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「限界から始まる」を読んでしまった

上野氏があとがき(にかえて)にて「本書が男の読者に届くとはあまり期待できないけれど」と仰っていたので、男の読者である私がせっかく読むことができたこの本の感想を書こうと思い、いつものように、推敲もそこそこに少し書いてみようと思う。


まず半分冗談で「私はフェミニストではない」と記しておきたい。ジェンダー主義者としての自意識もない。研究者でもなければ物書きでも思想家でもないけれど、漠然と、このnoteのように哲学じみたことを一人で粛々と繰り返していて、内省と思想哲学に対する知識欲みたいなところだけが自慢できるかもしれない程度の人間である。
書中でフェミニスト、ひいてはジェンダー主義者に対するスティグマについて指摘があったためどきりとしたが、私からすると、私の思想が「まだまだ」であり、フェミニストを、ジェンダー主義者を名乗ることができるほどに思想は練られていないし、行動できていない点を強く自覚しているが故の「I'm not a feminist, but...」である。

しかし、なるほど、確かにTwitter等の言語会話が活発なSNSを見る限り、例えば露出の多い(とされる)アニメキャラクターや胸が極端に肥大化しているキャラクターが、公的ないしそれに相当する機関・組織でプロモーションに起用されたケースに対する攻撃とそれに対する批判は、双方やや的外れで会話が成り立っていない部分が散見されると同時に、フェミニズム対するスティグマのほうがやや目立っているような印象を受ける。

(私からすると、上野氏が仰るとおり「不快に思う権利がある」こと、その声が大きければ取下げるべきか否かを起用側が判断できる状況である(=法的に縛られているわけではない)批判であることは間違いがないのだし、鈴木氏が仰るとおり「起用するなら多少の声があったとて起用するくらいの信念があるべきなのでは?」「声がワーワー上がったくらいで簡単に取り下げる判断をして、適当にゴメンナサイすれば逃げられちゃうことが問題であり、なぜそのような事態になったのかを議論する環境が必要なのでは?」である。
無論、広告起用なんかは、サラリーマンとして働いている身として、さらっと承認されてしまったのだろうな、その程度の人間が承認者として働いている会社なんだろうなと透かして見るくらいしかできないのだけれど、仕事にもう少し信念をもって臨めないものなのかなとは気になったりする)


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本全体に抱いた印象は「フェミニズムというものに期待している内容がここにあった」である。

私が自分をフェミニストだと思っていないことの最大の理由は「自信がないから」なのであるが、そもそも「何らかの主義でないと女性が自由に生きられないと思っていることがおかしい」という感覚で、あえてフェミニズムですとすらも言いたくないからというのも近い。研究者であれば「フェミニズムで~」という話をしやすいかもしれないけれど、一般人思想家では宣言しにくいものがある印象である。
これについても書中で「痛みを伴うもの」として(特に女性が女性自ら様々な利を捨てる形で)主張している若い世代が眩しいという会話があったけれど、私はまだ「若い世代」とはいえ、正直もう眩しくて仕方がない。悔しいのだけれど、そこまでの熱意を持つことができていないのだろう。痛みを伴うことは避け、自慢げに風俗通いの話をする配偶者のいる上司にはヘラヘラすることしかできない私がこうなのは、やはり私が男性という安全圏に所属しているからなのだろうかと考えて絶望したりする。(否、絶望することすらできていないのだ。なぜなら、きっと、安全だから)


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思い返せば子供の頃から、性というのは笑いのネタであった。排泄物ネタが面白かった年齢から少しずつ変化して、思春期へ向けて性の象徴的事物(性器等)まで幅広く、例えば男性の股間を握る、蹴ることは痛いながら面白いとか、スカート捲りが許容されるとか(私が子供の頃はなかったけれど、マンガでその表現は頻繁に見た)、形や深さ、重さは様々ながら、性や下ネタは笑いを起こす要素として解釈されてきた。
(そういえばなぜ排泄物ネタも性のネタも「下ネタ」なのだろうか。何故、というか、そうではなく捉えなおすべきだし、呼び方も変えるべきな気がする)

