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人体模型ノストルム

(1)

 ずっとうつむいて歩いていた。傍から見ればそんな彼の足取りはまるで、関節の錆びついた人形のそれのようだった。だが彼の住む町にはそんな歩き方の人しかいなかったので、周囲の誰も彼に奇異の目を向けたりはしなかった。そんな彼の頬を、不意に淡い光がかすめた。彼は思わず立ち止まった。視界の端で滲み、流れていくようなその光を目で追った。するとその先、顔を上げた彼の視線は、ある建物を見つけて止まった。
 小さな洋館といった趣きの建物だった。子どもが遊ぶドールハウスをそのまま巨大にしたような見た目をしていた。レンガ造りの壁の上には複雑な模様の影がかかっていた。三角形の屋根の下に大きな窓が並んでいるが、どれも分厚いカーテンで内側から覆われていた。だがそのうちのひとつがかすかに開いていた。先ほど五十嵐の足を止めた光は、そこから漏れたようだった。
 しばらくぼんやりとそこに立って、彼はその建物を見上げていた。今までこんな建物を目にした記憶はなかった。少なくとも彼が普段よく歩く道に、こんな建物はなかったはずだった。
 建物正面のドアには、大きな木札が打ち付けてあった。木札にはやけに古めかしく凝った書体で、『Antique’s / Rinne』と書かれていた。
 その時。正体の分からない引力が、彼の手をそっと引っ張った。そして気が付くと、彼はゆっくりと建物へ近づいていた。

 音を立てずにドアは開いた。淡い光が彼を受け入れてくれた。開いたドアの隙間から彼は顔を差し込み、店内を見た。その光景を目にして、彼は小さく息を吸い込んだ。
 ぼんやりとした明かりが、天井から店中に降り注いでいた。その光の下に、空間を埋め尽くすほど多くの陳列棚が並んでいた。棚たちはどれも、彼よりずっと背が高かった。おかげで店内はアンティークショップというより、遊園地の巨大迷路の中のようでもあった。
 店内に入り、彼は棚の間を歩き回った。それぞれの棚の中には、種類もジャンルもばらばらな様々な物が並べられていた。乱雑に。互いと区別されることもなく。錆びたジッポーが、毛羽立った帽子が、シミがついたパイプがそこにはあった。ぼろぼろになった外国の雑誌が、本物かどうか分からないリボルバー銃が、木彫りの怪物の置物がまたそこにはあった。
 そのどれも見るからに骨董品だった。時間という止むことのない雨によって、作られた目的を洗い流され、意味の束縛から解放された物たちだった。それらを見て回りながら、彼は心が浮き立つのを感じた。こんな気持ちになったのは久しぶりだった。そこに並んだ物たちに、彼はすっかり心を奪われていた。
 そして。彼がそれを見つけたのは、まさにその時だった。店の奥の片隅に、それはぽつんとひとつだけ離して置かれていた。
 それは一体の古い人体模型だった。棺のようなガラスケースの中に、それは静かに立っていた。

 ガラスに鼻が当たりそうなほど近づき、彼は正面からそれを見つめた。
 実際に人体模型を見たのは、彼にとって初めてだった。学校の理科室によく置いてあるイメージだが、少なくとも彼が子どもだったとき、学校に人体模型が設置されていた記憶はなかった。
 こうして。改めて近くから見てみると、人体模型は想像していたよりもずっと生々しく彼の目に映った。頬の筋肉や、上半身の奥の内臓を表した部分は、心なしか艶々と光っていた。まるで、瞼や肌を切り取られて、剥き出しになった人間の死体そのもののようだった。
「おかえり」その時。しわがれた声が突然、後ろから彼にかけられた。

