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巨人の剪定(1)

 巨人のコリーの剪定について、根室は妻から聞かされて初めてそれを知った。遅い夕食を二人、自宅のリビングで取っていたときだった。妻はコリーの名前を全然覚えていなかったので、「あのう、ほら。あの人よ。こっちじゃなくて、二子玉のほうの河原に、一人でぽつんと立ってる人。橋渡ってすぐのところに……。なんかちょっとほら、いつも眠そうな顔してる……」と要領を得ない説明をずっとしていたが(彼女は何につけても説明があまり上手ではない人だった)、根室にはそれがコリーのことだとすぐに分かった。
「ああ、そうそう。コリー」妻は頷いた。「そんな名前だったわ。よく覚えてるね」
「コリーが」箸を止めたまま、根室は続けて聞いた。「剪定? 本当に?」
「なんかそうみたいよ。さっき帰ってきたとき、電車下りてから、駅の近くで、そんな貼り紙貼ってあったの見たもん」
 その後。妻の話題はすぐに、彼女が勤めるオフィスの近くにいるという、別の巨人のことに移った。あの人ももうだいぶ大きくてさあ。口をもぐもぐさせながら妻は話した。何だっけ、こっちの人の名前。もう一回。ああ、コリーね。そうそう。どうでもいいけどなんか犬みたいな名前だよね、コリーって。まあそれはよくて。でね。その人、コリーより絶対! 大きいのよ。だから、コリーが剪定なら、あの人もフツーに剪定だと思うんだよね。基準とかどうなってんだろう。本当にちゃんとしてんのかなあ。
 妻の話に、根室はいつも通り相槌を打っていた(少なくとも自分ではそうしていたつもりだった)が、心の内では大きなショックを受け、椅子の上でほとんど呆然としていた。コリーが剪定になる。あのコリーが……。様々なイメージが頭の中で渦巻いていた。巨大な鋸を首に入れられ、徐々に身体から離されていく頭部。次々と切られ、地面に落とされていく腕たち。荷台を覆ったビニールが、ぱんぱんに膨らんだトラック。そしてそれが走り去った後、河原に残される、数時間前までコリーだった物体。日が沈み、真っ暗な河の畔にぼんやりと伸びている、ごく単純な形の細長い影……。
 夕食後、シャワーを浴びている間もずっと、その影が根室の網膜の裏にずっと焼きついていた。ベッドの上で妻の「おやすみ」を聞いたときも、同じ大きな影が天井に映っているように見えた。金縛りにあったように仰向けのまま、長い夜を根室はその頭上の影と向き合って過ごした。それでもいつの間にか眠りに落ちていた。目を覚ますと、部屋は明るくなっていた。そして起きたとき、彼はコリーのことについて忘れていた。内容を思い出せない悪夢を見た後のような、嫌な倦怠感だけが体に残っていた。寝ている妻を起こさないようにベッドを出た後、リビングでストレッチをし、シリアルを食べた。いつも通りの静かな朝だった。だが遅れて起きてきた妻は、彼の顔を一目見るなり、「大丈夫?」と眉を顰めた。「なんかすごい顔してるけど」 何でもないって顔じゃなかったじゃん絶対、と顔をさらに険しくする妻を残して、家を出た。そして駅に向かって歩きだしたとき、昨晩の動揺とその理由を、彼はようやく思い出した。

巨人の剪定

 駅に向かう彼の足取りは、どうしても軽くならなかった。昨晩の影が足元から伸びていて、それを引きずりながら歩くようだった。駅の近くまで来たとき、彼は昨晩の妻の話を思い出した。コリーについて書かれているという貼り紙を、歩きながら目で探してみた。だが見つけられなかった。かといって、こんなことで妻が嘘を言うはずもなかった。彼の見えないところで、知らないところで、想像もつかないほど多くのものたちが、いつの間にか決定され、音もなく進行されていくのだ。エスカレーターに運ばれながら、そんなことを彼は漠然と考えた。ホームに上がるとたくさんの人がいた。何が起きようと変わりそうにない硬化した秩序が列をなしていた。根室はゆっくりと彼らに加わった。数分後、時間通りに電車は来た。流れとともに彼は電車に乗りこむと、後ろから押されながら吊革を掴んだ。数秒後、空気が抜けるような音とともに電車のドアが閉まった。それから電車は、多摩川に架かる高架の上を、急加速しながら渡っていった。速度の中で、根室はずっと窓の外に視線を向けていた。見ないこともできた。でもそうしなかった。あっという間に電車は川の中間点を過ぎ、また減速を始めた。そして二子玉川駅の巨大なホームへと滑り込んでいく電車の車窓から、根室はその姿を見た。
 石や雑草のほか何もない、荒漠と広がる川原に一人、巨人のコリーは今日も立っていた。昨日までと少しも変わらない場所に、昨日までと少しも変わらない様子で。だらんとした姿勢でそこに立ち、ぼんやりと空を見上げていた。ぽかんと口を半開きにした顔は、朝日の方に向けられ、両目が眩しそうに細められていた。胴の周りに伸びた無数の長い腕たちが、風にたわみながら、魚群のように揺れていた。
 通勤電車の車内から、根室はこんな風に時々、コリーの姿を目にしていた。電車が近くを通過していく間の、一瞬より少し長い景色の中に。だが今朝まで、彼はその姿を、日常風景の中における、単なる一要素としか認識していなかった。カフェの看板や、美容室外のポスター、自動販売機横の落書きと同じような類。視界に入ったそばから、意識の表面にも留まらず、互いを補完し合う虚像の坩堝へ、自らの内の色のない領域へと流れ落ちていくものたち……。根室にとって、コリーの姿とはそういったものでしかなかった。少なくとも昨日の晩まで。妻の話を聞くまでは。
 今朝、根室は改めて、電車の窓から実際のコリーの姿をよく見てみた。そして驚いた。確かにコリーは大きくなっていた。以前よりはるかに。こんなに大きな変化に気付かないなんて、人は本当にわずかごとの変化に気付けないのだと、そう思わざるを得なかった。初めて見たときは八メートルほどしかなかった(と思う)背丈は、今では川の堤防を超えるほどまで(倍ぐらいに?)伸びていた。身体の他の部分と比べて、頭部がいやに発達してきていた。植物の種子のようなその頭は、ぶよぶよと巨大に膨らんで、首の上で不安定に揺れていた。全体にその体は(そう言われてみれば確かに)、自らの巨大さに耐えかねて、今にも倒れてしまいそうだった。剪定。頭の中でフリック入力を繰り返すように、根室は色々な考えを巡らせた。予防措置。安全対策。近隣住民の不安を取り除くため……。その時。沈み込むようにまた電車が速度を落とし、揺れの中で彼は物思いから覚めた。次の瞬間、窓の外の景色が切り替わった。川原は見えなくなり、代わりにそこに、ホームで電車を待つ人々の真っ黒な壁が現れた。慌てて根室は窓の外から視線を外した。そして速度がゼロになった。
 でもどうして。ドアが開き、車内になだれこんでくる流れにまた耐えながら、根室は思った。どうして自分は、コリーの剪定にこんなに動揺しているのだろう。コリーなんて、これといって他と異なる特徴があるわけでもない、全国に何十万といる巨人のうちの、ただ一体にしかすぎないのに。そもそも。根室はさらに思う。自分は別に巨人が好きなわけですらないのに。日本のどこで、どの巨人が剪定になろうと、どうでもいいというふうにしか思っていなかったはずなのに。
(2に続く)

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