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Drive Me Crazy

 マウが入ったとき、ガレージの中にはひとつも明かりが灯っていなかった。だから手探りでドアを開けて、彼女はクルマに乗り込んだ。シートに身体(ボディー)を投げ出したあと、両手で顔を覆った。アナクロなその遮断状態の中で、彼女はクルマのドアが自動で閉まる音を聞いた。今日、その音は許せないほど緩慢に聞こえた。
「大丈夫?」その時、すぐ近くで声がした。アラン―夫だ。
 最後に息が途切れるような音を立てて、クルマのドアは完全に閉まった。重たい静謐さの中に、マウは夫と二人で閉じ込められたように感じた。
「大丈夫じゃないよ」指と指の隙間から彼女は声を零した。「大丈夫なわけないじゃん」話しながら、自分でも酷い言い方をしていると彼女は分かっていた。今日だけはこんな言い方をしてはいけないはずだった。今日だけは。
「ごめん」反対に夫の声は落ち着いていた。冗談めかしさえして彼は続けた。「良かったら運転代わろうか?」
「ダメに決まってるでしょ」彼女は変わらず冷たく答えた。「全然面白くない」
 夫は小さく笑ったあと、「そうだね」と言った。
 顔を覆っていた両手を、彼女は唇の前で合わせた。そして祈るようなその態勢のまま、しばらく無言で前方を見つめていた。
「マウ。行かないと」沈黙を破ったのは夫の方だった。「もうすぐ時間だよ」
「わかってる」彼女は頷いた。「行こう」
 それから彼女はゆっくりと目を閉じた。

 瞼の裏側を見つめたまま、彼女はいつも電脳にかけているセキュリティを解除した。その後で、彼女は自らの通信設定を開放(オープン)にした。
 次の瞬間。彼女の意識には、周囲を行き交う様々な電波たちが感知された。その中から、彼女は接続(アクセス)記録を辿って、目的の端末まで意識を伸ばした。そしてまもなく見つけると、それに接続(アクセス)した。今まさに彼女たちが乗っている、このクルマのネット端末に。
 それから彼女は自らの意識を、クルマへと転送(アップロード)していった。
 途端に遠ざかっていく、普段使っている骸体(ボディー)の感覚……。代わりに自らの一部(パーツ)として認識されていく、シャフト、サスペンションといったひとつひとつ……。触覚、聴覚といった知覚もまた、車内各部のセンサーへ置き換わっていく……。
 そして瞬く間に転送(アップロード)は完了した。車体に移ったあと彼女はまず、制御OSや駆動系などの確認を行った。特に異常はないようだった。エンジンを始動させると、全身に震えが走った。それから「終わったよ」と夫に告げた。
「うん」夫の声は満足気だった。「少しチェックしたけど、マウの意識は問題なくOS全体と同期(シンクロ)してるよ。もう一人で全部できるんじゃない?」
「ねえ」エンジンの回転数が上がり、震えが声まで伝わった。「二度とそういうことを口にしないで」
 夫はただ一言、「わかった」とだけ言った。
 続いて、ガタリという大きな音がした。夫が遠隔でガレージの扉を開いたのだ。暗闇になだれこんでくる光を、彼女は前方のカメラで見た。無言でギアをドライブに入れた。そして真っ白な光の奥へゆっくりと進んでいった。

 特に事故や異常には遭うことなく、彼らは目的地に到着した。
 駐車場に停まったあと、彼女はエンジンを止めた。それから再び転送(アップロード)を行った。まもなくまた普段の骸体(ボディー)に戻り、シートの上で目を開けた。視界が滲んでいた。薄暗い車内。曇ったガラス。淡くぼやけている外の光たち。
「マウ」夫は優しい声で言った。「泣かないで」
 だが骸体(ボディー)の制御(コントロール)は効かず、彼女の涙は止まらなかった。そんな彼女に何度となく、夫は「ごめんね」と繰り返した。そうやって残りの時間は過ぎていった。ようやく少し落ち着いたあと、彼女は頬を拭った。「大丈夫」彼女は言った。
 そして彼女は、夫の入った携帯意識装置(ポータブルマインドドライブ)を手に取った。それからクルマを降り、目的の場所―診療所(クリニック)目指して歩きだした。
 平日だが、待合室には多くの姿があった。旧式の人型骸体や整備ドロイドが、それぞれの暗がりにたたずんでいた。表情のないその集団の中で、彼女たちは自分たちが呼ばれるのを待った。夫は時々気を紛らわそうとするかのように、他愛無い話をした。彼女は上の空のまま、それらに応えた。夫を握りしめた両手がずっと震えていた。
「アランさん。アラン・ミズハシさん」通信が入ったのは、ほとんど予定通りの時間だった。「施術室の前までお願いします」
 担当医のスバル・イシバシが、施術室の前で二人を待っていた。
「こんにちは」彼は微笑んだ。「いよいよですね。調子はいかがですか」
「こんなに調子がいい日はありませんよ」夫も笑った。
 スバルに夫を手渡したあと、彼女は深々と頭を下げた。「お願いします」
「全力を尽くします」彼は表情を引き締めた。
「大丈夫だってば」本当に最後まで夫は不安そうな様子を見せなかった。ただ少し出かけてくるだけみたいな口調で彼は言った。「またあとでね」
 そして、彼らは施術(オペ)室の中へ去っていった。マウを取り残して。