学生時代「男は下ネタを笑いながら話し、女は下ネタを真剣に話す」というのをよく耳にしたけれど、そもそもで男子は性的な要素をカジュアルなものとして捉えていて、女子は真剣なものとして捉えている傾向があるように思う。若いながら勝手な想像で、生理という現象、およびそれに関連する教育内容の差に起因するものではないかと考えていた。
女性はおよそ小学生のうちに男性と隔離された形で何らかの授業を受ける(今どうなのか知らないけれど、私が小学生だった時は、女子だけが体育館に集められて、男子へは内容を明かさずに講習をしていたようだった)。個人差はあれど、体調へ影響する月一回の大量内出血現象を、最初の性にまつわる現象として女性が捉えた頃、男性は校庭を駆け回っていたのだとすると、この男女格差は深刻なものだろうなとずっと思ってきた。


肉体的な性差の話は極めて重要なテーマである。いわゆる性産業の是非、パパ活(シュガー・ダディ)の是非は書中ですら結論は出されていないが、少なくともその構造において男女間の格差が明確に表れているという点は見逃すことができないだろう。浮気や不倫の倫理観がどうとか、そういう次元の話ではないのである(一夫一妻の仕組みがそもそも異常だという議論も出てきているが、複雑化するので割愛する)。
これらは経済的格差を前提とした仕組みである。経済的に男性のほうが強い状態であることに起因しているとしか言えず、仮に性産業は肯定されるべきだと結論を出したとしても、これを残したまま男女平等は絶対に謳えない。
特に、女性が性産業における消費者になるケースが極めて少ないということこそが、この格差の存在をありありと感じさせる。なぜ男性が一方的に消費者であるのか。物心のついたときからの刷り込みなのか(男性は「そういうもの」という判断)、なぜ女性が消費者になることはNGで、男性が消費者になることが「普通」なのか。意味不明であり、端的に申し上げれば不愉快である。

ここで一つカミングアウトをするならば、私は性産業における消費者であるケースが往々にしてある。性風俗店を利用したことはないが、そのような映像を見たこともあるし、そのような雑誌を購入したこともある。これが先に述べた「自分をフェミニストとは思えない」とした明確な理由である。
一点、これは私にとって完全なタブーであり、誰かに口外することはない。例えば自身のパートナーが男性の性的な映像や画像を夜な夜な眺めているのだとしても、私は文句を言う筋合いはない(できれば見えないところでやってほしいという相談はするだろうけれど)。自分が似たようなことをしている以上、何も文句は言えないのだ。
性風俗店に通っている人は、当然逆のこと(=パートナーがそのような店に通っていること)が発覚したとて、文句を言う筋合いはないのだ。こんな簡単なことが分からないのが男性の平均的な価値観であるのだとすると、そりゃ男に絶望するのは当然である。

また、性的な消費なのかそうでないのかというのは、境界が極めてあいまいであるなと思っていて、例えばいわゆるグラビアアイドルの写真集を手に取ったとき、それを性産業として捉えるか、単に美しいと捉えるかは受け手による。提供の仕方(分かりやすく言えば誰向けの雑誌か、写真集なのか、写真の内容、露出の程度等)によってその受け手の割合が変化することは間違いないけれど、アダルトビデオを食事しながら鑑賞するのが趣味だという話を聞いたことがあるし、露出の全くない写真集を性的に捉える人間もいるらしい。

ただ、そのためすべて受け手によるのだ、性産業というものは明確でなくあえて言えば存在せず現状に問題はないのだ、と言いたいのではもちろん無くて。むしろ「性産業に相当するものを根絶することは極めて難しい」ということを言いたい。過激なものが無くなったとて、規制内でのいたちごっこが始まるだけだからである。
さらに、鈴木氏が仰るとおり、性産業の従事者としてしっかり自意識のある各位からすれば、性産業そのもの枠組みを批判されることは不愉快であろう。仕事なので、誇りをもって業務従事している人たちもいるに違いない(書中でも述べられていた)。仮にそれが男女の格差に基づいているのだと思想を改められ、無理やり廃絶したとて、ではその段階でスティグマがゼロになるのかというとそうでもない。

少々散らかってしまった。
書中でも出されなかった「性産業の是非」の結論をここで出すことはできないけれど、そこに現れている男女間格差から目を逸らしてばかりの男性には強い憤りを感じている。感じてきた。

