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220816

自分に罪はないと念じるのは簡単だが、自分には罪があると思うのは困難で、罪を償って暮らすというのはさらに途方もない。
困難が妥協の理由になることは明白だが、困難を妥協の理由にしないことは理不尽を受け入れるのと同義かもしれない。
じゃあ、この世に理不尽がないかと言えばそうではなく、親ガチャだの上級国民だの学歴フィルターとか言ってるそばに、必ず視界のどこかしらには映り込んでいる。見えたからと言って自認するかは当人のオプショナルではあるが、理不尽への盲目は暴力、愚者、罪などなど、諸々の(愚かさの)容認に一目散に接続する。
自分の落とし前はつけたが罪を償えたとは思えないし、思ってはいけない。傷をつけた人は今日も傷を治したという過去を携えながら暮らしている(もしかしたらまだ痛んでいるかも)。鯨を食べたから罪なのか、人を無責任に傷つけたから罪なのか、国債をたんまり抱える国で生きているから罪なのか。
結局は当人の当たり判定の範疇を出ず、自分の自認すべき罪だったり、自我だったり、関係性に自覚的である以外に誠実である方法はない。どちらかと言うと、可能かどうかではなく、必要性や責務に追われているかが問題である。例えば、やれない=やらないを放置するとゴミ屋敷が生成されるように。
倫理に盲目であり、他人にも自分にも盲目であり罪にも盲目であるなら、罪という言葉では説明のつかないほどの愚かさを背負っていることになる。それを見た時に、仏は本当に念仏を与えてくれるのだろうか。YouTubeで時間を浪費しながら、怠惰で満ち溢れる部屋に愚者思う。

八王子山籠り生活が終わり半年が経とうとしているが、一向に人に会う気配も(気力も)ない。強いて言えば土曜の昼に喫茶店に本と煙草を持ち込んで店長のおっちゃんとダラダラ話すくらいで、それ以外の社会的接触はない。いつまで経ってもDiscordサーバーを右往左往し、作業通話募集などと呟き続けているのはここに起因する。情けないことに対面で人と会った際に、コミュニケーションの速度感に心が追いつかない。この勢いで自分とあなたの関係が突き進んでしまうのか、と思うと火花が散るほどの摩擦で擦り切れるように感じ、疲弊をしてしまう。なので人には能動的に接触していない。せいぜい自室の椅子に座って、作業ついでにDiscordサーバーで顔もわからず、関係が進むこともない人たちと話すくらいしかできることがない。
が、結局のところインターネットの回線を彷徨うだけで友好な社会関係が築けるかといえばそんなことはなく、どこまでいっても孤独の蛆虫でいるような感覚がある。
経験というか、戒めと呼ぶべきか、棘のある状態で人と触れ合うことは望ましくないと思っていて、たとえそれが先方の好意であったとしても自分の抱える課題の解決には接続しない(し、なんなら好意を持ってくれた相手だからこそ、無自覚の毒針でブッ刺すような無責任な真似はしたくない、ましてやその動機が私欲であるなんて)。そのまんまヤマアラシのジレンマの引用になっているが、針持ちを前提に他人の領域にズカズカと入り込むよりは、セコセコと自分の部屋で針をヤスリで削り続ける方がよほど善意的、という具合になる。

なぜ人は、なんや倫理が、最上川。利他の勉強を半年前ほどにしていたこともあり、一方で社会を見ても殊更に倫理を試されるようなスキームにあるようにも思う。
事あるごとに「自分がバカであるわけを話せるやつと、自分が天才であるわけを話せないやつの優劣の話」を唱えているが、要は自認の話であり、良しも悪しも認めてなんぼの社会ではなかろうか、という事である。じゃなければ法治国家は産まれんだろうとも思う(訳:やらかしなど等言動を認めないという姿勢がOKなら法も秩序も要らんやん)。
宗教が違うからね〜というのは簡単。差異を認知できただけじゃパレスチナ問題は起こり得ない。悪人の国で選挙なんてしたらどうなる?悪人であることの否定を失った(善的であることへの不断の努力)社会を愚者の営みだと呼ぶからこそ史学に価値が置かれたのでは?

他人の悩みはともかく、まずはどうしたら"穏やか"なスキームに潜り込めるか、もしくは生産できるかは考え続けているし、叶わずとも取り組みたい。性善説ガンギマリでウケてしまうが、そういった個々人の試みこそが愛すべき民主主義の麓に座していたはずである。

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