意見の違いを見下すこと

最近、違う意見が認められないという場面で、どうしたものかと思う時が増えた。

例えば、国葬(儀?)。例えば、戦争。例えば、宗教。

なんか、変だ。納得がいかない。何故だろう。何が自分は気に入らないのか。

自分が思うような答えや結果が得られることの方が、少ない。そういうものが世の常なのに、いまさら何をモヤモヤするのか。

考えてみて、多分にして、私がモヤモヤするのは、筋が通らない(と私が思う)ことが筋としてまかり通り、筋だろうと思うことが「時間の無駄」とか、「またばかなこと言って」とか、「そういう批判もありますが、批判する人も場をわきまえてほしい」とか言われる時だ。なんで、色んな意見があって当然なのに、それが同じ土俵にも乗れないのかと感じる時だと思う。なぜ見下されるのかと感じる時だと思う。

無力感。理不尽感。

そもそも何かの力(権利?)を行使したいと思っている訳でもないけど、「あなたの思っていることは、くだらないことです」「へそで茶が沸いちゃうぜ」と見下されることが、とてつもなく悲しい。それがモヤモヤの理由だと思う。

例えば、私はデモに行かないし、デモをしている人達を応援したこともない。デモ行進(自体)がいいと思うこともなかったり、なかったり、あったり。

だからといって、デモをする人達の主張が、まったく道理の通らない、くだらないものだと思ったことは、あまりない。ほとんどない。

やりたいんだろうな、と思う。

それだけ切迫して、主張したい思いがあるんだろうな、と思う。

やらずにおれない気持ちがあるんだろうと思う。

実際デモをやっても、客観的に見てあまり意味がない(結果に直結するようなこと)ように思われる。でもやってる本人たちが、きっとそんなことはもう気づいていることだろうなとも思う。そのデモを見て、「無駄なことだ」と揶揄する人は、何を思って生きているのかと思ったりもする。それをあえて言うことに何か意味があるのか。

「あの人たち、あんなに熱くなってアホだね」

というシラケた視線で見て、逆に恥ずかしくないのかと思う。

同じことを、あなたもされる日が来るかもしれないのに。

違う意見であること、納得のいかないできごとに怒りや理不尽を感じること、それは誰でも経験すること、経験しうることなのに、どうしてそんなに上から目線でバカにできるのか。

世界はあなたの一人勝ちではありえないし、あなたが常に正しく、主張が通る側とも限らない。

ありえない! 許せない!

と次思ったとき、笑われるのが今度は自分かもしれないと思ったら、そんなに人と自分を分け隔てすることに、執着できるものだろうか。あの人たちはおかしくて、自分は正常、みたいな。

様々な意見に賛成するとか反対するとか、応援するとかしないとか。

それは是々非々でいいと思う。

意見が違うとき、どうしたものかと考えて、対立する本当の原因はなにかを見極める。

ささいなことかもしれないし、手が付けられないほど、込み合った事情があるかもしれない。

でも、人が生きていくというのは、そういうことの繰り返しだと、私は思う。

意見が違うのは、私たちが違う人間で、違うように生きて、違うように生活しているから。もっと理由があるかも。

当たり前のこと。

だったら、その意見の違いに上下はないし、誰かが見下せる理由もないし、正常も異常もない。

デモという形が主義主張を唱える時、今は取りやすいのか、その活動の仕方に賛同し、参加しやすい世の中なのか、よく分からないけど、誰もおかしくなんてない。

そうであってほしいと思う。

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