 はっと我に返り、彼は振り向いた。
 一人の老人が彼のすぐ後ろに立っていた。とても細く、腰もひどく曲がっているため、老人はとても小さく見えた。ここの店主かなと彼は思った。愛想のいい笑顔を老人は浮かべていた。
「やはり帰ってきたんだね」それから、老人は繰り返した。「おかえり」
「え?」五十嵐は曖昧な声を発した。「はあ……」
「ずいぶん長くかかったね」話しながら、老人はゆっくりと五十嵐の隣まで近づいてきた。「それとも君にとっては一瞬だったのだろうか」
「ええと……」彼はさりげなく老人から身を離した。
「これが気になるのかい?」老人は優しい口調のまま、人体模型を示した。
「えっと、まあ、そうですね」彼もまた、ガラスケースに向き直った。「人体模型を見るの初めてで……」
「これは人体模型なんかじゃないよ」老人は笑った。
「えっ」彼は驚いた。それからもう一度、目の前のそれをよく見た。「だって、見るからに……」
「見た目はその物の本質を表さない」老人は同じ口調で続けた。「ここにある物すべてにそれが当てはまるよ」
「はあ……」彼は心の中で首をひねった。「じゃ、これは何なんですか」
「これはね。人々を手助けするため、あるいは人々の分身になるために作られた物なんだ。今でいうロボットとか、AIスピーカーのような物だね」老人はそっとガラスに触れた。「もっとももうこれ自身が、本来の機能を忘れているだろうけれど」
「へえ……」変な人に会ってしまった、と彼はこっそり考えていた。いつもは来ない場所に寄ってしまったばっかりに。ぎこちない沈黙が二人の間に生じた。時間と物たちの静寂の中で、彼も老人も少しの間、次の言葉を続けなかった。
「あ、ぼくはそろそろ……」遠慮がちに彼は切り出した。「ありがとうございました。素敵なお店で。また来ます。じゃ、失礼します……」
 そう言うと、彼は逃げるように老人に背を向けた。どうしてか今になって、彼には一刻も早くここを去らなければいけないような気がしていた。
 だがそそくさと出口へ急ぐ彼のことを、老人がまた呼び止めた。「ちょっと待ちなさい」静かなのに、どこか抗えない感じの声だった。
 彼は思わず立ち止まって、また振り返った。
 声の響きに反し、老人はにこにこと微笑んだままだった。こんなに愉快なことはないとでも言いたげな表情だった。顔の皺がすべて溶けて落ちていきそうな、先ほどまでとはまた少し違う笑顔を老人は浮かべていた。
「君、住所を教えなさい」老人は言った。「これを譲ってあげよう。これの方も君が気に入ったようだから。これはきっと運命だと思うよ、君」
 静寂が部屋をゆっくり流れていた。「はあ……」沈黙に負け、彼は頷いた。
 その間もガラスケースの中で、人体模型にしか見えないそれはずっと、決して動かないふたつの目を、真っすぐに虚空へ向けていた。

(2)

 そして次の日曜日。それは本当に五十嵐が住むアパートに届いた。
 呼び鈴が鳴らされた昼過ぎ、彼はまだ部屋で寝ていた。目をこすりながらドアを開けると、巨大な包みを抱えた男が外に立っていた。
「あ、サインお願いします」配達員の男は言った。「ありがとうございます。じゃ、これどうぞ。あ、めちゃくちゃ重いので、気を付けてください」
 確かに包みは重かった。玄関やキッチンをひきずり、彼は部屋までそれを運んだ。ずるずると嫌な音がした。下の住人が聞いてないといいんだけどと彼は思った。ようやく部屋の中央まで運んできたときには、彼はへとへとになっていた。
 使い古したカーテンのような布で、荷物は何重にもくるまれていた。遺棄される死体のようだった。少しだけためらったあと、彼は布を留めているテープに手を伸ばした。ゆっくりと慎重に、彼はテープと布を剥がしていった。
 一枚、一枚と布を取るたび、埃の臭いが部屋中に広がった。布をすべて剥がし終わったのは、およそ二分後だった。大量の布が散らばった部屋の中央には、一体の人体模型が立っていた。先日見たのと同じものだった。店主は約束を守ったのだ。彼は部屋を見渡し、少し考えた。それから、彼はそれを抱えて持ち上げると、さらに部屋の隅まで運んだ。ゴミ箱やマンガ本を足でどかし、空いた空間にそれをゆっくりと立たせた。
 ガラスケースの中に入っていないそれは、先日店の光の下で見たときとはまた違って見えた。どうしてかそれを自分の部屋の中で見たとき、それがただの物であることを彼はより強く意識した。どんなに人間のように見えても、それはただの物でしかなかった。他の全ての物と同じように。店でしたのと同じように、正面からしばらく彼はその人体模型と向き合っていた。そしてそのうち、彼の心はいつしか、満足感で満たされていった。自分でもよく分からない何かに対して、彼はいつの間にか深く満足していた。
 しばらくそうしていたあと、床に散らばった布を彼は片付けはじめた。無意識に鼻歌を歌っていた。そして布の一枚を拾い上げたときだった。カタリとかすかな音を彼は聞いた。
 名刺ほどの大きさの一枚のカードが床に落ちていた。彼はかがみこんで、そのカードを拾い上げた。鉄製で、触れると冷たかった。彼はカードの表裏を確認した。『名前はノストルム』、カードにはただ一言、そう書かれていた。
 ますます彼は可笑しくなった。『ノストルム』という名称を、彼は飴玉のように口の中で転がした。そうするとどんどん可笑しくなった。
 ゴミ袋をまとめたあと、彼はソファに身体を投げ出した。それから再び、部屋の隅にある人体模型―ノストルムを見た。相変わらず、無関心な表情に固定されたまま、ノストルムは真っすぐそこに立っていた。
 その時ふと、彼はあることを思いついた。自分のその思いつきについて考えると、彼はもっと可笑しくなった。
「ノストルム、」彼は言った。「電気を消して」
 次の瞬間。天井のライトが消え、部屋が薄暗くなった。
 彼は声にあげて笑った。こんなに可笑しいことは本当にずっとなかった。
「ノストルム」笑いがおさまると、彼はまた口を開いた。「電気を点けて」
 部屋はまた明るくなった。
 そして彼の笑い声がまた部屋で響いた。