 全てのきっかけとなった出来事は、およそ半年ほど前に起こった。
 その日の午前。同時発生的にトウキョウの各地で、暴走車による事故が発生した。あるクルマはビルに突っ込み、あるクルマはガードレールに衝突し、あるクルマは交差点で鉄くずとなった。サイレンや悲鳴がそこら中で渦巻き、街は大混乱に包まれた。
 事故の状況はそれぞれ異なっていた。だが目撃者たちの証言にはある共通点があった。彼らは話した。事故を起こしたクルマはどれも、突然目が眩んだかのようにふらつきだしたあと、制御(コントロール)を失ったように見えたと。
 だが、目が眩むはずなどなかった。何故なら暴走したクルマはどれも、完全自動運転車だったからだ。運転を行っていたのは、人ではなくクルマに搭載されたAIだった。そしてさらなる事実も判明した。事故を起こしたクルマ搭載のAIの全てが、日本のプルクラ社によって開発された、旧モデルの人格保有型AIだったのだ。
 調査はさらに進められた。調査員たちは、事故車のOSから彼らAIたちを復元すると、聞き取りを行った。「事故直前のことを覚えているか」調査員たちは尋ねた。すると、AIたちはそれぞれ答えた。「突然、奇妙な光がカメラに映り込んだ」「光というより、色の洪水のようだった」「その色がクルマの制御(コントロール)システムを侵食した」と。
 だが事故当時、そんな光や色など、現場付近のどこでも確認されていなかった。

 そしてマウの夫であるアランは、まさにそのプルクラ社の人格保有型AIの一人だった。

 幸いなことに、アランは事故を起こしたりはしなかった。その日偶然、彼女と夫はずっと家にいたのだ。だがニュースを受けて、二人は話し合った。万が一に備えて、アランは意識をクルマのシステムから携帯意識装置(ポータブルマインドドライブ)へと移すことにした。そして数日後、二人は診療所(クリニック)に行った。結婚以来初めて、ほとんど十年ぶりぐらいに、彼女はクルマへの意識転送(マインドアップロード)をこの時行った。久々の同期(シンクロ)にてこずる彼女に対し、夫は「落ち着いて」と何度も繰り返した。
 診察を担当したスバルからは、マウも夫も誠実な印象を受けた。
「現時点で確かなことは何も申し上げられないんです」彼は言った。「そもそもの初期(はじめ)から、皆様の人格の中に何らかの欠陥(バグ)が組み込まれてしまっていた可能性もあるし、ネットを通してハッキングを受けた可能性も言われています」
「私たちは」マウはすがりつくように問いかけた。「どうすればいいんでしょう」
 ここで初めて、スバルは視線を床に落とした。「少なくとも、ウィルス検出テストぐらいは行うべきでしょう」彼は続けた。「それにともない、認識能力を司るプログラムのいくつかの領域について、初期化する必要は生じてくるかもしれません」
「その場合、」声を出せない彼女に代わって、夫が聞いた。「ぼくはどうなりますか」
 スバルは再び顔を上げた。覚悟を求める表情だった。
「ご主人は」彼は言った。「一部記憶を失う可能性があります」

「不思議な色とか光なら、実はぼくも見たことがあるんだ」
 夫が突然そんな話を始めたのは、施術(オペ)のために診療所(クリニック)に向かう、まさにその道中だった。運転に集中していた彼女は、思わず「えっ?」と聞き返した。
「初めて会ったときのこと覚えてる?」夫は続けた。
「もちろん覚えてるけど」彼女は慌てて言った。「ねえ、そういうものを見たことがあるなら、どうして診察のときそう言わなかったの? 今言われても……」
「道に立っている君の姿をカメラで見たとき、」珍しく、夫は彼女を無視して話し続けた。「君の姿は見たことない光に包まれているように見えた」
 言葉を失って、彼女は黙りこんだ。
「あるいは君の周りに、」夫は続けた。「『色』が溢れているように見えた。世界を構成するあらゆる色たちの中から、最も美しい組み合わせを選んできて、そこに並べたみたいだった。クルマのカメラの解像度じゃ、全然捉えられないその無限の色と色の間に、定量化できない何か大切なデータが含まれているように感じた」
 彼女は必死に集中した。さもなければ制御(コントロール)を失いそうだった。
「例えばぼくの記憶が初期化されたとしても、」彼は続けた。「あのときに見た光や色は、きっと絶対に忘れたりしない。そう思うんだ」
 何も答えないまま、彼女はただ走り続けた。青い光が見えて、加速した。速度が上がるにつれ、彼女がカメラを通して見る色たちは、確定と未確定の間の状態に留まったまま、淡く砕け散り、彼女の背後へ流れていった。彼女はただ進み続けた。ひたすら前方へ。柔らかく滲んでいる、少し先の未来へ向かって。

 ふと聞こえた音が、彼女を現在へ引き戻した。
 廊下のベンチに座っていた彼女は、音につられて顔を上げた。すると「施術中」の文字がそこから消えていた。彼女は弾かれるように立ち上がった。
 そして彼女の目の前で、施術(オペ)室のドアはゆっくりと開いた。その奥に、暗闇。
「アラン?」彼女は色のない暗闇にそっと問いかけた。



 Drive Me Crazy  「私を夢中にさせて」

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