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恋とは光である。最初からそれが答えだった。

恋とは、誰しもが語れるが、誰しもが正しく語れないものである――シーロウ・キーター

映画「恋は光」より

ヤングジャンプにて連載していた漫画「恋は光」を原作とする映画「恋は光」を見てきた。

映画「恋は光」

私は映画評というものにまったく明るくなく、そもそもこのnoteはエッセイなので好き放題書かせていただくが、全力でネタバレしたいと思うので、以下についてよくご了解いただいてから記事を読んでほしい。

・原作漫画を読んでいる、かつ映画を見た人だけを対象とした内容になっているため、それ以外の人が読むと「?」となる部分があるかもしれないが、特筆して丁寧に説明するつもりはないのでご留意いただきたい

・上記の通りのため、漫画しか読んでいなくてこれから映画を見る人にとっては壮絶なネタバレになることをお許しいただきたい

・同じく、映画しか見ていなくてこれから漫画を読むつもりの人が居る場合も、壮絶なネタバレになるため、注意してほしい





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=====以下、ネタバレ注意=====


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いきなり核心だが、漫画も映画もご覧になった人にとっては、漫画と映画ではエンディングが異なる点は絶対に見逃せないポイントだと思う。

そもそも原作時点から「いやそうもいかないことは分かっちゃいるけど北代エンドになってくれよ…頼むから…」という願望を抱きながら読み進めていくうちに「この作者の表現というか生々しさというか、そういうところを考えると東雲エンドしかないよなあ」と願望が絶望に少しずつ変わりながら最終巻を読んだのを思い出した。

で、漫画だと東雲エンドなわけであるが、そもそもこの東雲エンドはハッピーエンドではない。
いやバッドエンドというわけでもないのであるが、複数人から一人を選ぶという行為をやらざるを得ないという苦悶があるという時点でどうしたってハッピーエンドにはなりえないですよねエンドである。生々しいエンドである。

ちなみに、単行本巻末コメントだったかインターネットだったかで、作者が「非常に悩んで決めた」旨と「この本のテーマが『恋』だったので、最終的には東雲嬢を選ぶ形になった」「たとえば「愛情」とかだった場合は北代を選ぶ形になったかもしれない」といったことを仰っていて、なるほど理由としてはとても納得のいくものだった。


原作・映画共にであるが、西条が親からの愛情に欠落していた点、それに伴う形で光が見えるようになっていた点、恋というものが愛というものと一定の区別をされて描かれている点から、東雲嬢が選択されるというのはとても理に適っている。

実際、大学生の浮かれ具合とか(作中の人たちはちょっと違うけれど)、「女子大生は今が発情期なのか?」という支離滅裂なコメントとか、恋というものに対して一定の幼稚さを含ませて解釈しようとしたり、(映画だとちょっと薄めだったけど)東雲嬢の恋の勢いというか本能っぽさ、北代の理性のそれを恋と表現するのに時間をかけたところ、宿木嬢のようなゲーム感覚の嫉妬心を煽る行為ですらも光ること、その他もろもろ、全体的に恋というものを回りくどくも小馬鹿にしているというか、大学生の青さや若さを表現する要素として解釈しているような側面がある。

恋を青いものだと解釈してしまうと、作中の北代のそれを恋と定義するのはけっこう難しくなる。
北代の友人関係における振る舞い、西条に対するスタンスと強い愛情、それでいて聡明かつ多趣味でお洒落で美人で鼻につかない言動。端的に異質である。超人過ぎる。
東雲嬢と西条の(なんちゃって含)浮世離れと宿木嬢のザ・俗世俗物現実即物主義のいずれも許容しつついずれでもないような性質も、明らかに超越者なのにそう見えないようにしているところも、作中ほとんど感情を表情に出さないところも、他のキャラクターと比べると異常であるというか、特異に描かれている。ある意味で一番主人公らしいキャラクターであるともいえる。
(ちなみに映画だとわりに表情豊かというか、例えば西条に「東雲さんを紹介してくれ」とお願いされた時の反応なんかは、実写ならではの絶妙なものだったと思う。西条には伝わらず、視聴者には伝わる苦悶の表情だった。漫画だと回想とか思考中の吹き出しで無表情、次のコマで普通の笑顔で「しょうがないなー」といった表現が多く、より超人的に描かれていたなと思う)

