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巨人の剪定(2)

 巨人は、基本的には周囲に害をなすことのない存在であり……その生態については多くの部分が未だ未解明のままではあるものの……植物に近いとされ……個体は過去確認されておらず……成長につれ……などの危険性が高まり……実際にそういった事故が過去全国で何件も起こって……本『巨人剪定診断マニュアル』は……根室さん……リスクのある巨人を早期発見するための……根室さーん……診断の基準は以下の通り……おーい、根室さーん……地面から頭の先まで……根室さん!
「根室さんってば」突然デスクに手が置かれた。「聞こえてないんですか? さっきからずっと呼んでるのに……。何してるんですか。そんな怖い顔して」
 スクリーンから根室が顔を上げると、すぐ隣に同僚の藤森が立っていた。「何見てるんですか、これ」不審そうな彼の顔を見て、根室は急に今朝の妻の顔を思い出してしまった。「えっ。何笑ってんですか。怖っ」本気で気味悪がっている声。「何でもないよ」「いやいや。怖っ。普通に」「何でもないってば」
「ま、いいんですけど……」いつもの全てにあまり関心がなさそうな口調に戻りながら、藤森は左手を上げた。その手に提げている弁当を軽く振りつつ、彼は続けた。「食いましょうよ、昼飯。もうみんな食いに行っちゃいましたよ」
 藤森は根室が社内で最も親しくしている同僚だった。およそ五年前、彼が以前の営業部から、根室の所属する企画部に転属してきた際に知り合い、それから職場で色々話すうちに仲良くなった。年がそれほど離れていない(根室が三つ上)こともあり、とにかく色々な点で感覚が近く、話が合った。今では二人だけでよく飲みにも行ったし、休日に男二人でボルダリングに行ったりもした。昼休みもよく今日のように、デスクの周りでそれぞれ弁当をつつきながら、色々な話をしていた。
「へえ、『巨人剪定診断マニュアル』……」スクリーンに向かって目を細め、藤森は言った。「そんなのあるんですね。全然知らなかった」
「いや、俺も今日初めて見たよ」根室は正直に答えた。
「そうなんすね」少しの間、弁当箱に顔を落とし、卵焼きを口に入れた後、藤森はまた顔を上げた。「なんで、そんなの見てるんですか。急に」
「別に」コリーのことは話していなかった。「なんとなくだよ」
「ふうん」何か言いたげだったが、藤森はそれ以上何も言わなかった。
 会話はそこで途切れ、二人は静かに食事を続けた。その時藤森がふと、近くにある窓に視線を向けた。根室もつられてそちらを見た。七階にある彼らのオフィスの窓の外は眩しさで歪んだ空気で充ちていた。そんな空気の奥に大小のビルが立ち並んでいる。東京の景色は腐った海のように表情がない。それぞれのビルの壁面が濃い青色に染まっていた。遮光ガラスの一枚一枚が、凪いだ海面を覆う波たちのようだ。ひたすら全てを呑み込み、内部で圧し潰すものとしての海。
「一年半ぐらい前」突然、藤森がまた口を開いた。「この近くでもやってたじゃないですか、剪定。巨人の。根室さん、覚えてますか」
「ああ」根室は思わず大きな声を上げた。「あったな、そんなこと」
「あの日」呟くような声。「平日でみんな普通に出勤してて、剪定も朝からずっとやってて。そしたら昼休み、確か菊内さんだったと思うんですけど、誰かが『みんなで見物に行こう』って言い出したんですよ。覚えてますか」
「覚えてる」根室は苦笑した。「お祭りにでも行くみたいな感じだったよな」
「本当に」藤森は笑わなかった。「そんな感じでしたよね」
藤森の様子がいつもと違うことに根室が気付いたのは、このタイミングだった。窓の外から彼の方に視線を戻すと、彼は食べかけの弁当箱をデスクに置き、椅子の上で前屈みになっていた。その姿は今まるで、何かにずっと追いかけ回された末、ようやくここに逃げ込んできた後のように疲れ果てて見えた。すらりと長い手足を、身体の近くに丸め込んでいた。両肩が上下にゆっくりと動いていた。
「そういう流れになってから、みんな異常なぐらい盛り上がってて、見に行こう見に行こうって」その姿勢のまま藤森は続けた。「根室さんも声かけられてましたけど」小さな咳払い。「でも断ってましたよね。『興味ない』とか、そんな感じで」
「そうだったっけ? まあ確かに、見に行った記憶はないけど……」
「いや、おれは覚えてますよ。根室さんが断ってたの」
「そうか。まあやっぱり、昼はちゃんと休みたいしなあ。今も多分……」自分でもよく分からない理由で、根室は少し言葉が詰まった。「……今誘われても、多分同じ風に答えると思うよ。弁当食わなきゃいけないし……」
「そうっすね。根室さんは。そうですよね」
 再びデスクの周囲は沈黙に包まれた。気まずい感じだった。根室は藤森と知り合って長かったが、二人が話していてこんな雰囲気になったのは、覚えている限りこれが初めてだった。思わず根室は重たい空気から視線をそらした。すると、藤森の背後の壁から天井にかけて、大きな影が広がっていた。根室は小さく息を呑んだ。壁に広がる巨大な影は、昨晩彼が見たものと同じように見えた。同時に違うようにも見えた。だがそもそも、ある巨大さを他の巨大さと区別することが、私たちにどうやったらできるのだろう。とにかく今その影は、藤森に後方から覆いかぶさるようにしていた。まるで彼のことを見守るように。あるいは、彼を見張るかのように。
「藤森はあの時、どうしたんだっけ?」根室は聞いた。「見に行ったんだっけ?」
「いや」また静かな答え。「オレも、行かなかったです」
「ふうん」
 それから昼休憩が終わるまで、二人はもうその話題に触れなかった。やがて食事を終え、それぞれの仕事に戻った。午後はほとんど話さなかった。二人とも忙しく、何度か業務について短い言葉を交わしたものの、それだけだった。終業後、根室が残った仕事を片付けていると、藤森に声をかけられた。「お先に失礼します」彼は笑顔を浮かべていた。だがやはりその声はいつもより少し暗いように感じた。そして次の日も、また次の日も、彼のそんな様子は続いた。意識していつも通り振舞ってはいるが、何か抱えているものがあるという様子。例えば一緒に昼食をとっているとき、同じミーティングに参加しているとき、ふと藤森の方を見てみると、彼は見たことのないような思いつめた表情で、何事か考え込んでいるのだった。「おい、藤森」ミーティングで彼は上司に注意されていた。「聞いてんのか」ハッとした顔。「あ、すみません。聞いてます」こちらからの視線に気が付き、バツの悪そうな表情を浮かべる彼に対し、根室はただ曖昧に眉を顰めてみせることしかできなかった。

