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処女作「出現するエロ魔人」

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このまえ、五日間の絵のワークショップに参加して、しゅんちゃん先生のもと、高校一年生の美術の時間ぶりに絵を描きました。アクリル絵の具で。大きさは65×53cmです。

今回は、そんな僕の処女作「出現するエロ魔人」についてご紹介したいと思います♡
ちなみに、芸術は人生と同じで、観る人の数だけ解釈や正解、捉え方があると思います。なので、あくまでその中の1人としての解説だと思って読んでください。あとは前提として、この絵は考えて描いてないです。感じたままに描いた結果、様々な気づきやメッセージがありました。この記事は、その感じたことを皆さんにお伝えできたらなと思って書いています。

制作過程

アクリル絵の具って、何回でも書き直しできるんです。なので、五日間のうち四日間ほど、何回も描いては上から新しくぬってを繰り返していました。

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写真の絵達、全部同じキャンバスです。多分この写真の種類の倍以上は上から塗りつぶし続けたと思います。

制作過程の特徴としてもう一つ、自分の身体を使って描いてみました。かかとで描いてみたり、背中で描いてみたり、ハグしながら描いてみたり。キスもめっちゃしてみました♡イチャイチャできて楽しかったなぁ。

描く中での気づき

完成させる前に、やっぱり違うと、描きなおす。また、描きなおす。やっぱりおれ、一つの事具体的に突き詰めるの苦手なんだなぁと絵からも教えてもらった。色んなこととか表現には手出せるんだけど、一つを徹底的にやり切ることへの恐れを感じました。言い換えると、覚悟をもって舞台に立つことへの恐れ。やり抜くことへの恐れです。これ、俺にとって結構大きな敵でもあり逆の目線から見ると、大切なことを教えてくれる盟友だなと思います。これからもしっかりと向き合っていきたい。

もう一つの気づいたこととしては、やっぱり全体性とかつながりとか、全てと一体になる感覚とか、全てを含むこととか、そういうニュアンスの世界観が大好きなぼく。全身を使って描きたいなと思ったのは、そんな自分の全体性をキャンバスに写したいと思ったからです。あとは、全身で描いた方が、自分の動きが大きくなるにつれて、絵に対するエネルギー感とか感情も高まる気がした。キャンバスとしての「モノ」ではなく、一つの「生命」としてキャンバスと対等に向き合いたいと思ったのかもしれない。俺の良いところだねっ☆

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あとは、雨の中晒してみたり、テニスボールに絵の具を塗って投げて色を付けたりもしてみた。一見偶然にみえる色んな事柄にも必ず意味があると思っていて。だから、そのプロセスを信頼してキャンバスを自由にしてみる。自分以外の外からの力に委ねてみる。きっと、一生懸命描いてあと一歩で完成のところで誰かに絵にコーヒーを溢されても楽しめる気がする。全てはメッセージである。絵を描くことを通じて、そんなことを想う自分も発見できました。

最終的には、エロ魔人、出てきました。最終的に描けたのは、あんまり明確に覚えていないんだけど、グサッとしゅんちゃん先生の言葉が胸に刺さったからだと記憶している(なんて言っていたか覚えていない笑)。それを聴いた瞬間に、このままゆらゆら色んな絵を描くのも悪くはないんだけど、そんな無責任で居続けるのはいやだなと感じたんだと思います。上にでてきた、敵でもあり盟友でもある自分と向き合いたいと思ったんですね。

絵の説明

さあ来ました絵の説明。一応もう一度貼っておきますね。題名は、「出現するエロ魔人」です。

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まず、キャンバスの右下の文字「しゃもじ・ぱんつ」(黒の影が、ぱんつにもしゃもじにも見えませんか?笑)。これ、どういう意味かと言うと、自分の中のしゃもじからぱんつまで愛したいということです。ぱんつって、大人になるにつれて、下着って言い換えたりします。うんちとかと同様、周りの目を気にして、周縁化(重視されない存在として隅に追いやる)されやすいものだと思うんです。

描いている時の俺にとっての、人々から周縁化されやすいものの象徴。ぱんつ。

そんなぱんつは、自分にとって、自分の中の子供じみた、無邪気な、狂気じみた、少し気持ち悪い部分、人に簡単に理解されないであろうと思っている部分、だが、実はとっても大好きな自分です。

しゃもじは、ご飯次ぐ時に使うあれです。炊き立てのご飯はしゃもじと揃って「幸せ~」になるんです♡ 僕にとっては、形からもその使い道からしてもしゃもじってめちゃくちゃ暖かくてほっこりして大好きなんですよね。

