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2024/05/09~2024/06/07

2024年5月9日 自分の在する環境とのギャップはそのまま羨望の形をしたまなざしになる。要は高望みの“高”の設定はそいつの価値観・環境(とこれに対する他者からの応答・会話の連なり)によって定義されるということである。何を充分とするか、何に満足するか、どうやって自分を許すかという軸はある程度自覚できていた方が健康的であると思う。 自分の状況、つまりギャップの下限が覆らないときー人生の問題はそう簡単に解消されないー有効になるのは主に赦しであるとも思う。 自分のアカンところを認めて

    • 判断の考察

      ここ数ヶ月考えていた自己肯定、自己評価、価値判断について、ようやく理解がまとまったので記録した。GW讃歌である。 環境の変化に心身がついてこなかったのか、メンタルの不調を超えて、全うな価値判断すら怪しくなっていたのが1月あたりからの自認であった。その点、下記の考察は過去数回分の陰鬱めいた日記へのアンサー足り得るものであると評価している。これは“やはり”望ましいことである。 〈判断の考察〉 ラカン的に考えるのであれば、事物に対する感情が善悪の判断を伴って無意識に蓄積される

      • Var-2,024/1/4

        〈2023-12-03-1〉 『哲学の先生と人生の話をしよう』/國分功一郎、別の著書を買った勢いで手元に置いたものの手付かずだったが良い(と感じられる)折に読了。 悪い搾取はしないように心がけるし、なので、良き関係のために良い搾取をされたい。 〈2023-12-03-2〉 ここ数年で”誠実さ“について沢山考えることができたけど、都度自分の正義感から生きづらさを感じてしまったのも事実である 〈2023-12-05〉 曖昧さ、抽象性、無責任みたいな“ちゃんとしていない”事物に

        • Var-2,023/07~10

          7月(1) ここ1年ほどは服薬である程度コントロールできていたのだが、勤務時間内に目眩だの吐き気がきてしまい思わずダウン。退勤即気絶みたいなことは滅多にしないはずが今日ばかりは目が覚めると22時で、おまけに前後の記憶も曖昧で、相当きていたようである。 そもそも春夏は気候に連動して、体感温度が相対的に上がり続ける。「ちょい暑い」が続くことが交感神経と相性最悪なのは生まれてからずっとそのはずだが、社会人にもなると動けない時間に産まれる損失もあるためこれは考えものである。 7月(

        2024/05/09~2024/06/07

          書記 

          3月 労働運動では賃上げと共に余暇の要求を行われることがしばしばあったが、余暇を与えられたとしてそれを謳歌できる自信もない。 休日とて寝れるだけ寝て、しかし満たされず、何が不満なのかもわからず、しかし満たされていないということだけが確かに判る中で、次の勤務日を呪ってしまう。当然労働の最中は消耗戦であり、一刻も早く逃れたく、しかし避け難いものではあるが、もし逃れたとしてその先に何があるのかが今一つわからずじまいである。 曖昧に少しずつ苦しみながら、溺死に向かっているような感覚

          書記 

          221125

          以下全て殴り書き 11月上旬 「没頭できること」は社会人になるとかなり重宝される。 ただ没頭しにいくのではなく、日常から没頭にある、そんな状態が一番望ましい。 絵を描いているが、絵を描いていない時間は絵のことは考えない。なにを振り切ってでも絵を描くたいとは思わない。 一番没頭できるのはガキの頃から思考や妄想の類である。成長とともに思考の対象は移り変わりはするものの、ここ数年は“心地よさ”、特にここ数年は“苦痛の懐柔”が一番のテーマである。いくら考えようが自身の苦痛が取り除か

          221009

          社会人になったらそのうち”こう”なるんだろうなと思っていたフェーズに突入。テストも受験も就活もない。この先の暮らしに意義はないのでは?「あとは任意やで」と放り投げられた感覚さえする。学生の頃は解放されたいなどと望んでいたはずなのに… 飯も趣味も一過性で刹那的、なぜなら生存と脳汁以外に特になにもないので。悲しいね。 一人暮らしもそれなりに長く、「望まなければ他人と関わることもない」という具合の生活。風呂入れだの、はよ起きろだの、宿題しろだの言ってくれる人がいないということは、他

          220828

          久しぶりに定時で上がれた。連日22時くらいまで働いていたので、なんだか「特別な日感」じゃあないか!と思ったが一瞬で気を取り戻し無事鳥肌がたった。 久しぶりに絵を描いたりして過ごそうかなと思ったが、明日は資格試験がある。勉強するのもまあアリ。これが罠である。 明日は〇〇がある、というイベントはこの調子だと週3くらいで発生しそうな気配すらある。私が会社に売ったのは所定の労働時間であって、サブスクリプション契約をしたわけではない。ましてやその精神性など… 絵を描く上で「一瞬主義」