要はストーリー展開上、恋というものの定義を進めているプロセス上では、北代自身も言うように、それは恋ではないのである。
これは映画でも漫画でも同じである。もちろん終盤で「理性も恋の一部だ」という半分結論みたいな主張が登場するが、このあたりで視聴者(読者)は「いや、それ自体ははもうわかってただろ」「結局そんな薄い結論に戻っちゃうのかよ」って感じになってくる。
このプロセス、普通に日々ひとりで哲学していてもよくあるというのが最高である。
悶々と考えた挙句出した結論が「アレ?最初からわかってたことじゃね?」となる、堂々巡りというやつである。

そして、一度一周するというのが思考を進めるうえで極めて重要なことを理解していれば、なるほどここが一つのターニングポイントなのかと考えさせられる。(ストーリー的にも、東雲嬢が吐きながら告白するという超重要シーンであるからして、ここもその通りである)


ということで、青いもの若いものとしての印象を抱かせつつ、堂々巡りしてきた恋の定義は、いよいよ北代のそれではなく、どうやら東雲嬢のそれであることが見えてきた。見えてきたがしかし、重要なのはここからである。選択肢は二つある。(と私は考える。原作を知っていて、映画を見ながらもなお考えていた。映画オリジナルエンドはあるあるだと思っていたが、最後までどちらにころんでもおかしくはなかったと思う)


・この巡った思考を尊重して、その定義に沿う形で恋を成立させるのか
・思考の転換に成功するか


前者は当然東雲嬢エンドである。青くて若いもの。勢いのあるもの。これを恋とするのであれば、北代のそれはあまりにも聡明で、勢いがない。これは恋ではないのだ。
漫画では東雲嬢と付き合い、北代や宿木嬢との距離をとるという結論、その状態で最終話を迎える。
要は付き合ったその後のことは描かれないわけだが、私はこの恋がどの程度長く続くものなのかという点においては描かれなくて然るべきだなと強く感じていた。
それは、恋というものが「それまで」だからだろうなと思ったからである。

「青い」「若い」までを恋とするのであれば、付き合ってしまった後の数か月後、数年後は、もはや恋と表現する領域を超えてくる。どうしたってある程度聡明に、冷静になるし、勢いは衰えてくる。日常の波に飲み込まれ、刺激的ではない。つまりそれは恋ではない。キラキラ光ってはいないのである。
(作中、女子大生ばかりが(たまに女子高生が)キラキラと光るが、社会人は描かれない。カフェや絵の中で光る人はいるけれど年齢は一切定義されない。それはつまりそういうことなのかと考えさせられる)

もしかすると東雲嬢とはすぐに別れてしまうかもしれないし、長く付き合って、生涯のパートナーになるのかもしれない。しかしいずれにしても、恋は終わるのだ。その関係は恋ではない。この青くて若い勢いは、付き合ったことによって一段落を迎えるからである。恋としてはは終わり。物語も終わりである。


一方、映画では、二点目、思考の転換に至った。
映画で、西条は、ストーリーは、恋の定義というものを超越して北代を選択したのだ。

西条は「キラキラ光るもの」をどうやら恋だと解釈した。
これはストーリー展開上、西条の思考の発端の前提である。その中で恋を考え、東雲嬢と出会い、恋をして、光らない東雲嬢にやきもきするストーリーだ。

この前提を抱えながら、北代が光っていなかったので、西条は北代が恋をしていないと解釈していた。
それでも、北代は西条に恋をしていたのである。

ここで登場人物たちは、恋の定義ではなく光の定義に思考を走らせてしまった。盲点である。

よく考えると、北代が西条に恋をしていて、西条から見て光っていないのであれば、それもう前提条件の破綻である。少なくとも西条目線で見れば、北代が恋をしているのに光っていないのであれば、もうそれは光が恋ではないという事態だと言って差し支えないのだ。

なぜなら、西条にとって北代は特別な存在だから。恋人だろうとそうでなかろうと、西条から見た北代は、間違いなく作中で最も大切な人物である。

無論、西条にとっての「光は恋」が主体的なものであったとしても、その大切な存在と一緒に考えてきたその北代が恋をしているのであれば、西条が前提条件を破壊することを選択するのは、それはそれでとても美しい結論だと思う。


加えて、西条は、実は恋というものを経験している。
「(東雲嬢に対して)俺はあの瞬間、恋をしたのだ」と言い切っている以上、西条自身も、定義こそできずとも「恋をした」という経験をしている。
「共感を伴う理解が難しいので」という、恋について暗喩しているかのような印象的なフレーズを思い出されつつ、西条は恋に共感できるようになっているはずである。
つまり自覚できるのだ。恋というものを、明確に。断言できる程度には。