巨人の剪定

 それでもやがて、一週間、二週間……とさらに時間が経つにつれ、根室も藤森もあの昼休みの空気から遠ざかっていった。あれ以来、藤森の表面に断続的に浮かび上がってきていた例の暗さも、彼の内側奥底へまた沈んでいったようだった。少なくとも根室にはそう見えた。日々が過ぎていった。「実は昨日、マッチングアプリで……」とある休憩時、嬉しそうに藤森に切り出されたりした。オフィスで大きな声がして振り返ると、同僚たち数人が何やら盛り上がっていて、その中に藤森の姿もあったりした。「山火事って」移動中の電車、隣で吊革を握っていた藤森が突然変なことを言い出すこともあった。「なんでそもそも『森火事』じゃなくて『山火事』になったんですかね」「知るかよ」藤森の様子が元に戻り、当然のように日常は続いていった。一日一日が瞬く間に終わっていった。その間もずっと、根室は通勤電車の窓からほとんど毎日、コリーの姿を目にしていた。剪定の日は確実に近づいてきているはずだった。ただ妙なことに、剪定作業をするなら必要なはずの足場の準備などはいつまでもずっとされないままだった。毎日毎日、今日こそはと多少覚悟をして見てみても、コリーはただ前日までと同じように、川辺に裸で(?)ぼうっと立っていた。やはり剪定などしないのではないかと思うこともあったが、改めて考えてみたところで、こんなことで妻が嘘を言うはずなかった。でも、もし勘違いなら……? あるいは、もし……。「どうしたんですか根室さん」気がつくと、また藤森に覗き込まれていた。「また何か考え込んで」
「なんか最近」根室は苦笑した。「疲れが溜まってる感じでさ……」
「ああ、根室さんもですか……? いや俺もっすよ……」藤森は大袈裟に肩を落とした。「先週今週とキツかったですもんね……」一拍おいて。「根室さん、よかったら……」
「ん?」
「今週の金曜日、久しぶりに、いっしょに飲みに行きませんか。オレ空いてるんですよ。金曜日。根室さんはどうですか」