そんなしゃもじは、自分にとって、やさしさ・笑顔の象徴です。暖かく、調和のとれる、他者を尊重しつながりを大切にする自分でありたい。そんな想いが込められています。

ぱんつもしゃもじも、どっちも大事です。どっちも大切です。でも、もっと言うと、ぱんつからしゃもじまで大切なんです。ぱんつとしゃもじは、自分の中のほんの一部なんですよね。絵でも、ぱんつしゃもじの黒の影が、その下とつながってますよね?自分の全体性を捉えると、ほんの一部です。ただ、対極なだけ。じぶんにとって、対極に存在する自分なんです。間には、もっともっと言語化をすることが難しい、多様な自分がいます。そしてそれらは、すべてどこかでつながっていて影響しあっているんです。そんなみーんな全て愛しています♡

描き終わってから気づいたんですが、そんなぱんつしゃもじとつながっている全体は、黒ですね。カオスなんです。いろんな色が混じると黒になるのと同じように、いろんなその人が混じると、本質はカオスなのかもしれません。そんなカオスを見ると、ついつい尻込みしてしまいます。怖い、黒色の部分だけが大きく見えてしまったりしますよね。でもそれは、きっとその怖い部分だけが強調されて、黒に見えているだけだと思います。ほんとはもっとカラフルな色がまじっているんだと思うんです。黒の背景には、カラフルがある。だから、本質はカオスじゃなくて、オアシスですね。あぁ、なんでカラフル色は存在しないのだろうか。そんなことを想いました。あ、でも、すべてつながっているという点で考えると、カラフルなすべてが混ざると黒一色になる。色んな人が個性を輝かせた時にはじめて全てが一つになるというのは素敵な世界観かもしれません。

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そんなぱんつとしゃもじを持つのが、どうしてエロ魔人なのか。ぱんつからしゃもじのパラメーターがあったとしたら、確実にパンツよりですよね。これは、一つの側面としては、この絵を描いたときの自分が現れているんだと思います。大学を辞めて、ニートになり、コミュニティに属したりする中で、もっともっとぱんつ寄りに生きたいと思ったんです。ただただ、ぱんつ寄りな自分を打ち出していきたいと。ぱんつを破り、生身の自分を打ち出していきたいと。

もう一つの側面としては、客体としての自分。言い方を変えると、うつわとしての自分や、プレイヤーとしての自分を表しています。生きている中で、色んなことを感じる自分、キャラクター、個性、アイデンティティがあると思います。さらには気分が落ちたり、調子が良かったり。様々です。日により、時間により変わるものです。その一つ一つと毎回同一化せずに、一歩引いた目線から、事実を、あるがままを、冷静に捉える視点も持てること。どんな状況状態にいても、自他への感謝と尊敬、初心の気持ち、遊び心を忘れずに生きれること。うつわとして全体を包めること。プレイヤーとして、この瞬間を遊び、興味深いシーンにしていくこと。全体性を持ちながらも、どれかを選んでいるという感覚で在れること。そんな、全体性の根幹にある自己が表現されています。自己であり、自己でないのかもしれません。その自己は、自分にとってはユーモア溢れる存在が好ましいんです。ユーモアを持てば、どんな状況でも、矛盾ばかりを感じていても、笑えます。フフッと笑えれば、なんか力が湧いてくる感じもするんです。自分の奥底には、どんな状況に陥ってもニヤニヤと面白がって、笑っているエロ魔人がいるんです。エロ魔人は、エロとユーモアとユニークの神様です。だからきっとエロ魔人が出てきたんだと思います。

ちなみに、右下にいるのは、モンスターです。全体性を生きていこうとするときに、それを色んな手段で止めに入って来るモンスター。ほんとは良いやつなんですけどね。

そしてこの、ぱんつからしゃもじ現象や、黒色とカラフルの話、エロ魔人などは、人一個人だけではなく、フラクタル構造としてコミュニティや世界の動きの中でも見られるものだと思います。そのどの段階においても、ここまで書いたことを大切にしたいと心から想います。

終わりに

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。五日間描いていたといいうことも、一緒に描いた仲間がいたということもあり、色んな側面に触れられるストーリーが詰まった作品となりました。そのすべてに感謝です。最近、とりあえずキャンバスを四個くらいネットでポチったので、また描きます。ありがとうございました。最初にも書きましたが、この解説は、あくまでも"僕が感じた"ものです。みんなにも何か感じたものや気づきがあったら教えて欲しいです^_^

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