しかし言語化できているわけではない。作中では、恋というものは言語できなければ理解できたとは言えない(なんて誰も言ってないけど西条と東雲嬢は多分そう思っているだろう)。だから、共感を伴う形で理解しているのにもかかわらず、ストーリーは終わらないのである。

この「言語化できない」「しかし共感している」恋という存在との向き合い方は、ひとつ成長のきっかけであった。
すなわち、言語化したい彼らにとって、言語化できずに納得して次へ進むということが極めて難しい。しかし同じように光の見える女子高生からのコメントで北代の思いがバレてしまった結果、西条は何らかの結論を出さなければいけない状況に追い込まれるのである。


思考はほとんど堂々巡りしていて、明快な答えは出せない。言語化は適わず、脳内も整理できない状況で、それでも次のステップに進まなくてはいけない。

その状況で、最も「次のステップ」に近い位置にいるのは北代の存在そのものであった。
先に述べた通り、北代の恋だけが異質である。相対的に青くなく、若くない。北代の異質さはここでも際立つのである。

言語化せずに、つまり自分の得意分野での納得を許されない中で、次のステップに進む必要が生じた。西条は死ぬほど悩むわけだが、最終的に選んだのが北代だったということは、その決断自体がこの「青さ」「若さ」を乗り越えた決断を出したのである。

自分の得意種目なルールでの定義付けである「言語化」を封じられ、視覚的に見えている「光」というものを信用することもできない中での決断は、大学生には極めて酷だったと思う。しかし同時に、この決断が西条を含むすべての登場人物の「成長」を示しているのだなと感じる。
恋を解釈して言語化を試みつつも、その定義の外に出て思考次元をひとつアップデートする様子は、恋を青いもの若いものの象徴として表現しつつ、それを乗り越えるという描写であった。
恋を通じて若者の成長を描いたストーリーとしては、漫画版よりも映画版のほうが理にかなっている感じがする。

最終的に西条が出した結論は「目を閉じて瞼に浮かぶのは北代だった」であるが、これは光が恋であるという定義を完全に放棄している。序盤、東雲嬢が光らないことにウダウダと言って北代に叱られていたシーンから考えると、瞼の裏に浮かんだのが光っていない女性だということに気づいた事実はかなり決定的だったのだろう。
これは、告白後、なお光っていない北代に「もう忘れてくれ」と言っているところからも頷ける。


作品としても、その光の理由を解釈することは主要命題だった。
その作品中で、登場人物たちが自らその命題を放棄して、見つめなおし、恋というものを乗り越えた。

光の美しさは視覚的に見えていて、それは直接的で心地よく、感動すら覚えてしまうような、蠱惑的な魅力を持っている。けれど、その光はただそれだけでもあり、時と場合によっては目障りで、必ずしも必要なものではない。

しかしそれ以上に、つまりその見えている光以上に、そもそも自分の人生を明るく照らしてくれた存在がいたことを再確認した。
北代という存在は、まさに恋そのものだったのである。視覚的な明るさではなかろうと、存在感は圧倒的、ストーリーの上で明らかに異質な存在だったそれ(北代)は、やはり西条の中でも異質で、目を閉じてなお暗闇に浮かぶ光そのものだった。


光は恋ではなかったが、「恋は光」だった。

主要命題を放棄してこその「恋は光」。
主要命題はある意味おおきなミスリードで、「光の正体は何?恋?」くらいだったわけだが、タイトルの「恋は光」それ自体が、実は最初から横たわっていた答えだったのだということである。なんという壮大な(そしてある意味でかわいらしい)結論だろう。

とても美しく、愛らしい。





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(おまけ)

映画のオチは堂々巡りからの脱却、つまり言語化からの脱却であった。
また、「恋」の正体は最初から解答としてタイトルで示されていると私は解釈した。
結局、恋は光であり、言語化は不要で、自分が大切にしたいものを選び取るためのプロセスでしかなかったということを考えたとき、宿木嬢の「自分が恋をしたと思ったらそれがもう恋でしょ?」という、東雲嬢に言わせて「形而上学的なアプローチではなく認識論を用いた解釈」が想起される。

「恋をしたと思ったらそれが恋」が宿木嬢の主張だとして、ストーリーの結論は「恋だと思ったらそれが恋」である(私見)。これはつまり、認識論を用いたアプローチが有効だったということになる。

やはり宿木嬢は天才なのかもしれない。

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