超消費社会と搾取構造と向き合いたい
資本主義というか新自由主義というか、昨今の世の中でお金について考えるというのは非常に酷だなと思う。むしろ、なんなら、私はできるだけお金について考えないようにしているところがある。
資本主義構造では貧富の差という概念があるわけだが、今の若者は「なんとかお金を稼いで死ぬまで不自由なく暮らす」ということに絶大なプレッシャーを感じている。国からの支援には期待できないし(年金は老人たちを養うための税金みたいなものだと思っている)、いい大学を出た若者は、都心の近くで利便性を確保しながら1K10万円超のマンションで独り暮らしすることを(もしくは1LDK18万円超のマンションで3人暮らしすることを)強いられている。
もしくは、これを目指すように強いられている。安定した(?)資本主義経済の中に生まれて、そこそこの教育を受けた若者たちは、まず漏れなくこの価値観を植え付けられているように思う。
将来を考えるのが非常に苦しい。
子供ができたとて、共働きを前提にしなければ成立しないような給与体系と物価。家庭内における労働時間は純増(下手すればきっちり二倍)だし、そのくせ裕福を目指せない。その中で子育てをしろと言われても、土台無理な話だ。そもそも個人主義尊重時代、多様性受容社会イコール個々が好きなことをする時代、核家族の仕組みはもはや崩壊しているし、選択的夫婦別姓も実に今風のアイディアである。子供を育てることは構造に逆らうに等しい。
資本主義が行き着いた先は、利便性にお金を払い続ける「超消費社会」の構造だった。
ファストファッション。ブランド。ゲーム機やスマートフォン。めまぐるしく新商品が登場し、古いものは捨てられていく。クリーニングよりも廃棄。修理よりも転売である。常に新しいものを身に着け、遊び、情報や流行を把握していないと一瞬で取り残されてしまう。そこに自分の嗜好はほとんど介入しておらず、周りに合わせてやるべきことを選択する。
これに付いていくことが当然であるという思想が植え付けられている。そうなるように出来上がっている。そうでなければ排除される。民族柄なのか知らないけれど、横で手を繋いで同じように生きることの意識が強い分、そこから外れた人間に対する排除の力は強い。
共働き(=個々で稼ぐこと)を強いる環境と、同じような超消費社会の枠組みの中で生活する(=他人と同じくらい、他人以上に消費することがステータスみたいに見える)環境は、その仕組みだけでもう暴力みたいなものである。
こういう感覚と貧富の差は以前からあったやもしれないが、最悪なのが今の日本経済である。物価は上がるが給料は上がらない。一部物価だけ低いまま維持することで、そのビジネスに従事する方々の給与は上がらず、貧富の差は広がっていく。
そして、そんなことがどうでもいいくらいに深刻なのが少子高齢社会である。労働力の減少、若者の軽視、晩婚化、それを止める政策を一向に打ち出さない国政。子育て環境は整わず、子供は増えず、教育の程度も下がり、能力を身に着けるすべを知らず、年功序列を覆せるほどのスキルは無く、年長者が給料を吸い取り、還元せず蓄え、企業は停滞し、若者は下位に滞留し、政治への興味を失い、気づいた時にはニヒルに落ち込み、労働意欲も失せ、衰退する国に何かしようとも思えなくなっている。
これらはすべて国政のせいであり、企業のせいであり、老人のせいであり、ひいてはお金のせいである。
労働力のある若者を生み出すに至らなかった国政の、年功序列構造から逸すことのできなかった企業の、自分たちの目の前の保身に注力した老人たちのである。
今からでも教育のレベルを前例にとらわれずに大きく転換すれば何か変わるかもしれないが、そうはいかない。それを決定するのは国政であり、老人だから。
今からでも年功序列を明確に排すことのできる、若い労働力の希少性に気づき、大きな対策を行えば何か変わるかもしれないが、そうはいかない。それを決定するのは国政であり、企業であり、老人だから。
何を求められているのかわからないけれど、私はお金について考えるときは絶望しかない。
貯金額がどんなに増えても、怖くてたまらない。たった5年先だって、もしかすると子供ができたら桁が一つ下がっているかな、とか、親が病気になったらおしまいかな、とか、そういうことしか考えられない。
わたしの未来は暗い。
いや、私に限らず、お金のことを考えた若者が、心の底から何か明るく語れるということが、今の時代、この国で、あるのだろうか。
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