          220816

          自分に罪はないと念じるのは簡単だが、自分には罪があると思うのは困難で、罪を償って暮らすというのはさらに途方もない。 困難が妥協の理由になることは明白だが、困難を妥協の理由にしないことは理不尽を受け入れるのと同義かもしれない。 じゃあ、この世に理不尽がないかと言えばそうではなく、親ガチャだの上級国民だの学歴フィルターとか言ってるそばに、必ず視界のどこかしらには映り込んでいる。見えたからと言って自認するかは当人のオプショナルではあるが、理不尽への盲目は暴力、愚者、罪などなど、諸々

          220728

          7月上旬 にじさんじ所属Vtuber 黛灰が引退を発表。他ならぬ最推し。 活動の推移や事務所の経営方針を見るに、なんとなくそんな雰囲気はしていたが、いざとなると覚悟が足りていなかったことがわかる。推しの友人ライバーが引退する場面は今まで何度かあったが、推し本人の引退は初めてのことで、どうしても動揺、悲壮感が隠しきれない。 Vtuberは引退すると存在そのものが消える。パーソナリティも、声帯も、ユーモアも、全てが事務所の権益、著作物となり回収される。しょうがないことではあるが、

          220425

          220425 爺さんが死んだ。 遺品で立派な財布をもらった。 まだ身の丈に合わない。 社会人になった。 面倒だけど案外やれている。 ジャケットを羽織ってみるけど、八重洲の街からはまだ浮いている気がする。 ADHDの治療を始めた。 日に日に脳の熱が抑えられていく感覚がある。 毎日見える景色が変わっていく。 明日天地がひっくり返ったとしても疑えない。 あまりに解像度が高い。 普通の人が見ている世界が"これ"なのかわからない。 死角にこんな景色があったと

          220325

          220325  買い被られることが多くて困惑する。曰く、土台造り?プラットフォーム造り?みたいなことに長けているらしい。「お前が考える事業なら???万出せる」と言われた。おれを事業家にでもさせるつもりなのか。仮に事業を作ったとして、それを自分のものにしたいという欲は全くないし、なんならアイデアだけ提供してあとは好きにしてもらったほうが気が楽だとは思う。もっというなら、アイデアの是非についてワイワイ論じ合うことそのものにしか価値は感じない。しかも、おれは骨組みが得意なだけであ

          220310

          220310  去年の今頃は「今よりしんどい経験はもうないやろガハハ」などと調子に乗っていたが、ゆうに超えてくるあたり時間の経過を感じる。1年あれば人間なんて全くの別人になれてしまう。良くも悪くも。「人って変わるからね」と言った友人の言葉をしみじみと噛み締められるのはそれなりに快方に向かっているからかもしれない。  いざ退職したものの、特にすることがないという状況に不満あり。思っていた以上に人は規範に生かされている。実家暮らしで学校に通っていた時なんてモロにその恩恵を預か

          220202-220307

          わざわざコンテンツとして垂れ流すようなものではないな、と日記を更新せずに暮らしていた。のらりくらりと時間が過ぎていて、それなりの人生イベントに顔を覗かせるだけだった。書き起こそうと、そうでなかろうと、無情でかつ、平等に。  なんとは言わんが、必要以上に接続しても、社会現象だったり、他人の感情だったりに煽られるだけで、しんどくなってしまうだけな気がする。知る必要もないものを知りすぎる必要はない、多分。望遠鏡は覗ける時に覗けるくらいがちょうどいい。  一方で、飽和を避けるため、と

          220202-220307

          220705

          5月上旬 爺さんの四十九日も兼ねて帰省。散々母に言われた「祈る」というのも意味がわかり始める。葬儀は死者のためのものではなく、祈りもまた残されたものへの用意である。感覚的にいうのであれば、祈りは実在性への認知の機会を与える。死者への想いを数秒留める間は、少なくとも、今ここにある。そういった作法といえば良いか、システムというべきか、まあなんでもいいが、親族の死がきっかけでここまで学び得る事物があるものなのかと関心する次第。もはや遠い昔のように感じてしまうが、盆の墓参りで、おれ(

          211104

          毎月月末に日記を書いているのに気づいたらもう11月。 別に決まり事などではないのでどうでもいいけど、ある程度自分に対して厳格であるという姿勢は必要だとは思う。 昨日からSSRI治療を開始して、再発した持病に向き合い始めた。正直副作用が洒落にならんのでしばらくは絵は描けないだろうし、生活をちゃんとできるかどうかのラインだろうと思う。それでも多少は努力をするつもりだし、今回の治療でケリをつけたいという決意もある。ある種の自己実現に対する厳格さなのかもしれない。そうであって欲しい