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何にも集中しない

noteは気まぐれ。

テクストをインターネットの大海原に投げるということの意味、重さを徹底的に哲学して、そのうえでどのように在るべきかということを考えてTwitterやらnoteやらをやっています。この主義は(多分Web3.0とかが浸透するまでは少なくとも)変わらないんじゃないかなと思っていますが、別に私はそれを生業にしているわけではないので、投稿頻度とか、投稿内容なんかは、基本的に気まぐれです。

毎週1000文字書くトライアルはとても楽しかったし、練習にもなりましたけれど、1年続かなかったですね。さんざ私は自分のことを集中力の低い人間だと言っていますが、まさにそんな感じがする。(むしろその割にはよく続いたなあとすら思っています)


一般的に世の中では「何かを突き詰めること」が求められている、という風潮が強いですね。国数理社英が綺麗な五角形になっていることを目指させられてきた教育に対して「スペシャルなことができない」「何かを生み出すには偏りが必要だ」みたいな指摘を投げつける時代です。(「」の言葉は引用じゃなくて適当に創りましたけど、まあそんな雰囲気ですよね)

結構腹立つんですけど、いやお前らが綺麗な五角形を作れって言ってたから私は大した人間になれなかったのでは?とか普通に思います。私の親世代からダイバーシティを尊ぶ思想があれば、もっと集中力の持続する大人になれたかもしれないのに。

で、むかつくので、時代がどういうスタンスを押し付けてきたとしても、私はこれを伸ばしてやろうと決めました。「これ」とはつまり「集中力がたりないこと」です。

伸ばすというか、直さない、ですかね。集中力が足りないまま人生を歩む。これも仕事の合間に書いてるくらいですから、本当に集中力がない。バレたら怒られるでしょうね。

いかに何かに集中しないか。何にも集中せず、関わっては離れ、対応しては捨て、クリアしては眺め、昼寝して、やりかけのまま放置して、ふと思い出しては取り組み、気づけばYouTubeを見ている。

そもそも仕事に取り組む姿勢もそんな感じなんですけど、人生スケールでそれをやってやろうと。何かのスペシャリストとして認められることなく、しかし学びと経験を断続的に繰り返し、どの素人より優秀で、どの専門家にもほかの領域で上回る。

圧倒的ゼネラリストとして、人生を一番楽しめる形で、人生自体に集中せず、飄々と生きていきます。

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