 その週の金曜日は、朝からずっと雨が少し降っていた。仕事を終えた後、二人はよく行く駅近くの個室居酒屋に向かった。店はいつものように混み合っていて、ほとんどの個室は扉が閉ざされていた。それでも店内は賑やかではなかった。個室に入ると、遠くの席から若者の笑い声が時々聞こえるだけで、他にはほとんど何も聞こえなくなった。席についた後、根室は何となく窓に目を向けた。ぴしぴしと一定の間隔でガラスに走る透明な線が、窓のすぐ外に設置されている淡い光を縦に切り裂き続けていた。ぼんやりと雨を眺めていたら、そのうちにビールが運ばれてきた。
「お疲れ様です」「お疲れ」二人は軽くグラスを合わせた。
 酒の席で二人はあまり真面目な仕事の話をしなかったが、この日もそれは同様だった。二人は最近の同僚の噂について話し、今度結婚する経理の田澤さんについて話した。それから、藤森がアプリを通して会った子について進展を聞き、その女性の趣味がサーフィンだということで泳ぎの練習法について話し合った。そんな風に何事もなく夜は進んでいった。だがその間に、外の雨がどんどん強くなっていった。風も吹いてきたようだった。音につられて、話を中断した二人が再び窓に目をやると、先程まで独立した一本一本の線だった雨は、今や打ち寄せる波の面になっていた。
「参ったな」根室はこぼした。「こんなになるって言ってたっけ?」
「いや、天気予報見なかったですね……」藤森も困ったような声をしていた。「しかしすごいですね、これ。台風みたいですね」
「確かに……」
 雨は一向に収まる気配もなく、窓に打ちつけ続けていた。二人はしばらく黙りこくったまま、外の様子を眺めていた。
「この間」藤森は言った。「根室さん、職場で見てたじゃないですか、『巨人剪定診断マニュアル』。あの後、俺も見ました。読みました。家で」
 根室は前に向き直った。藤森は頬杖をついて、まだ外を見ていた。悲し気な表情をして、彼は窓の外を睨みつけるようにしていた。まるで彼の許すことのできない何者かが、雨の奥に見えているかのように。
「あんなの」藤森は吐き捨てた。「認められるべきじゃないんですよ。最初から」
「剪定が?」根室は聞き返した。
「はい」藤森は頷いた。「『剪定によって、巨人たちに何か悪い影響が及ぶということはなく……』とか何とか書いてありましたけど、あんなの大嘘ですよ。巨人たちは痛みを感じてるんです。間違いなく。手を切られるときだって、どのくらい痛いのかは分かんないけど、もしかしたら俺らと同じぐらい痛いのかもしれない。彼らが痛みを覚えているのを俺らが知らないのは、それは国の役人とかそういう人たちがそのことを隠してるからです。あのマニュアルを作ったような奴らが」
 何を言えばいいかも分からず、根室は黙りこんでいた。数秒後、口を開いた。「なんで」彼は言った。「根室はなんで、巨人たちが痛がっていると思うんだ?」
「思うんじゃないんです。俺は知ってるんです」
「どうして? というか、何を?」
「巨人たちの痛みを、です」そこまで話した後、藤森は言葉に詰まったようだった。窓の外を見つめる目の奥で逡巡の光がかすかに揺れた。それから、意を決したように彼は続けた。「俺は巨人の腕を切り落としたことがあるんです。友達といっしょに。だから、知ってるんです」
 言葉を失い、根室はただ呆然となった。藤森はそっと恥じるように目を伏せた。外で雨脚がさらに強くなるのが聞こえた。びたびたと大きな音で雨が、ここを開けろとでも言うかのように、窓ガラスを外から叩き続けていた。
(3に続く)

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