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うたふ兎🐇宇治 君秋
2023年9月30日 06:52
東京で滋賀の長浜市による湖北の観音像の展示を見たことがあります。雑居ビルに長浜観音堂という会場があって展示は仏像一体でした。戦乱や疫病や飢餓に苦しむ村人の心を文字通り支えてきた仏像。仏像も沈黙。ぼくも沈黙。後はどうか無事で村人のところにお帰りになりますように!
2023年9月29日 06:40
常におひとりさまの客として生きる老作家。家族も友人も師弟もない。自宅があっても泊まり客として帰る。寝間着はあっても普段着はない。旅人の生き方。ぼくはそんな老作家と遭遇したとしても気づかないふりをするでしょう。鏡に向かって挨拶などしないように。
2023年9月28日 06:57
ランボーだって大手拓次だって生きているうちに受けたことのないほどの感動の賛辞。それがSNSでは投稿者お互いに宛てて日々大量に交換されています。感情を蘇らせるカンフルとして濃厚な賛辞を交わしているのでしょう。それは仲間の確認でもあるでしょう。きっとそれでいいのです。
2023年9月27日 06:39
永井荷風は「おひとりさまの客」の顔をし続けたのだと思います。客である限り都市の中では安全です。客でさえあればそれ以上にどこの誰かということはまずは問題にされません。客の顔は孤独を守るための鎧です。そして客であり続けるため原稿料が必要だったのです。
2023年9月26日 06:37
自分が自分の外に向かうというのは空間に向かっている。自分が自分の内に向かうというのは時間に向かっている。こう考えるとどちらが積極でどちらが消極かなど決まってはいないのです。そこでの自分とは空間と時間との交差です。まるで風に流される花火みたいです。
2023年9月25日 06:55
自分の外に求めても手に入らないし自分の内に求めても見つからないもの。自分の中で先達の真似をしながら稽古して育てるしかないもの。それが芸です。文芸もそう、美術も音楽も書芸もそう。美にせよエンタメにせよ芸が生み出すのです。ぼくはもっと芸達者になりたい!
2023年9月24日 07:08
江戸川の方に足が向きました。小岩の駅前は商店街が長く続き、そのアーケードをかすめてバスが抜けてゆきます。川の堤の通りでバスを降りました。河川敷の野球場の向こうに濃灰色の川が対岸を遠く隔てています。ここでは独りでもさびしくならないのが不思議でした。
2023年9月23日 07:06
渡り鳥にとって、帰る土地があることが生きるための張りになっているかもしれません。ぼくも会社員と文人との二つの世界を往来できることがずいぶん気持ちを軽くしています。こちらでつらくてもあちらがある。どちらの世界もささやかですが、とにかく二つあってよかった!
2023年9月22日 06:37
このシリーズは誰かへの手紙のようだというお言葉をいただきました。それは当たっています。もちろんSNS の読者への手紙です。それにもう会えない知人が読んでくれればという気持ちもあります。あいつが書いたと分からなくても。そしてぼく自身への手紙でもあります。
2023年9月21日 06:45
文章と身体。文章には書いた人の呼吸が表れます。言葉はもともと肉声によるからです。意志により身体に緩急がつけられて、言葉を選び、繋げ、区切ります。そういう身体の痕跡が文章の「彩(あや)」として受け手の心に働きかけます。文章の文字通りの意味とは別です。
2023年9月20日 07:04
またも「秘すれば花」について。何度も仮の答えを得たつもりになって、すぐにまた分からなくなる言葉です。逆に「伝わることで花となる」という考えも浮かびます。今日は自分の孤独を秘することが花と考えました。花となった孤独が伝わって観客の孤独と響き合うのです。
2023年9月19日 06:31
おもしろいものを書こうと思いすぎない方がいいみたいです。全くおもしろいと思わななければ筆はそもそも動かないでしょう。書いたということはすなわち何かしらおもしろいと思うものを書いたということです。ただ書くからには伝わるようにがんばって書きたいです。
2023年9月18日 06:31
こう自分に言い聞かせています。昨日一日べそもかかないでやってきただけで大したことだ。世渡りだってうまくないけどなんとかやってきた。毎日なんとかやってきたのだから今日もきっとなんとかなるはずだ。なんとかやっているということは明るく強いんだ!
2023年9月17日 06:53
休日に東京の東端の江戸川あたりを歩きました。堤防の内側で農地の残る住宅街です。陸軍の飛行場の跡地が大公園になっています。珍しい長栄大威徳天という仏像をお寺のご厚意で拝見することもできました。大河川の恵みのおおらかな空気が境内を流れていました。