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221009

社会人になったらそのうち”こう”なるんだろうなと思っていたフェーズに突入。テストも受験も就活もない。この先の暮らしに意義はないのでは?「あとは任意やで」と放り投げられた感覚さえする。学生の頃は解放されたいなどと望んでいたはずなのに…
飯も趣味も一過性で刹那的、なぜなら生存と脳汁以外に特になにもないので。悲しいね。
一人暮らしもそれなりに長く、「望まなければ他人と関わることもない」という具合の生活。風呂入れだの、はよ起きろだの、宿題しろだの言ってくれる人がいないということは、他人のリズムが生活に存在せず、加えて、自分が発しているリズムすら自認できないという状態である。狂気は一人の部屋に宿るが、それを確認できる者は一人もいない。

物事を動かすのにはエネルギーが要るが、大きなエネルギーよりも、絶え間なくシナージズムを産むエネルギーの流れそのものの方が価値を持つ。なんなら小さくても構わない。
病だの社会的不自由だの人間関係だの、最大出力をもってしても小さなエネルギーを出すにしか至らない者もまあごまんとおり、彼らが目を眩ます「大きな力」は大したものではないということが言いたい。大きなエネルギーには大きな損失、ならば矮小だろうとその平衡を保つ方が建設的である。デケエ畑の前にまずはてめえの持つ範囲の畑をぬくぬく耕していこうの訳。

畑がないならまず耕そう。耕したところで雨は降るし雑草も生える。だから維持しよう。いい畑になったら種を植えよう。
なんの種を植えるのか、なにを採るのか決めるときに、ようやく人らしさ、意志の介入が生じる。まずは生存をやろう。そのあとに自由意志をやろう。どのフェーズにいても鴉は来るから、継続的にうまくやる流れを作ろう。畑が腐ったらゲームオーバー。死である。
結局のところ、上振れたり下振れたりして調和を保つこと以外やることない。

『美味しいご飯が食べられますように』読了。どう生きていようが飯は食うが、それはそうとしんどいこともある。社会という枠の中におけるそういうものの信仰がしんどい人もいる、みたいな内容。否定したいことをしっかり否定していてよかった。自分にとっての否定の尺度はどこにあるだろうかと考えたりした。
何かを嫌いになること自体そんなにないけど「ちゃんとやらない」とか要は日常的な不満の琴線は確かに嫌いにならざるを得ないラインだなと思う。
その対極「ちゃんとしてる人」?とかが肯定できるラインだなとも考えることはできるけど、そういう人はマジで少ない。この本はちゃんと否定して、肯定もしてくれたな〜と安堵した。こういう作品に触れる機会は増やせていけたら嬉しい。
ちゃんとしている像を求める一方で、自身はというと致命的にちゃんとしていない。やることと認知すればちゃんとやるが、それ以外は本当に煩雑極まりない。
部分的に散らかった部屋を見ると、考えない(どうでもいい程度の)ことは最初から世界には存在しないのではと錯覚するほど無関心である。シュレディンガーの自意識。
一方で、「ここは散らかってると嫌だな〜」目に着く場所も普通にあり、不満をベースにした行動も結構あるよなと思う。
道楽であったり、好んでやっている苦でもないようなことはさておき、不満に思ったことを解決に至るまで行動し切るのはハードで、この辺は持病が結構悪さをしている。

任意で進められる人生のあれこれを、みんな意外にやっている。結婚だとか、出世だとか、なんやらなんやら。絵を描いたり、手間かけて珈琲淹れたり、本を読んだり、こういうのも任意のあれこれではあるが、利回り軸で考えると…いや、こういうこと考えるのも無粋か……
まだ自分にはやれそうにないな、と思う一方で「じゃあいつになったらやれそうですか?」と心の中の上司がガン詰めすると、どうしようもなく情けない声が出てしまう。もうどこにも規定値はない。
一回社会からフェードアウトした身としては、今更何を真人間ぶってんすかと言えなくもないがこの先云十年と死に際(に関する厄介ごと)のことを考えると、最も優れたオプションの一つのように感じてしまう。個人的な課題の堂々巡りをしていたら、対外的な指標もないまま何年でも経ってしまいそうな気がしなくもない。


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