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220728

7月上旬
にじさんじ所属Vtuber 黛灰が引退を発表。他ならぬ最推し。
活動の推移や事務所の経営方針を見るに、なんとなくそんな雰囲気はしていたが、いざとなると覚悟が足りていなかったことがわかる。推しの友人ライバーが引退する場面は今まで何度かあったが、推し本人の引退は初めてのことで、どうしても動揺、悲壮感が隠しきれない。
Vtuberは引退すると存在そのものが消える。パーソナリティも、声帯も、ユーモアも、全てが事務所の権益、著作物となり回収される。しょうがないことではあるが、メリッサ・キンレンカの引退時も同じようなことを考えたのが記憶に新しい。引退の理由は「事務所との方向性の相違」とのこと。収益度外視の活動をしてきた"黛灰”は事務所の意向に背く形となったのであろう。彼の活動スタイルに魅せられた、勇気づけられた、救われた身としては残念で仕方ない。できれば続きの物語が見たかった(年齢が変わらなくなってしまった世界線の話どうなるんだろう)。しかし、こればかりはしょうがない。上場もしたし、箱も大きくなったし。資本主義という水脈の一部であるとしか言いようがないのが事実である。
むしろ、相違にちゃんと向き合った、コンテンツとしてのベクトルやアイデンティティを守り抜くための選択として活動終了を決めてくれたことは、これまでの彼の活動に惚れたポジションのオタクとしては潔く清々しくも思える。曖昧を曖昧のまま放置せず、ともあれば首を断つことすら辞さない姿勢には天晴である。おれはこういう”ちゃんとした人“が堪らなく好き。最後までカッコよくて助かる。
となると、落ち込むのもほどほどに、オタクとしての、彼が引退する日までのムービングを望ましく心構えたい、とスムーズにシフトできたのは自分でも意外だった。去年の誕生日に映像制作をしたので、引退までにこの加筆修正版を投稿したい。そうして絵コンテを切り終えた。

7月中旬
梅雨前線みたいな湿度500%みたいな生活をしていたところ、いろいろ起点が重なり少しだけ穏やかに過ごせるように。持病の治療のあれこれも見通しが立ちつつある。社会人になってからもそれとなく数ヶ月が経過しているし、意外なことに継続的に絵を描けている。何に注力して何を捨てるか、みたいな考えにようやく身体が追いついたイメージ。肩の力が抜けている。セロトニンも出ていると嬉しい。制作も概ね順調。あとは動画の微調整をしたら完成というところ。
「これが完成したら、もうあいつのファンアートを描くこともなくなるのか」と思うと少し悲しい。悲しいと感じた時に、そのまま身体のガタに直結していた時期を鑑みると、「悲しい」で済んでいて、手を動かせているのは、これも快調の兆しだろうか。知らんけど。社会人になって、金銭、時間、人間関係とかとか、諸々がトレードオフになった感覚はある。諦めるも、続けるも、全部自分の責任であり、その報酬は自分の成果であり、それらは自分のリソースから捻出される範囲で設定される。推しの配信を見れなくなる日がいつか来てしまうのだろうか、と妄想するも、これを否定すると今感じている快調さも、その由来も、全てを否定することになる。諸行無常のアレである。とりわけ今は体力をつけたい。物理的リソースの上限が増えるので。結局のところ、インスタントにトレードして、モノやコトを得るのも、コツコツ地力を養うも、そいつの生活の域を出ない。

7月下旬
読書をしていてふと思う。意識的にものを考えないようにしていた時期があった。脳の回転を抑えて対人のコミュニケーションでの齟齬を減らす、あとは自律神経を整えるとかを考えていた気がする。幸い今は、全力でアウトプットしても打ち返してくれる人、加えて各々のアウトプットを自分に投げかけてくれる人がいる。
ハイキュー!!の影山はトスを上げた先にスパイカーがおらずコミュニケーションを閉ざしたが、投げかけた言葉を受け取ってくれる人がいることは本当に望ましい。彼にとって日向翔陽がそうだったように。ましてや、受け取ってくれる人がいないからインプットの数を減らして、思考そのものを衰弱させるなんてことはしたくない。あってはならない、と個人的には言いたい。全力で打って、受け取って、さらに打ち返して、そういう交友関係の有無の一つで当人のアイデンティティすらにも影響が出る。
たくさん、真っ直ぐに考えているような人が周りにもっと増えてくれると嬉しい。そう望む。でなければ、おれは一生ソフトウェア・アップデートが来ないPCをボロボロになるまで使い古す、愚かな老人になってしまう。少なくとも、Vtuberの中にはそういった価値観、思想を持つ人がいて、自分はそういうキャラ以前の対話性に何度も救われている。

仕事がうまくいく日も、いかない日も、身体がうまく動かない日も、トレーニングが気持ち良くできる日もある。社会人になって、それなりの選択肢が概ね開示されて、それらが程遠くないと知った。華やかに見える。どうしても見えてしまう。その瞬間以降の自分は、自分で管理できる範囲を悠に超える火力で動いた(もちろん矮小な身体にそんなものが耐えられるわけがない)。折衷案や、中庸を望めるのも一種の恵まれた環境で、そうでない部分があるからこそ拳銃は潰えないし、怒声は止まないし、経済社会も動き続ける。「しょうがない」の結論が致命的でない現状を理解し、平衡する努力を欠かすつもりは一切ない。

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