「自分が脱ぎたいから脱いだのだろう」「お金を貰っているんだから」等とほざき、その構造自体に目を向けることのできないような男だらけの世界で、大手を振って「性産業って素敵だよね」とは絶対に言えない。男の倫理観がもう少しまともになってくれなければ、性産業の過激で人の尊厳を壊しかねないような側面を無くすことは到底できないだろうし、この一面だけ見ても、性産業が是非を問われているそもそもの原因が男であることは明白である。


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性産業の話が長くなりすぎてしまった。もう少し本書の感想に戻したい。

ジェンダー・フェミニズムについて考えるときに私が頻繁に引っかかってきたのが「そうはいっても今の”男女格差”みたいな状況を是と捉えている女性も存在するのではないか?」ということであった。
誤解を恐れて早めに補足すると、具体的には「働きたくないが故に専業主婦になりたい」という考えを持っている女性は、一定数、そこそこの信念とともに存在するのではなかろうか?ということである。
まだ誤解が増えそうだ。加えて、抽象的に表現しなおすと「女性を”女性らしく”扱ってほしいと考えている女性」は存在するように感じる。例えば「デートは男性にリードしてほしい」「プロポーズは男性からすべきだ」と考えている女性は多そうだし、女性が「可憐」であること、女性としての美しさ、可愛らしさのようなものを捉えなおしたとき、それが受け身的だったり、付き従うニュアンスが表れていたりすることも往々にしてあるだろう。特に”女性らしさ”というフィールドにおいて長けている人は、その中で生きることが上手であろうし、それもまた能力の一つとして捉えているのではないか?ということである。書中でいうところの「わきまえるのが上手な女」である。
(ちなみに私は、プロフィール欄にも書いているとおり仕事が嫌いだ。厳密には会社が嫌い、決まった事業を他人の裁量の中でしか行えない状況に萎えている。作業や勉強、労働そのものは好きなので家事はかなり好きなので、このギャップは息苦しい)
(若干偏見が入り込んでそうな節になってしまった。気がする。もしかすると、これは男性としての私が苦しんでいる(男性は雄々しくあるべきだと扱われ、女性を女性らしくエスコートしなくてはいけないという視線に苦しみを感じている)のかもしれない)


踏まえて、ジェンダーフリーとは何か?

皆が思うがままにしたいことをして、好きに装い、差別無く各々が各々の性をまっとうすることだと考えてみたとして、女性の社会進出を後押しする組織と、女性が専業主婦として生活したい思いは場合によっては相反するのではないか?
”女性らしく”ありたい、スカートを履きたい、女性らしい身体のラインを活用した魅力的な装いをしたい。その考え方と、女性の社会進出を目指す姿は時にかみ合わないのではないか?
(件の#KuToo運動で「ヒールを強要する」というのが「女性らしくあれ」というメッセージなのだとすると、より仕事のしやすい装いと「女性らしさ」が相反していることになってしまう)


脱線するが、どうしてもこのあたりの会話を進めようとすると、多様性の話とルッキズムの話が割り込んできてしまう。
性産業の件も、男性/女性らしさにおける「装い」の話も、皆好きにすればいいと思うと同時に、分かりやすく優劣が存在し、より美しい(という自意識の高い)人ほど自由に、醜い(という自意識の高い)人ほど不自由に見える。このあたりを上手く切り分けられていないあたりが私の知見の無さを暗に示している気もするけれど、やはり、女性らしさ全振りで美しい魅力的な女性はその魅力をフル活用して社会進出したいし、自分の外見的魅力に自信のない女性は、女性としてではなく一人の人間として、それ以外の部分で社会進出することを望むのではないかと考える。

もちろん男性でも多少同じことが言えるけれど、現状、間違いなく女性の方がルックスを活用しての仕事が多いのは共通認識だろう。デパートの服売り場は女性の方が圧倒的に広く充実しているし、下着は男性は機能面ばかり重視、女性は機能面と同時に見た目がかなり重要(だろう)と思われる。同じ流れでモデル業は女性の方が圧倒的に多いだろうし(男性の読者モデルってほとんど聞いたことがない気がする)、ファッション・外見についての興味関心は、そもそも女性の方が圧倒的に高いのだ。
この派生から性産業の議論に戻せるけれど、戻さずとも、はたして美しい女性・ファッション・外見・化粧というものは、男性のために存在するわけでも、ましてや性産業のために存在するわけでも無く、むしろ女性がこそ消費者として、強い関心を持ち、そう在りたいそうなりたいと願っているのではないだろうかという考えに至る。女性らしさは、女性自身が獲得しようとしているように見受けられる。