 それから。彼の生活はずっと楽になった。彼の身の周りの様々なことを、ノストルムにさせればよくなったからだ。
 ノストルムに何かをさせるのはとても簡単だった。最初のときと同じように、ただ名前を呼び、次にしてほしい内容を言うだけでよかった。たったそれだけで、ノストルムは何でも彼の頼みをこなしてくれた。たとえそれがどんな内容でも。
 初めのうち、彼は生活にまつわる雑事をノストルムにさせた。ゲームを起動させたり、エアコンの温度を調節させたり。あるいは明日の天気をテレビ画面に表示させたり、amazonで物を購入させたりした。彼が何を言おうと、ノストルムがそれに対して、何か反応を示すことはなかった。ノストルムはただ人体模型らしい見た目のまま、部屋の隅に立ちつくしていた。
 従順なノストルムは、彼のどんな命令にも応えた。

 そんなある日のことだった。その日、仕事で彼は遅く帰ってきた。
 部屋に上がるなりすぐ、彼はソファの上に倒れこんだ。彼は疲れ果てていた。それでもまだ、やらなければいけないことが残っていた。明日会社に着ていく服も洗濯していなかったし、会議の準備も終わっていなかった。だがその日の彼にはもう、そんなことをする気力はなかった。
「ノストルム、」天井を見上げながら、彼はいつの間にか、ノストルムに語りかけていた。「明日の会議の準備をして」そこで言葉を切った。それから、もう一度口を開いた。「いや、もういいや。もういい」彼は言った。「ノストルム、明日おれの代わりに会社へ行って」
 物言わぬ人体模型はその時もやはり、何の反応も示さなかった。
 その後。急激な眠気が彼を襲った。
 瞼が閉じ切る前の一瞬、何かが彼の顔を覗き込んだ気がした。

 彼が次に目を開けると、部屋はすっかり明るくなっていた。カーテンの隙間から昼の光が射しこんできていた。空気はとても穏やかだった。
 彼は飛び起きた。だがその時にはもう、自分がやらかしたことを彼は悟っていた。ポケットからスマホを取り出した。画面を見ると、時刻はすでに九時を回っていた。頭をかきむしり、彼は部長に電話をかけた。
「はい」声はいつも通りとても不機嫌そうだった。「もしもし」
「あ、部長」しどろもどろに彼は話した。「すみません。五十嵐です。ちょっと寝坊してしまって。今から準備していきます。すみません。本当に」
「五十嵐?」困惑している様子だった。「五十嵐なら、もう出社してますよ」思いっきり不審そうに部長は続けた。「あなた、どなたですか」
 何も言わずに、彼は電話を切った。それからゆっくりと振り返った。
 昨晩まで人体模型―ノストルムがずっと立っていた場所に、ただ空白だけが残されていた。

(3)

