🥇さま 31 サラエボ


バルカンを知るための66章の地図

103、シュヴァーボ(19世紀末のオーストリア=ハンガリー帝国時代にサラエボにやってきた、インディッシュ語を話すドイツ系移民の子孫)ドイツのユダヤ人は会合をよく開いており、貨物船を使ってパレスチナ・イスラエルに行った若者が割といた。(著書の空想上の可能性があるので調べてください)

104、1940年裕福ではない家庭の女性は15歳でも洗濯物の配達や銅釜の番(つまり洗濯)の仕事をやっていたりした。

105、シュヴァーボの若者たちはドイツから伝わってくるニュースが悲惨になるのと比例して旅立つ者が増えていった。

106、オーストリアの併合によってドイツは国境地帯に迫っていたけど、サラエボのユダヤ人地区センターは、戦争は他人事で敬虔な人々は金曜の夜にオネグシャバッド(安息日を祝福して催されるユダヤ人の社交的集会)を行っていた。

107、頼りない政府でもファシストのギャング団には目を付けていたが、サラエボに住むユダヤ人に危機感はなかった。(だがユダヤ人ってだけで嫌がらせを受けていた。)

108、プリシュティナ(コソボの首都)のアルバニア語を話すイスラム教徒の移民がサラエボに住んだりしていた。(1940年時)

109、サラエボは宗教があり過ぎて宗教対立の嘘か、或いは本当の式たりなのかサラエボ在住者にさえよく分からないことがあった。
例:アルバニアでは結婚する日には、花嫁は夜明けから日暮れまでじっとしていなければならず、結婚式でも何もしてはいけない。微笑むことさえ不謹慎で固く禁じられている習慣がある。という噂があり、サラエボ在住者にさえ、ある宗教の信者が別の宗教に関してでっち上げた嘘なのか分からなかった。

110、1941年4月ユーゴスラビア軍が降伏した。

111、1941年初夏にユダヤ人の連行が始まった。ただえさえ強制労働をさせられていたのに、強制労働収容所への移動を命じられたが、トラックの行き先は強制労働収容所ではなかった。1941年の年が終わる前にヘルツェゴビナの虫食いだらけの石炭岩の山へと行進させられた。ユダヤ人、セルビア人、ロマはウスタシャの歩哨に両足の膝腱を切られて、奈落の底に突き落とされた。

112、そして夫や息子が強制連行されたユダヤ人の女の名簿を手にしていたから、女たちを集めてトラックに乗せて廃墟と化したシナゴークに連れて行った。

113、水面下で優しいイスラム教徒がチャドルを貸してユダヤ人たちを助けてくれていたりしていた。

114、しかしイスラム教徒にも酷い人もいて、シナゴークに火をつけて略奪してウスタシャのように大喜びしているものもいた。だけど、それはほんの一握りのイスラム教徒だった。

115、サラエボのパルチザンも山で活躍していた。パルチザンの協力者とかもいてこっそり水面下で助けていた。(どこの国もパルチザン=山ばっかりですね…)

116、パルチザンはシラミに悩まされていた。髪だけでなく服にも付いたりするから、熱消毒でシラミとシラミの卵を殺していた。(シラミに関係なく布団のダニ対策も科学的観点から言うと日干しの日光浴よりも乾燥機で温めた方が殺傷効果があるからオススメです。)

117、パルチザンにとって子供はスパイに役に立つ(今の戦地と同じ子供スパイは舐められるから敵の偵察に最適)

118、シラミがいると発疹チフスになるからシラミはパルチザンにとって脅威だった。

119、第二次世界大戦時中パルチザンの間では、仲間同士の武器や物資の配給の為に、ラバが武器や無線や薬の移動の際に使われていた。

120、パルチザンと協力関係にあった、物資の投下地点にイギリスのスパイパイロットの為に物資の投下地点の目印として、狼煙が使われていたりしていた。イギリスのスパイはパラシュートがついた箱を次々に投下していた。

121、パルチザンにも種類があり敵につかまりそうになったら手榴弾で出来るだけ多くの敵を道連れにして自爆するように言われていた。拷問され他の仲間たちについて口を割らない為である。

122、イギリスのスパイがくれた物資配給に使われたパラシュートは包帯として使われた。

123、パルチザンやラバの足跡がドイツ兵に見つからないように苔むした石を足跡に置いて隠していた。

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