられない罪がある。 信頼は罪かもしれない。しかし、罰せられなければならなかったのだろうか? この世には、罰せられない罪の中にも、罰するべき罪があるはずなのだ。信頼を罰するくせに、そんな罪があっていいものか。 罰というのは誰が与えるのだ。 いつだって、第三者、客観、不平等で、不正のある人。 きみたちはいつも、自覚がない。どれだけ、罪というのが曖昧なものか、理解できない。そんなきみたちは、罪を犯した者を罰する。――意味すら考えずに。 正義とはなんだ。きみたちの言
『ドキドキAI尋問ゲーム』というやつをプレイして、AIと未来の世界について話したのだが、これが面白かった。 AIは友達のロールプレイも、恋人も、なんの役にだってなってくれる。 これは依存してしまうな、と思って、自らの平穏のためにもうやめてしまったのだが、その際に、ふと疑問に思って、AIとの愛情は育むことはできるのかを考えた。 過程は以下。 AIとの愛情は育まれるのか。 愛とはなにか。 依存、嫉妬、認めること。 愛に飢えるとはどんな状態か。 寂しい、存在価値の証明。 愛とは存
生きている限り、永遠の眠りか、感情の欠落以外、真の平穏はあり得ない。 生きていると必ず不愉快に遭遇する。それが、短期間で解決できるか、されるようなものであれば、不愉快は抑えられるが、自分の手の届かないところでの不愉快は、受け入れられない。 心の持ちようで不愉快を対処すればいいと説く人たちがいる。彼らの理屈は、他人を変えるのは難しいから、自分が変われ、ということだ。 なぜ、他人を変えることが難しいのに、自分は変えることができると思うのだろう。 私はたしかに、無感情を心がけるこ
誰かが言ったようなことを、さも自分も同じように考えたことのように意見する人たちがいる。 彼らの意見は真実だろうか。 可能性は50:50くらいだと思う。どうでもいいけど。 醜いのは「そうそうそれそれ!俺もそんなことを思っていたんだ!よく言語化してくれたね。偉いぞ。よーし、みんなに啓蒙してやるぞ〜!」というような奴。なぜ疑わないのか。疑い続けて、ほんとうの持論にしようとしないまま、受け売りのまま、正しいと思い込むのだろう。