ただ、外見は能力差の一つであるのだけれど、外見格差は努力で埋まるものではないため(清潔感+αの努力は別として)、そればかりになってしまうのは不健全である。女性の社会進出を「女性らしさ」として捉えなおした場合に、このあたりの問題が露出してくるような印象があって、本当に人々の平等というものを追求しようとした際、ここの取り扱いは非常に難しい部分だろうなと感じる。
当然男性の中にも存在する問題だが、先に述べた通り男性より女性の方が外見的魅力に対する興味関心が強いことから、男性の社会進出におけるハードルと、女性の社会進出におけるハードルでは、後者の方がルッキズムを引きずりやすいのではなかろうか。


このように、”女性らしさ”を追求したい女性、そしてそのままで社会進出したい女性や、既存の「女性は家庭で」をこそ求める女性。”女性らしさ”というものに縛られず、可能な限りにおいて男性と女性の区別もなく比較され、既存の社会進出における壁を壊していきたい女性。まるで人によってフェミニズムに求めるものが変わっているようだ。一見すると相反しているような意見が、いずれにせよフェミニズムと呼ばれる。いや、なぜか後者ばかりがフェミニズムと呼ばれているようにすら見える。

この稚拙な疑問についても、書中でしっかり指摘されていた。脱帽である。

それにしても。あなたが書くように、フェミ業界の白か黒かの踏み絵はほんとに困ったものです。「売春家業は結構楽しい」と言ったとたんにセックスワーク容認派として認定され、反対に「性を売ることに対する嫌悪感がある」と言えば「一気に敵として認定され」るとは。「嫌悪感がある、だから、楽しい」なんていうこともある、人間は複雑な生きものなのに。
(中略)
人間の歴史には、異端審問と魔女狩りがあふれています。
フェミニズムはそれからまぬがれていると、わたしは思ってきました。なぜならフェミニズムは自己申告概念だからです。(中略)フェミニズムには「党中央」もなく、協会もなく司祭もいない。中心のないムーブメントですから、異端認定をする者もいませんし、除名もありません。それにフェミニズムは問いを入れたら正解がぽろ~んと出てくる政党マシーンではない……そう思ってきました。だからこそ、フェミニズム業界はこれまでも、論争の絶えない活発な言論のアリーナでありつづけてきましたし、これからもそうでしょう。
(一部引用者にて太字化)

改めて、フェミニズムは人によるのだ。

過去どのように取り扱っていたのかは分からないけれど、SNSを中心に多様性を騒いでいる昨今、人にかかる〇〇主義の中で共通了解をくみ上げていくことは容易でないことは自明だと思う。性差によらず、他人の権利を侵害しない範囲での、ああ在りたい誰かの思想を邪魔することはもはや許されない。多様性イコール他人を認めることであり、他人との差異を認識することでもあるから、その分個人主義的な側面があるよなあ、と強く思う。
ああ、他人を認めるということの、どれだけ難しいことか。

フェミニズムも同じである。他人の思想はそれ自体で他人の思想として受け取り、よく理解しようとする。それが相反するものだったとしても、他人の権利を侵害しないのであれば、それは思想であり、主義である。女性の権利獲得、社会的に解放されようとする思想をフェミニズムと呼ぶのであれば、その範囲が多岐に渡ることは分かるだろう。
フェミニズムという広い枠の中でも、多様性を認める思想は個人主義を生み出し、その枠組みの中で個人主義が形成される。在りたい姿は異なれど、主義の枠が同じだったというだけだ。

俄然、フェミニストの自覚が芽生えてきた箇所であった。


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もう一点。

特にフェミニズムとは(思考のレベルが)異なるのだけれど、私は某森氏発言や、信じられない中年男性のセクハラパワハラ発言を聞くたびに、国内の物心ついた男性は全員死ぬしかないんじゃないかと考えていた。それくらいでなければ、現状の男性優位(思想)社会を正すことはできないんじゃないかと思ってのことである。つまり、既に思想の凝り固まった思考をしない男性たちは、もはや手遅れだと思っていた。馬鹿は死ぬまで治らない、である。
私自身、もしかして死ぬしかないのだろうかと思ったことが何度かある。フェミニストを名乗るに値しない自意識は、幼いころから一切の家事をやれない父親と、来客時に茶を淹れる役を最年少である私でなく姉にやらせた母親の中で育った私に植え付けられたもので、この異様さに気づくまでの間、これが当然だと思い込んでいたし、今でもその刷り込みに準じた行動をとっていることに、5分後に気づいて自己嫌悪を抱いたりすることがある。

