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悩みとコメントで思うこと

日々noteを書いていて、私も悩みを書く。

他の方も書いていらっしゃる。

その悩みわかるなぁ、と思うと、スキを押したり、コメントを……と思う。

だけど、コメントはためらって、やめてしまうことが多い。

前に、ある悩みについて、自分が思うところをコメントとして書いた。「私の悩みをわかった気になって!」「あなたはそういう成功体験があるからいいわよね!」的な怒りをかったようだ、不快に思われたようだという経験があって、なんだか臆病になった。noteではないけど、SNS上でのやりとりだった。

その時も、同じ(ような)悩み、理解できそうな悩みを持っていたからと言って、別に上から目線でコメントを書いたつもりはなかったし、励ましのつもり、悩みは悩みでも考え方は色々よというつもりで書いた。でも、逆鱗に触れたようだ。

その人は、同情とか、酷いね、辛いね、こんな理不尽ないよね、というコメントや反応を期待していたのか。。。今となってはわからない。妙な励ましは不要だったのかもしれない。書き方が問題だったのかもしれない。

難しいなぁと思う。

悩みというのは、どんなに些細なことに見えても本人は必死だ。また、些細なことでなくても、特殊すぎて、こちらは状況把握が難しい悩みもある。

ある一面を見たら、「たいしたことないよ!」というコメントができたとしても、

実はその一面の奥に、もっと深くて根深い問題があって、それを上手く書けないまま、noteやつぶやきの記事になっている可能性だってある。

そうなると、軽々しいコメントは、悲しいし、傷つくし、苛立つし、ムカつくこともあるだろう。

自分の悩みをそんなふうに扱われたと思えば、「こんなやつ!」と思うかもしれない。

「分かるなあ」と簡単に言うことさえ、なんでだかためらってしまう。

話は少し変わるけど、ウィル・スミスさんが司会者を平手打ちした事件。心無いジョーク(?)を言った司会者は無罪放免で、暴力をふるったとしてウィル・スミスさんは罰を受ける。

なんだか納得がいかないと思う。ひとつに、その司会者の言葉をなんで誰も非難しないのかということ。でもそれは、司会者への批判をするのが、判断するのが自分じゃなくて、社会とか世間とか常識とかいう目に見えないものに、非難する権利を預けてしまっている事実、側面があるというニュースを見た。

司会者の言葉を、ダメなんじゃないかと自分が判断して非難するんじゃなくて、世間が黙っておかないだろう、こんなことを言うなんて非常識のはずだ、と考える。みんなそう思わないの? と。

自分のスタンスより、誰かが代わりに司会者を罰してくれるのを待っている。
そういうことらしい。

たぶん、SNS上の悩みへのコメントも同じだ。

「こんなやつ!」「上から目線で偉そうに!」と怒りをかったとしても、自分がどう思ったかを真摯に書くことの方がきっと大事だ。なのに、勇気が出ない。

それは、自分が思ったことを書いたとして、それが相手の意にそまなくて、せっかく繋がった人を裏切るようなことをしたくないからだし、私が嫌われたくないからだ。みんなと同じような反応をすれば、没個性にはなるとしても、反感を買うことは少ない。

自分がちゃんと分かりもしないことを、知ったかぶってコメントするなんてどうなんだろう、と思うこともある。

でも、悩みを一瞬でも分かったなら、きっと「分かるよ」と言った方が気持ちがいいし、「困ったね」とコメントすることは悪いことではない。

何がどうして、コメントをためらわせてしまうのか。

誰に何と思われようと、私はこう思う、こういうのはよくないと言えないのが、日本の同調圧力というものかもしれない。

「同情するなら金をくれ」

とは言わないが、コメントはきっと、悩みや発言にただ同情するための機能じゃない。人と交流するためのツールだ。同情もある時は必要だろうけど、誰かの思うことやコメントを受け入れられる懐の広さや、今度は自分が上手く伝えられる強さが欲しいなと思う。

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