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220828

久しぶりに定時で上がれた。連日22時くらいまで働いていたので、なんだか「特別な日感」じゃあないか!と思ったが一瞬で気を取り戻し無事鳥肌がたった。
久しぶりに絵を描いたりして過ごそうかなと思ったが、明日は資格試験がある。勉強するのもまあアリ。これが罠である。
明日は〇〇がある、というイベントはこの調子だと週3くらいで発生しそうな気配すらある。私が会社に売ったのは所定の労働時間であって、サブスクリプション契約をしたわけではない。ましてやその精神性など…


絵を描く上で「一瞬主義」みたいなのを考えてしまうが、おまえのおれの一瞬がどうと言うことではなく、誰にでもどこにでも一瞬はある、というのが精神性の説明として一番腹落ちする。切り取って選び抜いて、それを起こす力があってようやく線になる感覚。
誇張どころか、どれだけ善処しようが模倣できないほど世界は複雑で、そこから自分なりに線を選び出す行為と、そこに付随する画力に対する不断の努力みたいなものは、絵柄やテーマに差があれど確かに存在すると感じる。要は現実から目を逸らした者に線はついてこない的な信仰。
肉欲の昇華にイラストを扱う事例は毎日目にするし、そういうのが伸びる。単に自分の性的指向とのズレの話なのかもしれないが、その歪さで誰かが傷ついてしまいませんように...みたいなことはたまに考える。少なくとも加担はしたくないし、言ってしまえばこちらの勝手で好きに絵を描いているだけという自覚は捨てたくない。ましてや承認欲求にまでつけ込まれた最悪の消費(加害)カルチャーは望めるならばないほうがいいよなと思う。
イラストレーター上げ風潮の一部に「フィクションによる歪んだ描写、欲望、構図」みたいなものが含まれているとは感じているが、これはご都合主義よろしくなろう系の源泉から湧いて出てきたものだろうか。あるいはこういうことは考えない方がいいのだろうか。



「そのうちでけえ企業で穏やかに保護されてえんすよね」と言うと驚いたような顔をされる。ベンチャー企業にくるやつは何かしらの野心や希望を持っている、みたいな共通認識を否定する訳ではないが、欲を持てる人間というのは大層ご立派な人生でも送ってきたのかもしれない。知らんけど。


就活期に倒れて闘病生活。なんとか持ち直し、就活浪人になって週5フルタイムの有機インターンをしながら、1日2時間ほど面接のために席を外す、みたいな生活を1年ほど続けていた。付き合い方の落とし所を見つけただけで病気自体は治ってはいない。仕送りも止まったので時給制の社員には1時間の業務離脱も痛手。身体のキャパもすっかり雑魚になってしまったので、Webテストだったり、対面の面接だとかは選択肢に加えられなかった。選考が手短で、給与待遇が良く。受かりそうな会社を探した結果弊社みたいな半端なベンチャーだっただけの話である。
周りの人間の人生への勢いたるや、原油を飲んでいるかのような詰まる不快感はあるし、ましてやそこに迎合できるような体力も気力もない。借金を返して、メンタルクリニックに通って、消耗しないように仕事をするしかおれにできることはない。
煙草はずっとやめられていない。

小説や映画を見ていると、やたら男女の話が多くて驚く。この春からそれなりに人気の多い街に越してきたが、手を繋いで歩いている人々もしばしば目にする。すごいことだ。それぞれの生活の成果物なのだろうか…
世の中の人、みんなそんなに充実しているのかと思う一方で、そうでなければ繁殖は続いていないぜ!とセルフツッコミ。
もし成果物とかではなく、生活の地続きにそういうものがあるのだとしたら、自分の生活とはあまりにも乖離が生じている。生活の成果には次の生活があって、種火を途絶えさせないことが最大の成果だとすら思えてしまう。大袈裟にいうと明日の飯が食えるように、ちゃんと生きれるように。
後日、「明日の平穏を望めないやつに人に触れる資格はない」という旨の話を旧友にすると「じゃあいつ平穏が得られるの?」と言われて黙り込んでしまった。

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