もちろん、幸運なことにこの本と出会うことができたし、そもそも僭越ながら一般人素人成人男性の価値観でこの本をスルスルと実感を伴う形で読み進めることができる程度の倫理観を持ち合わせている人間はそう多くないだろうとも思う。加えて、この本を初めてとする本との出会いや、ずっと継続する思想は、亀の歩みではあるものの、少しずつ進歩して、倫理観を高めてくれている。(ここまで自身を成長させてくれた家族や友人、特に高校時代の友人たちには頭が上がらない。本当にひたすら運の良い人生を歩んでいるなと思う)
しかし、その倫理観にそぐわない感覚が湧き上がってくることが全くないかというと、そんなこともない。完璧には程遠い(完璧なんてものは無いかもしれないけれど)。惑い続ける日々である。男性らしさを自分の内側に見たとき、相対的に女性に女性らしさを求めているのか?と自問自答して苦しむこともよくある。頭で分かってなんとやら、である。そもそも性産業の消費者であるお前が何を言ったところで、という声が内側から聞こえてくる。捉えようによってはダブスタである。言われても反論できないかもしれない。


しかし、書中で「人間の卑劣さや嗜虐性をなくすことは不可能でしょう。でも社会のタテマエは変わっているのです」「そして私は社会変革とは、ホンネの変化ではなく、タテマエの変化だと考えています。そして、そこまでが限界だと考えています」と語られたとおりなのかもしれないと感じ、胸に深く深く突き刺さった。そして上記は上野氏の言葉だけれど、この言葉を引き出した鈴木氏の「タテマエだけ変えて終わった気になってんじゃねえよ」というニュアンスの指摘は、まさに私自身を殴り続けていた悩みでもあった。

個人的には、これを経ても悩みは尽きることなく、やはり変わっていかなければならない、変わらないにしても考え続けていかなければならないことはたくさんあるなといった感想を持った。だが、少なくともこの「タテマエの変化という限界」を出発点にして、ではどうするのか?と考えていくことが、男女間に限らず、すべての平等を、差別感情の撲滅を思案することのカギなのではないかと改めて考えさせられた。

(まさに「限界から始まる」である。なんというタイトル回収だろうか)


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書きたいことをつらつらと書いていたら、引用含めて9000字を超えてしまった。恥ずかしい。読みづらくて大変恐縮である。
感想文というよりは、内容を足がかりにして思っていたことを書いただけになったけれど、それをさせてくれるという意味でも大変に魅力的な本だった。この本が無ければ私はこんな風に、まるでフェミニストみたいに何かを語ることは無かっただろう。それくらい、確かにフェミニズムは複雑化していて、入口も出口もよく分からず、これがフェミニズムなのか、アンチフェミニズムみたいなことを書いてしまっていないか、と不安にさせられてきたのだ。ジェンダーの問題を語ろうとすると、途端に自信を無くしてしまっていたのだけれど、この本のおかげて、noteに書くことができるくらいの自信は獲得することができた。


途中、何度か読むのを止めたりもしつつ(色々と赤裸々に書かれるので男性に絶望しかけたり、𠮟られる様を見ては共感性羞恥で読めなかったりした)、難易度的な意味では非常に読みやすく、分かりやすかった。
女性はぜひご自身と社会とのつながり方を見直すのに読んでほしいし、男性は自分および男性という存在が引き起こしている様々な問題を丁寧に指摘されている本なので、当然読むべき教科書みたいなものである。読めるのであれば。いや、読めないのであればこそ、読んで、咀嚼してみていただきたい。(50代以上の男性でこれを理解しながらスルスル読める人がもし存在するならば、ぜひ感想をお聞きしたい)


冒頭「私はフェミニストではない」と書いた。未だ名乗るほど自信は無いけれど、これがフェミニズムみたいなものだろうなと自覚できるほどの脳内整理を進めることができたのは大きな収穫だった。


なにせフェミニズムですら人の数だけ様々である。
私は私の主義で、引き続き思考を続けていきたい。

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