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220705

5月上旬
爺さんの四十九日も兼ねて帰省。散々母に言われた「祈る」というのも意味がわかり始める。葬儀は死者のためのものではなく、祈りもまた残されたものへの用意である。感覚的にいうのであれば、祈りは実在性への認知の機会を与える。死者への想いを数秒留める間は、少なくとも、今ここにある。そういった作法といえば良いか、システムというべきか、まあなんでもいいが、親族の死がきっかけでここまで学び得る事物があるものなのかと関心する次第。もはや遠い昔のように感じてしまうが、盆の墓参りで、おれ(とその親族)はどんな顔をするのだろうか。

5月中旬
ストラテラへの適合生活。ADHDへの処方薬として服用しているが、副作用でめまいが出る。めまいがでるとパニック症状も併発する。抗不安薬で調整をしながら、極力外出しない方向で人事にも話を通してもらった。副作用の期間はおよそ2週間。増量は計3回。6月中には治療上の山場は越える。凪に至ることを祈るのみ。例えば、起きがけに一杯の珈琲と煙草で深呼吸をするように。

5月下旬
カメラを買った。デッサンは被写体、カメラは絵作り、みたいな趣旨で購入したsigma dp2 quattro。じゃじゃ馬だとか悪評名高かったが、一目惚れのような引力に逆らえなかった。結果、後悔はおろか、画に関する知見が驚くほど貯まる。ものの数日で。この先、毎日カメラを構えた先に、自分の脳はどんなイラストを想像してくれるのか...

〈カメラに関するメモ〉
自分の目が別物になる気がしている
画を作るために記録するのか、記録に値するのものを画に起こすのか、みたいなことはどうしても考えてしまう
画に対して、F値/シャッタースピード/ISOを設定する

6月上旬
効率的に生きるのも程々になんて考え始めたのが3年前パニック障害発症のタイミングのはずで、一時期は山に篭って隠居生活までしてみたものだが、気の張り方、というか物事をうまく進めるメソッドみたいな物は完全に忘れてしまっていた。会社指示での資格取得に際して「頑張る」を久しぶりに、見ようみまねでやった。やったものの、やはり規則なき行動に結果など伴わず、敢えなく不合格。人柱だの言われていた同期は受かっていた。やたらメンタルにきた。

〈追記〉
平均60点を出力し続けると社会では大いに評価されるが、たまに85点あたりに照準を合わせられる奴がいる。
この時に「キャリアプランが__」などと喚いていたが、明らかに穏やかさを欠いている。親族の死より落ち込む不合格があってたまるか。

6月中旬
安部公房『他人の顔』を読破。1月の誕生日に親友にもらった本である。引っ越しだの、退職だの、入社だので本当に少しずつ読み進めているうちに先方も新社会人。忙しくなって連絡もしばらく取らないでいた。
『他人の顔』風に言えば通路の喪失。コミュニケーションのハブでかつ、評価対象でもある「素顔」(主人公は素顔を失っているが)をおれは頑なに隠していたことになる。人に会える水準まで程度を持ち直そうと必死だったように思える期間だったように思える。劣化する身体に副作用を与え、新人研修は倍速で進めて、気が付いたら3ヶ月が経つ間に身体が先にエラーを吐いてしまった(おれの場合なぜか全く気分障害を持たないので全部身体にツケが回る)。30分に5回「期待しています」と囁く上司、「順調にADHDを克服できています」と増薬を促す医師。
まんまと乗せられたのか、穏やか(マイナスがゼロになる程度)で充分だと自覚していたはずの人間が、あろうことか利欲を丸出し、プレッシャーに残業/副作用にパニック障害の悪化と考えうる最悪のケースに到着。止まるに止まれない社会人生活の渦中、どう軌道修正するべきか.........
ちなみに資格は2回目の受験で受かった。

「これはあかん。明日は仕事を休んで温泉でも行くかあ〜」と思い立った晩に、そういえば!と久しぶりに日記を書いてみた。副作用の方は概ね対応可能、週明けには上層部にメンター指導の方針変更について打診をする。
なんだか怒涛の春ですね、と他人事に言ってみるが、春には別れも出会いもなんでもある。来年の春はもっと穏やかに過ごせていたら嬉しい。

〈以下『他人の顔』メモ〉
素顔(寛解-社会的な正常)を求めて、イラストを描き、過労をし、散財をした。
どんな素顔であろうとも、対話を望む姿勢と、素顔を認める姿勢があれば仮面であっても他人とは繋がれる。
精神疾患発現した自分を素顔とは認められず、穏やかさの獲得を素顔らしさと定義してしまっていた。
素顔(精神疾患)への評価を恐れて、他人との対話の道を塞いでしまっていた。
精神疾患のある時の自分と、凪の中にある自分のどちらが素顔なのかはまだ定かではない(しかし、自認があればどんな素顔でも対話は可能-相手への不誠実)。
精神疾患そのものが不具合なのではなく、健常性への渇望が欲を通して、自我そのものを歪ませる。

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