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0か100

先日、星野智幸『だまされ屋さん』という本を読んだ。

その感想というか、思ったこと。

人は、信じるか疑うかの選択を迫られた時、白か黒か、0か100か、信じるか疑うかで解決したがる。私も、そう。この面では疑わしいけど、でもなんとなくいい人そうだから、ちょっとだけ信じる、みたいなグレーゾーンを設けることは、曖昧で、「結局どっちなの?!」っていらいらして、もやもやする。
「だます」「だまされる」の状況にであった時も、だます方が悪いと思いつつも、だまされた自分の方がバカだったと、自分を責めたりして、信じなきゃよかったと後悔もする。

『だまされ屋さん』では、怪しくて、どう考えても裏がありそうな人物が出てくる。何が目的か分からない、いい人のふり(?)をしているけど、本当に「あなたは何者?」的な人物。そういう人物を心情的な寂しさから受け入れてしまったり、今のところ害がないから、いいことにしようと思ったりして、登場人物たちは、自分たちの抱える本質的な問題を解決していこうとする。

今は、詐欺、陰謀論、フェイクニュース、(ちょっと古いけど)オルタナティブ・ファクトがあふれていて、人は信じるということに寛容になれなくなっている。
例えば、一つの情報を信じていて、他の相反する情報を示された時、ものすごく反発して、「そんなのは嘘に決まっている」とか、「ほら、やっぱり信じちゃいけなかった!」とか、一つの自分が信じてきた情報に固執して、新しい情報を受け入れたがらない。
新型コロナウイルスのワクチンについても、ワクチン接種を受けるか受けないかの判断を例にとれば、「臨床試験では有効とされているし、多くの人の命を救う可能性が高いと分かっているけれども、今までのワクチンとは全く違う作り方をした新しいワクチンだから、どんな副反応が起こるか分かりません」という一文を読んでから、アナフィラキシーショックが起こるかも、因果関係ははっきりしないけど、血栓ができるかも、脳梗塞になるかもという、安全とは真逆の情報を得ると、そういうこともあるのだと分かりつつ、ワクチン接種について、自分なりに考えがまとまるし、副反応について聞かされても、ショックは少ない。
極端な例が、子宮頸がんワクチンだと思う。ワクチンの接種をすれば、子宮頸がんになる可能性は著しく下がると、どの国(世界的に)でも示されているのに、日本ではワクチン接種を始めた時に、手足の震えで日常生活ができなくなったという一部の人の副反応を、大々的にメディアが伝え、よく分からないなと思っていた多くの人たちに、「子宮頸がんワクチンは危険」という認識を与えてしまった。それ以来、日本では子宮頸がんワクチンの普及は進んでいない。
アメリカのある陰謀論についての研究では、一つの情報と、それに反する可能性のある情報を事前にもらっていた人ほど、陰謀論を信じにくいという結果もあるそうだ。

長くなってしまったけど、元の話に戻る。
「これは安全・正解」、「これは嘘」と多くない情報の中で、決めてしまうことは、危険だ。「どっちか分からない」というグレーゾーンを許容することは、とてもストレスフルだ。だまされているかも、よく分からないと思いつつ、判断をペンディングするのだから当然だ。しかしながら、一時の情報や感情で、「信じる・信じない」の判断を下してしまうことは、自由でも自発的な思考によるものでもないことが多い。
グレーゾーンを生きること、一つを信じ切るわけでもなく、一つを疑い切り捨てるわけでもないという立場は、本来はとても自然で、とても自由度が高い。世の中、0か100で判断できることの方が少ないのだから。

『だまされ屋さん』を読んで、正解や嘘というものの見分けが難しいのに、スピーディーな判断が求められる時代において、グレーゾーンを許容する力の重要性を感じた。
「まあ、様子をみて、気長にやろうや」と構えることも、一面においては大切だということ。
もちろん、様子見をしすぎて、時機を逸しては意味がないのだけど。

#思うこと #文章 #日々 #最近の学び #読書感想文 #0か100

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