 それから。彼はノストルムを自分の代わりとして、毎日仕事にも行かせるようになった。そしてノストルムと丁度入れ替わるように、彼の方が一日のほとんどを、自分の部屋の中で過ごすようになった。
 仕事に行かなくてよくなったので、彼が起きるのはいつも正午過ぎになった。何かを取り戻そうとするかのように、ひたすら身体が眠りを求めた。彼はただ素直に欲求に従った。起きてからは、適当に食事を取った。それから、ネットの動画を見たり、ゲームをしたりした。他に何をするでもなかった。何かを考えることもほとんどしなくなった。使う必要がなくなり、脳も機能を停止したような感じがした。
 ノストルムと入れ替わり、こんな生活を始めてから、彼は時間がだんだん奇妙に引き伸ばされていくように感じていた。以前とは違う時間の流れの中で、彼はだいたい天井を眺めて過ごした。そうしていると、自分が何かからすっかり解放されたような気がした。今まで彼が縛り付けられていた何か大きな形式やら何かから。とてもいい気分だった。少し怖くなるほどいい気分だった。時間はひたすら薄く伸びていった。
 ノストルムが家にいることはほとんどなくなった。彼が遅く起きる頃にはもう当然、ノストルムは部屋にいなかった。帰りも遅かった。ほとんど真夜中になったあと、思い出したように彼が部屋の隅に目をやると、ノストルムはいつの間にか、そこに戻ってきているのだった。だが彼の代わりに仕事に追われるようになってからも、ノストルムの姿には特に変化が見られなかった。部屋の中にいるとき、ノストルムはあくまで一体の人体模型として、部屋の隅に立ち続けていた。雑事を言いつければそれにも応えた。だが流石に、彼のほうが次第にノストルムに気を遣うようになった。彼は時々、ノストルムのボディーを拭いてやったり、埃を払ってやったりした。
 仕事においても、ノストルムは特に問題を起こしていないようだった。彼のパソコンやスマホには、同僚や取引先から以前と同じように、仕事の連絡が送られてきた。連絡の内容を見ても、特に彼らが不審がっている様子は見られなかった。何ならそれぞれの連絡からは、彼自身よりもずっとノストルムの方が、仕事をうまくこなしているような印象さえ受けた。

 やがて彼は仕事以外においても、ノストルムに自分の代わりをさせるようになっていった。
 役所や病院へ行く用事があれば、彼はそこにも当然のように、ノストルムを行かせた。休日に友人などと会う予定があっても同じようにした。誰一人として、ノストルムが彼と代わっていることに気付く者はいなかった。役所の職員も、かかりつけの医者も、彼の恋人や家族でさえも。
 そこに至るころにはもう、ノストルムが彼の代わりであるというより、ノストルムこそが彼自身であるという風になりつつあった。

 そしてあっという間に時間は過ぎた。
 彼は今やあまりにも時間を長く感じるようになっていた。以前までの一時間は一年に、一日は何十年にも感じられた。いつまでも日は沈まなかったし、いつまでも夜は明けなかった。
 だからある日。彼はついに決心して、久しぶりに部屋を出ることにした。
 玄関のドアを開けると、眩しすぎる光が彼を貫いた。すっかり硬くなっている手足を動かして、彼は歩みを進めた。
 彼が部屋にずっといた間に、街は以前と変わったようにも見えたし、まるで変わっていないようにも見えた。そもそも別にどちらだとして、今の彼にはあまり関係がなかった。
 特に行く当てもなく、彼はただ街を歩き続けた。薄暗い通りを抜け、誰もいない交差点を渡り、錆びついた歩道橋を渡った。どこへ向かっているわけでもなかった。
 そしてその時。歩き続ける彼の頬を、淡い光がかすめた。彼は顔を上げた。すると、どこか見覚えのある洋館が、丁度彼の目の前に建っていた。建物を目にし、彼は立ち止まった。しばらくぼんやりと建物を見上げていた。それから、まるで吸い込まれるように彼は建物に近づいていった。
 音のしないドアをくぐると、彼は店内に足を踏み入れた。
「おや。おかえり」老人が笑顔で彼を迎えてくれた。「今回はとても早かったね。それとも、君にとってはずいぶんかかったんだろうか」
 彼は入口近くに真っ直ぐ突っ立ったまま、老人に何も答えなかった。
「まあ、大丈夫。とにかく、もう大丈夫だから」老人は穏やかに続けた。「さあ、いっしょに行こう」
 そう言うなり、老人は一度店の奥に引っ込んでいった。そして一分ほど後、小さな台車を押して戻ってきた。まだ立ちつくしている彼のすぐ隣に、老人はその台車を停めた。それから、老人は彼を持ち上げると、傷つけないよう慎重に、彼を台車の上に乗せた。
 そして老人が押す台車に乗って、彼は店を運ばれていった。
 二人が進んでいった先には、一台のガラスケースが置かれていた。ケースは空っぽだった。完璧な静寂がその中にあった。
「さあ、中に戻ろう」老人の手が彼の背中に触れた。「ノストルム」
 そして再び、老人は彼を持ち上げた。ガラスケースの中に入れると、ゆっくりとその中央に彼を下ろした。立たせる向きを確認して、最後に満足げに頷いた。
 彼の目の前で、静かにガラスの扉は閉まった。
 また台車を押して、老人は店の奥へと去っていった。
 老人が去ってからも、彼はガラスケースの中で立ちつくしていた。長いことそのままだった。様々な物たちに囲まれて、彼は一人きりだった。
 それから突然、店内の電気が落とされた。
 店内が一瞬のうちに暗くなった。そして、鏡のようになったガラスの上には、人体模型である彼の顔が映っていた。

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