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2024/05/09~2024/06/07

2024年5月9日
自分の在する環境とのギャップはそのまま羨望の形をしたまなざしになる。要は高望みの“高”の設定はそいつの価値観・環境(とこれに対する他者からの応答・会話の連なり)によって定義されるということである。何を充分とするか、何に満足するか、どうやって自分を許すかという軸はある程度自覚できていた方が健康的であると思う。
自分の状況、つまりギャップの下限が覆らないときー人生の問題はそう簡単に解消されないー有効になるのは主に赦しであるとも思う。
自分のアカンところを認めて、潔く環境の程度を下方修正する、もしくは他者からの承認を得ることが有効である。
まなざしの行先に他者や社会、世間体が含まれている場合、「他者との社会的な営みを望むも縮まらないギャップに苦しむ人」が観察されよう。
結局のところ、高望みであると自覚した上で諦めることを選ぶか、高望みをしていることとリスペクタビリティの欠如を申告したうえで「まなざしの先にいる他者」から了解を得るしかない。およそ前者の方が簡単だが、応答のないひきこもり精神はひどく偏屈なものになり、後者においてはダメージを了承したうえで対話を望むものであるから(既に満身創痍だったならなおさら)ハードな道である。
前者は孤独を推進し、取り返しのつかない孤立した価値観の白を作り上げるため、後者を選択できる時は積極的に臨んだほうがいい。「助けてとは言わないが、話を聞いて欲しい」と言えるうちに。


2024年5月16日
欲と社交

〈欲の特徴〉
望み、願い、目標に合わせて欲が出力され、欲に対する結果の是非によって判断基準が定められ、嬉しいとか悲しいのような感情としてアウトプットされる。(その感情をもとに価値観-望み・欲・感情-の再構築が行われる)
ラカン/ルーマンを参照

〈自身の欲〉
話を聞いてくれる人がほしい
└話のテーマ(小難しいことを考えがち)や結論の付け方(適切な判断)を求めるため、「話が合う」人が少ない

〈話が会う人と理性〉
トラウマによる欲優位な言動への嫌悪
└自己の欲も嫌悪対象
└適切でない価値判断による不幸は耐えられない(トラウマ)
└適切でない価値判断を下すコミュニケーションへの嫌悪

〈話と機会〉
誘われない人
└いわゆる社交的なワイワイが苦手
└1:1の密なコミュニケーションに辿りつきがち
└多数向けのコミュニケーション手法ではない(そう思われている?)ため、大人数のコミュニティに誘われない

└誘われたいコミュニケーション
└価値判断と有意性を保った1:1or多数のコミュニケーション

2024年5月19日
まず、あくまでも善意の向く範囲の話という前置きがある。
「頑張らなくていい」「そういうことだってある」と許し続けると、いざという時に自分も他人も助けられない。「それでもいい」と了解しなければ許しは生まれない。
しかし、生きている当のフィールドは社会である。生きるための金をもらうのも、孤独にならないように人と関わるのも、社会通念に許されている間のみの話である。
社会通念に許されなくなった人を「私は味方である」というステートメントとともに許すことは、社会的生存からの離脱を意味すると捉えることができる。
許してくれる人がいなくなるまで許され続けた人は、いざ社会に対面しようとしたとき、取り返しのつかないマイノリティが根を張る。責任、自由、「それでも許してあげますよ」という恩赦は資本主義の上ではそう簡単ではない。

「次にまた許してくれる人を見つければ良い」と思えるのならば、他者を無責任に消費していると考える方が容易である。
なにかしらの贈与(愛情でも金でも)の対価として許しを他者から受け取り、ステークホルダーたらしめることができるのであれば、自身の加害性に対して有り余るほどの注意が必要である。
嫌がりそうだから、大丈夫そうだからと言って許して放任するのは、そいつが社会にいる以上よほど暴力的なことであるとも感じられる。

2024年5月19日
もうしばらく人から話を振られることがない。
これまでの引きこもり的な排他によって、都合のいい価値観、楽なコミュニケーションに縋り続けたことによる生成物だと感じる。「そろそろ人と関わろう」と意気込んでみたところで、いまさら誰かに「ずかずか首を突っ込んでもらって、心配してもらって、同じように悩んで、一緒に前に進みたい」と望んでも、叶わないことの方がしっかり理解できる。
自分に降り注ぐ不幸に対する責任や処理能力もなく、そのうえ社交に望んだとしたならば、平気で他者を傷つける潜在性が強いことは自明だと思えてしまう。
自分が「大丈夫ですか?」とズカズカと首を突っ込んでしまうタイプの人間だからといって、他人にそれを期待するのは違う。
そういうことから、社交に耐えうるよう自身の錆を落としていくしかないと考えるわけであるが、なかなか錆が落ちないと苦悩したところで、つまずいて擦りむいたり、迷子になってさまよっているとしても、その悩みが誰かに届くことはない。
「ちょっと話をきいてほしい」と話を振れるくらいのコンディションを築いて、調子のいい時に自信と責任を伴った勇気を出していくしかない。

〈上に戻る〉

2024年5月20日
深呼吸すらできずうずくまっていた時期からはだいぶ立て直しているものの、テメエが歩けていると感じている脚力が歩幅が、人様に合わせられるような具合になったと思い込むならそれは自惚れじゃねえすか、と脳内でツッコミが溢れかえっている。

2024年5月22日
「わかんね〜考えるか〜〜」と色々考えて試して答え合わせする時間が自分の感情の中核らしい気がする

2024年5月24日
「俺はあなたの力になりたいよ」という根っこもある
仕事がそれなりに楽しめているのはこれが大きい(消費の構造だが仕事はこれが役割として期待されるからやりやすい)
強いていうならこれを褒められたい



2024年6月7日
抗うつ薬治療終了による離脱症状は概ねクリア。
個人の範囲でかつ、今できる範囲の健やか・豊か・穏やかは自分の足で耕せたと評価できる。家事をちゃんとやってみたり、ちょっと多めに人と会う機会を作ってみたり、ほどよい負荷と心地よさが暮らしにある。
どこを向いて日々を続けるかといったテーマが自ずと浮かび上がる。そうなるようにこの数年間生きてきた。

「俺は一人で生きるのが本当に嫌なんだな」という気づきはより強固に、そして、一人でクヨクヨ内省をしていた時間の長さがそのまま思考の凝りになっているということもわかる。

無限に考慮は可能である。他者に対する選択と自分のための選択こそ多かれど、(マクルーハン的にいうのであれば)発さない意思は言葉ではなく、意思伝達のメディアとしては機能しない。そのくせ自分のなかで仮説を立てまくり、コミュニケーションへの自信を失う(実際に他人を傷つけてしまうこと)ことが増えた。社交の副産物であることはもちろん、知恵と倫理の成長であると捉えたい。
善意と興味の振りかざし方、つまりは他者に適したチューニングは当面の課題である。(できそうな気がしている)

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